第漆頁 本多正純……『釣天井』を捏造された嫌われ振り

名前本多正純(ほんだまさずみ)
生没年永禄八(1565)年〜寛永一四(1637)年三月一〇日
寵愛してくれた主君徳川家康
寵愛された能力父譲りの謀略の才と縁、経理・実務の才能
嫌った者達大久保彦左衛門等
略歴 永禄八(1565)年、徳川家康の重臣・本多正信の嫡男として生まれた。幼名は千穂千穂誕生時、父の正信は三河一向一揆で真古城、一揆方についたことから、徳川家を離れていたて、千穂は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたとされている。

 本能寺の変に前後して父が大久保忠世の取り成しで家康のもとに帰参すると正純も家臣として仕えるようになった。帰参した正信は旧武田家臣の徳川家への取り込み・豊臣秀吉死後の家臣団内紛煽りといった、裏方の知略に尽力し、暗に活躍した。

 そんな父に似て知略に優れていたことから家康に可愛がられ、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いでも家康に従って本戦にも参加。戦後、西軍の(実質上の)総大将である石田三成が捕えられて来るとその身柄預かりを家康から命ぜられた。

 慶長八(1603)年、家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた(そのときの対朝廷交渉者は正信)。そして、政権が徳川家の世襲であることを天下に示す為、僅か二年で敢えて駿府に隠居し、将軍職を三男・秀忠に譲って、自らは大御所となった。
 このとき、父・正信は江戸にて秀忠を補佐し、正純家康に追随して駿府にて補佐するようになった。謂わば、徳川家と本多家で父が子を、子が父を支えるようになった訳である。

 正純家康の懐刀となったことで内政・外交に辣腕を振るい、慶長一三(1608)年に下野小山藩三万三〇〇〇石の大名となった。
 この頃、徳川幕府は豊臣家を除けばほぼすべての大名の忠誠を得て、国内最強の存在としては盤石化したが、内部に問題を抱え出した。所謂「武功派と文治派」の対立である。
 豊臣政権を始め、軍事政権には古今東西多く見られることだが、勢力拡大までは「武」が重んじられ、安定期に入ると「文」が重んじられるようになり、場合よっては「武」は邪魔者扱いさえされる。勿論過去の栄光を抱える「武」はそれが面白くない。かくて両者は対立する……………との図式が徳川家も例外ではなかった。

 徳川家内部での対立はやがて「武功派VS文治派」というよりは「本多派VS大久保派」へとシフトした。三河時代以来、武で鳴らした宿将(本多忠勝、榊原康政、井伊直政等)の多くが天寿を全うしていたためである。
 慶長一七(1612)年二月、正純の家臣・岡本大八が肥前日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、加増を斡旋するという(虚偽の)約束したという事件が起きた。
 所謂岡本大八事件で、悪質な収賄を責められた大八は火刑という酷刑に処され、晴信も切腹に追いやられた。当然、大久保派はこれを厳しく弾劾したが、それでも家康の本多親子への信頼・寵愛は揺るがなかった。
 同年年末、駿府城が火災で焼失したときには、再建工事中正純家康の屋敷で暮らしていたほどであった。

 そして慶長一八(1613)年、今度は大久保派に不祥事が起きた。
 大久保派筆頭・大久保忠隣(おおくぼただちか)の寵臣・大久保長安が同年四月二五日に急死した。その長安の邸宅から大量の黄金が発見され、長安が私服を肥やしていたことが判明した。
 例によってこの事件も謎が多いのだが、処罰は単なる横領事件の域を越えて苛斂誅求を極めた。勿論佐渡金山奉行として黄金を横領していた長安が重罪なの間違いないのだが、長安の七人の息子が全員切腹させられ、長安の遺体をわざわざ引きずり出して磔にしたと云うのだから恐れ入る。
 当然これ程の事件は忠隣の責任を問うのに格好の材料で、本多親子が利用しない筈はなかった。長安一族への処罰が苛斂誅求を極めたのも、一説には黄金とともにその財力を利して徳川家を転覆させんとした者達の連判状が発見されたとも云われ、それを表沙汰に出来ないため、長安一族を酷刑に処し、その他の関係者は後々暗に処分されたと云う説もある。

 結局大久保忠隣はその年の暮れ、キリスト教禁教令徹底の為に上洛を命ぜられ、その留守中を狙って本多親子が将軍・秀忠に圧力を掛けたことで翌慶長一九(1614)年正月、忠隣は改易となり、その命令を京都で受けた。かくして派閥抗争は本多派の勝利に終わり、本多親子は幕政を牛耳る様になった(とするのはチョット誇張的だが)。



主君の寵愛 本多正純徳川家康に寵愛されたのは、何と云っても父・本多正信の影響が大きい。
 家康は周知の通り、織田と今川の二大勢力挟まれた三河の弱小大名・松平家の生まれで、今川家没落後も織田・武田・北条との同盟・対立に苦慮する青年・壮年期を送った。そんな家康にとって、直言居士揃いの三河家臣団は何物にも替え難い宝で、すべての家臣を大切にし、正信を始めとする三河一向一揆で離散した者すら帰参を認めた。
 そんな家康が特に寵愛し、「家臣」と云うより「友」としたのが正信だった。

 本多正信が知略に優れた男だったのは間違いないのだが、それと同等か、或いはそれ以上に家康と馬が合ったのも大きかった。本能寺の変から大坂の陣まで徳川家が行った数々の謀略は「家康考案」と云っても、「正信考案」と云ってもそれなりに納得してしまうものがある。
 勿論徳川家の知恵者はこの二人だけではなく、本能寺の変前なら酒井忠次・本多作左衛門(重次)、それ以後も大久保忠隣・土井利勝と云った面々が出て来るし、時期的な面子の変遷も多いのだが、それでも「家康&正信」のタッグはつとに有名で、歴史漫画等で家康の側近くで助言している老臣を見ると、名前が書いてなくても「ああ、こいつ正信だな…。」と想像してしまう程である。
 つまりはそれだけ一心同体とも云える中で、実際、家康が感情的になったり、余りに難しい内容だったりすることで何を云っているのか家臣達が分からなくなった際にも、正信は的確に理解し、「通訳」を務めたと云われている。

 それゆえ正信は家康が考え中のことや、言葉にしないことも正しく解して周囲に代弁し、そんな正信の還元には家康も素直に従った。「出戻り」で然したる武功もない正信が寵愛されることを面白くないと考える家臣は物凄く多かったが、それでもその言を否定したり、反対したり、認めなかったりする者は皆無に近かった。
 自分の寝室に帯刀して入ることすら許した正信の子・正純家康にとっては甥も同然だった。前述した様に、正純の知恵者振りは正信似で、その点も家康には可愛く映ったことだろう。
 家康の寵愛を表す例になるかどうかは分からないが、家康は人生最後の大仕事である大坂の陣において、正純に一つの大きな仕事をさせている。それは冬の陣における(偽りの)講和会談である。
 会談は江戸方が本多正純、阿茶の局(家康の側室中切っての妻女)で、大坂方は大蔵卿局(淀殿乳母)、仲介が常高院(浅井三姉妹の真ん中で、淀殿の妹にして将軍正室の姉)にて行われ、周知の如く、外堀の破却で成立したのだが、外堀埋め立てを進言したのが他ならぬ正純だった。

 かくして大坂城は防衛機能を失い、程なく云い掛かり同然に行われた大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、徳川幕府は盤石のものとなったが、この時が本多親子の絶頂期と云えた。



末路 豊臣家が滅亡し、武家諸法度を始めとする数々の法度を制定したことで、安心したかのように元和二(1616)年四月一七日、大御所・徳川家康はその生涯を閉じた。本多正純は将軍・徳川秀忠の側近となったのだが、家康の死から二ヶ月も経たない同年六月七日に本多正信も丸で家康の後を追うかの様にこの世を去った。

 これは本多正純にとって誠にタイミングの悪い出来事だった。
 家康と正信の相次ぐ死は明らかに世代交代を意味していた。将軍秀忠が大御所・家康存命中は実権を持てなかった(行政権はあっても、重要事項の最終決定権は家康に握られっ放しだった)のは周知の事実で、些か不謹慎な表現だが秀忠は父の死を持って真の権力者になった訳で、必然、自分の好む人事を行った。
 一方、一〇年以上家康側近を務め、その政治ノウハウを側近くで学んで来た正純は良くも悪くも自信を付けていた。ここに対立が生まれたのであった。

 勿論それまでの本多正純の実績は、親の七光り分を差っ引いても大きなものがあり、秀忠もいきなり粗略にした訳ではなく、正信死後、正純は二万石を加増されて五万三〇〇〇石の大名となり、元和五(1619)年一〇月に福島正則が改易されると、「亡き家康公の遺命」として宇都宮藩一五万五〇〇〇石という三倍増の身になった。
 福島正則の改易は武家諸法度違反(広島城の無届改築)による改易第一号で、本当は正則は正純に申し出て許可を得ていたので、騙し打ちに近かった。秀忠も初めはこの様な強引な手を使ってくれる側近を求めたことだろう。
 だが、このような加増を警戒していた人物がいた。正純の父・正信である。

 本多正信は、自分が出戻りの身で、武功では然したる功績もなく、家康との仲が周囲から嫉妬され、嫌われていることを完全に自覚していた(遠縁に当たる本多作左や本多平八郎忠勝も嫌っていた)。そして自分の様な立場の者がどう振る舞うべきかも。
 正信は正純に「三万石以上の加増は受けるな。」と遺言していた。石高以上の体験を持つとはいえ、帰参の恩人である大久保家を押しのけて出世した経緯から政敵の怨嗟・嫉妬・嫌悪が降りかかるのを防ぐ為には、小身に留まるしかないと見ていたのである。

 勿論聡明な正純は、父同様、自らに然したる武功がなく、政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞しはしたのだが、前述した様に「家康公の遺命」として押し付けられ、彼への幕閣・譜代大名の反発は益々高まった。
 そして過去の因果が応報される形で正純失脚の時はやって来た。所謂「宇都宮城釣天井事件」である。
 元和八(1622)年八月、出羽山形の最上家が改易となり、正純は最上家にそれを伝達し、山形城を受取る上司として山形に派遣された。
 九月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収したが、突如遅れてやって来た伊丹康勝と高木正次が正純詰問の使者となって現れた。
 詰問内容は「日光東照宮に参詣する秀忠暗殺が宿泊する宇都宮城に釣天井でもって暗殺せんとした」と云うことをメインとした一一箇条の罪状嫌疑であった。
 正純は毅然として明快に釈明したが、後出しジャンケンの様に三ヶ条(「城修築時に将軍家直属の根来同心を処刑した」・「鉄砲の無断購入」・「宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした」)の詰問が追加され、それには適切な弁明が出来なかった。

 結果、「先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利(現:由利本荘市)に五万五〇〇〇石を与える。」という減封処分が下ったが、謀反に関して身に覚えのない正純は様々な意味で納得せず、五万五〇〇〇石を固辞。報告を受けた秀忠はそれを待っていたかのように激怒し、本多家は改易となり、正純の身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽由利への流罪となった。

 出羽由利から更に出羽横手にて映された正純は息子・正勝とともに幽閉の身となった。
 普通流刑は、追放刑なので流された地から離れられないことと、ある程度の監視があることを除けば行動は自由だったのだが、正純親子の場合、逃亡防止の為に住居を板戸で完全に囲われ、日も差さない状態で、座敷牢に入れられているに等しかった。
 そんな過酷の環境下で寛永七(1630)年に正勝が三五歳で父に先立って病死し、正純自身も七年後の寛永一四(1637)年三月一〇日に病死した。本多上野介正純享年七三歳。

 正純失脚の背景には「家康以来の旧勢力として土井利勝等に疎まれた」とも、「大久保忠親失脚を恨む、秀忠の姉・加納御前(彼女の娘が忠隣の子・忠常に嫁いでいた)が秀忠に正純処罰を強要した」とも、云われている。
 原因はともかく、正純失脚に対して、忠隣の親戚に当たる大久保彦左衛門忠教は快哉を叫び、多くの者が同様に喜んだと云われている。



評価と実像 この人物に関しては、表向きに捉われなければ、存命中から良き面も悪しき面も正当に評価されているように思う。

 父親譲りの才能が合ったことは誰も否定しないだろうし、それに思い上がった面が在って身を滅ぼしたことも否定されなないだろう。
 一応は、「将軍徳川秀忠を暗殺した謀反人」として、罪人のまま生涯を終えた訳だが、これが理に適わないものであったことは現代はもとより、当事者達の方がよく分かっていたことだろう。

 いちいち説明するのも馬鹿馬鹿しいが、宇都宮城釣天井事件は完全な冤罪である
 そもそも「釣天井」なんて大掛かりな仕掛けは目的達成まで隠蔽が至難な上に、一度見つかったら決して釈明出来るものではない。まして正純が秀忠を暗殺したとして、その後誰を擁立したと云うのだろうか?家康を亡くした時点で、彼には有力な後ろ盾は存在せず、生まれ様もなかったのである。つまりは「秀忠を暗殺する動機」が正純には無いのである。
 でっち上げである最大の証拠は、「有罪」とした正純に対して、「先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利(現:由利本荘市)に五万五〇〇〇石を与える。」という減封処分だったということである。更に釣天井設置に関わった工事監督者や大工も連座する筈だが、本多親子以外に誰かが罪に問われた形跡はない。
 更に云えば、もし(例え無実でも)将軍暗殺で裁かれるとなると、御家断絶でもおかしくなく、どんなに温情判決が出たとしても、本人の切腹は免れない。それが減封で済むのはどう考えてもおかしい。まあ、正純が幕府創世期に先代・家康に大きく貢献した功臣であることは誰も否定出来なかっただろうけれど。

 ただ本多正純という人物を今少し掘り下げて考察したいのは、薩摩守の中に二点の謎が在ったからである。
 一つは「本多正純の人格」で、一つは「子々孫々まで極めた苛斂誅求」である。

 まず前者の「本多正純の人格」だが、大御所・家康に親の代から可愛がられた上に謀略に長けていた正純が多くの人々に妬まれ、嫌われ、「君側の奸」と見られていたのは、彼自身が傲慢に陥ったことを含め、二割方正しいが、果たして正純は「所謂「君側の奸」」に見られがちな性格の悪い人物だったのだろうか?
 確かに潔癖な程の善人は謀略に向かないが、謀略に長けているからと云って性悪とするのも早計である。本多正信も、その子正純も「徳川家あっての本多家」ということは強く認識し、「徳川家の為に正しい。」と思えば家康の意に沿わぬことも主張したし、家康の為に泥も被った。

 それを示す好例が関ヶ原の戦いに前後する徳川家の後継者問題だろう。
 関ヶ原の戦い後、家康は自分の後継者を誰にするかを家臣に図った。そのとき家臣団からは三人の名が挙がった。次男・結城秀康と三男・徳川秀忠と四男・松平忠吉であったが、この内、秀康を推したのが、本多正信・正純親子と本多忠勝で、秀忠を押したのは榊原康政と大久保忠隣で、忠吉を押したのが彼の舅・井伊直政だった。
 正信・正純親子は「長幼の序」を重んじて、「嫡男信康様亡き後は秀康様こそ相応しい。」としたのである。
 薩摩守が注目したのはこのとき正純が秀忠にも尽くしていることである。有名な話だが、秀忠は天下分け目の戦と云われた重要戦・関ヶ原の戦いに遅参した。これによって秀忠の後継者レースにおける優位はぐんと下がったのだが、何人かの諸将が秀忠を庇った。
 前述の後継者選択諮問で秀忠を推した榊原康政・大久保忠隣が庇ったのもそうだが、正純は「秀忠公が遅れられたのは参謀たる我が父・正信が謀を誤った為であります。どうか父を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます!」と家康に訴えたと云う。
 秀忠が関ヶ原の戦いに遅参したのは、信州上田城で真田昌幸の足止めを喰らったのが原因だが、上田城は必ずしも落とす必要のなかった城(実際に途中で落とすのを諦めて秀忠軍は関ヶ原に向かった)で、貴重な時間を浪費した理由も、初陣の秀忠が家康をも破った百戦錬磨の昌幸に手玉に取られたことよりは、上田城より関ヶ原を優先させ切れなかった参謀達に在ると見られている。

 ただ、それでも現代社会で企業の不祥事が内容如何に関わらず最終的には「社長の責任」とされるように、「秀忠の責任」として彼の株は下がったのだが、それでも正純の訴えには秀忠も「よくぞ云ってくれた。その方の言葉、一生忘れぬぞ。」といって感謝したと云われている。一説に、宇都宮城釣天井事件正純が死を免れたのも、「でっち上げによる冤罪」に対する後ろめたさに加えて、秀忠にこのときの恩義があったからかも知れない。

 次いで後者の「子々孫々まで極めた苛斂誅求」だが、正純の子・正勝も父と共に幽閉されたのは前述したが、孫以降への仕打ちもかなり過酷だった。
 正勝には嫡男・正好と次男・正之の子息がいた。正好は事件の翌年に江戸で、正之は正勝の配流先で出生し、兄は外祖父の元に、弟は尾張徳川家重臣・成瀬正虎に引き取られた。
 その後、正之は祖父・正純と父・正勝の墓参りを願って大垣藩を出奔したが、幕府はこれを許さず、行く先を失った正之は上野高崎城下にて改名した後に旗本・安藤直政に乞われて客臣となり、子孫は諸事情あって改姓を重ねつつも安藤家家臣として明治まで続いた。
 一方、正之は事件から四二年も経た寛文四(1664)年に赦免され、三〇〇〇石の旗本として本多家を再興し、寄合旗本として幕末まで存続した。
 江戸時代の本多家は従五位下佐渡守(←本多正信の官職名でもあった)・近江守を叙任し、駿府定番・御使番・日光奉行・長崎奉行・御三卿家老職などに就任していた。

 かくして辛うじて御家を存続させた本多家だったが、御家が滅びずに済んだとはいえ、かつての家格は完膚なきまでに叩き潰されていると云っていい。そもそも正純の失脚からして、彼が改易させた福島正則・大久保忠隣に喰らわせた仕打ちをそっくりそのまま返される形で為されたものだった。
 正純は確かに多くの人間の怨みを買っただろうし、彼が失脚させた者への仕打ちには眉を顰めたくなるものがあったが、彼が自身の私欲を満たした形跡が見られず、彼自身にそのまんまの報復が為された上は、子々孫々にまで墓参りすら許さなかったりした仕打ちは解せない。
 徳川家家臣に数多く存在した本多氏の、作左衛門重次系本多家や平八郎忠勝系本多家との確執でもあったのだろうか?結城秀康系松平家が子々孫々警戒された様に……。



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平令和三(2021)年六月三日 最終更新