第捌頁 柳沢吉保……THE・側用人

名前柳沢吉保(やなぎさわよしやす)
生没年万治元(1658)年一二月八日〜正徳四(1714)年一一月二日
寵愛してくれた主君徳川綱吉
寵愛された能力教養・学識・信仰+徹底したイエスマン振り
嫌った者達徳川光圀他多数
略歴 清和源氏の流れを引く河内源氏の支流で、甲斐源氏・武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称する上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として柳沢吉保は万治元(1658)年一二月八日、江戸市ヶ谷に生まれた。母は側室の佐瀬氏。
 柳沢氏は甲斐の在郷武士団である武川衆に属し、武田家の滅亡後、遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれた流れの中で、吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官したことに徳川家家臣としての柳沢氏は始まっていた。似た例として土屋氏がある。

 寛文四(1664)年に七歳で、当時、館林藩主だった徳川綱吉に初めて謁見。
 寛文一三(1673)年に一六歳で、元服(初名は房安)。二年後の延宝三(1675)年七月一二日、父・安忠が隠居したことで家督を相続し、短期間の間に佳忠信本と改名を繰り返していたが、当主就任時に保明 (やすあき)と改名し、長くこの名前を使った。同時に綱吉の小姓組番衆となった。

 延宝八(1680)年、藩主・綱吉が兄で四代将軍だった徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ることとなり、保明も幕臣として江戸城入りし、小納戸役に任ぜられた(同時に保明綱吉の学問上の弟子となった)。
 天和元(1681)年、生母・了本院を江戸へ引き取り、この際に侍女としてつき従っていた飯塚染子が後に保明の側室となった。この頃から綱吉の寵愛により頻繁に加増されるようになった(この染子の存在が歴史に疑義を残した)。

 貞享元(1684)年八月二八日、江戸城中で大老・堀田正俊が従兄弟の稲葉正休に刺殺されると云う事件が起きた。堀田は綱吉を将軍に擁立した功労者だったのでこの事件は幕府内を大きく動揺させ、以後将軍は安全の為に奥御殿で政務を執ることになり、老中とは距離が置かれることとなり、将軍−老中間を結ぶ連絡が力を持つようになった。勿論これが側用人(そばようにん。正確には「御側御用人」)の始まりで、就任したのは保明だった。
 四年後の元禄元(1688)年一一月一二日、側用人は正式の役職となり、保明は小納戸上席より側用人に転任となり、禄高も一万二〇〇〇石となり、連絡係の分際で一端の大名として上総佐貫城に封じられた。

 元禄一四(1701)年三月一四日有名な松の廊下刃傷事件が勃発。刀の鯉口を切るだけ重罪とされる江戸城松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が勅使を江戸城に迎えている大切な時期に吉良上野介義央に斬り付けると云う大事件に激怒した綱吉は浅野を即日切腹させたが、この裁断には吉保の意向が関係していたと云う。
 同年一一月二六日に、息子とともに将軍綱吉から松平姓および「」の偏諱を賜り、ここで初めて柳沢吉保と名乗った(つまり『水戸黄門』『忠臣蔵』松の廊下刃傷事件直後で「柳沢吉保」と呼ばれるのは史実に反していたりする)。ちなみに息子は柳沢吉里(やなぎさわよしさと)と名乗った。
 翌元禄一五(1702)年、将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えられたが、これには朝廷に影響力を持つ吉保(←側室に名門公卿・正親町公通の妹がいた)が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであったとされている。

 宝永元(1704)年一二月二一日、綱吉の将軍後継が甲府宰相・徳川綱豊(家宣)に内定。吉保は綱豊の後任として甲府城と駿河国内に所領を与えられ、一五万石の大名となった(駿河領は翌年返上)。
 宝永三(1706)年一月一一日には大老格に上り詰めた。だが、宝永六(1709)年二月一九日、後ろ盾であった徳川綱吉が薨去。幕政は新将軍・徳川家宣とその側近で、儒者でもあった新井白石が権勢を握り、吉保を始めとする綱吉近臣派の勢いは失われていった。



主君の寵愛 柳沢吉保徳川綱吉に寵愛されていたのは、元禄の歴史をチョットかじっただけで容易に耳目にすることが出来る。
 両者の蜜月状態は綱吉が上州館林藩主だった時代に、「殿と小姓」と云う仲で始まった。余り想像したくないが、戦国時代程ではないが、その気風がまだ少し残っていたこの時代、武士には両刀遣いが多く、小姓は文字通り「寵愛」されたケースがあった。そして綱吉は明らかに男色趣味が有ったことが様々な史書に明記されている。
 吉保綱吉に尻を貸していた可能性は充分にある(う〜ん…想像したくない…)。

 では小姓や家臣が数多くいる中、何故に吉保は過剰なまでに寵愛されたのだろうか?
 一つには学問や趣味が合ったのだろうと思われる。綱吉が学問に優れ、万事に凝り性な面が『生類憐みの令』を始めとする政策にも表れていたのは有名である。また親孝行者であった彼は生母・桂昌院の教えもあって、仏教の侵攻にも篤かった。
 かかる人物は自らの趣味への没頭振りが尋常じゃない故に、思想や趣味が合う人間と容易く仲好くなり、些細な食い違いが許せずに仲違いしたりする。実際、将軍就任初期の綱吉は、擁立の功労者で学問好きで筋を通すことにこだわる堀田正俊と徳川光圀とは仲が良かったが、時を経て彼等が強過ぎる信念で直言居士となったり、六代将軍候補に徳川綱豊を押す様になったりすると彼等を疎んじる様になった。正に「可愛さ余って憎さ百倍」である。
 後に水戸光圀は御三家当主の中で最年少にもかかわらず最初に隠居に追いやられ、堀田正俊は前述した様に暗殺されたのだが、下手人・稲葉正康が(刀を捨てたにもかかわらず)その場でめった刺しにして斬り殺されたことに綱吉の陰謀が囁かれている。

 その点、吉保は和歌に親しみ(北村季吟から古今伝授を受けた)、黄檗宗に帰依し、甲斐に永慶寺を創建したように、彼もまた仏教への信仰に篤かった(永慶寺は後に柳沢家の移転先である大和郡山に移転された)上に、綱吉に諫言したり、異論を挟んだりすることが皆無に近かった。そこに肉体関係が加われば、寵愛が深いものになるのも不思議はなかったのだろう。

 とにかく異例の出世である。簡単にする為下記の表をまずは観て頂きたい。
柳沢吉保の出世歴
昇進年月日就任官位・石高・その他の厚遇
貞享二(1685)年一二月一〇日従五位下出羽守叙任。
元禄元(1688)年六月一〇日西の丸下から一橋内の屋敷に移転。
翌元禄二(1689)年一橋内から神田橋内に移転し、霊岸島にも中屋敷を拝領。
元禄三(1690)年三月二六日二万石を加増。
元禄三(1690)年一二月二五日従四位下昇叙。
元禄五(1692)年一一月一四日三万石を加増。
元禄七(1694)年一月七日石高を七万二〇〇〇石とされ、武蔵川越藩主に就任。
元禄七(1694)一二月九日老中格と侍従を兼任。
元禄八年四月二一日駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領(後にこれが六義園となる)。
元禄一一(1698)年七月二一日左近衛権少将に叙任(←本来は大老が任ぜられる官位)。

 土地や屋敷の拝領なら分からないでもないが、老中格や左近衛権少将就任は地方大名の小姓の出世としては限界をとっくに超えている(織田信長が森蘭丸を寵愛したのでさえ、五万石程度)。
 ここまで来ると、単なる寵愛や能力だけでは測れない(後述するが、吉保の政治手腕は決して低いものではない)。

 さすがにこれ程の寵愛は異例だったためか、徳川綱吉柳沢吉保の間には様々な逸話が残されている。逸話の中には真偽の程が怪しいものが多いのだが、そんな逸話が簡単に生じたところに綱吉吉保に対する異常な寵愛があり、このことは現代にも影響を与えている(多くの時代劇者で柳沢吉保は悪役・黒幕役を振られている。綱吉が善玉の作品でさえ、である)。

 逸話の中で特に有名なのは、

 吉保の側室・染子はかつて綱吉公の愛妾であり、綱吉公から吉保に下された拝領妻である。綱吉公が柳沢邸に頻繁に御成りになったのも、吉保の子・吉里が実は綱吉公の隠し子だからである。」

 と云うものだろう。
 結論から先に書けば、「吉里が綱吉の子」というのは全くの事実無根なのだが、元禄四(1691)年二月三日に吉保が常盤橋内に屋敷を拝領し、同年三月二二日に将軍綱吉が初めて柳沢邸に御成りして以降、綱吉吉保邸御成は五八回に及んだのは事実で、この「尋常ならざる御成り回数」には「尋常ならざる理由があるに違いない」と思われたのだろう。
 何せ、将軍の藩邸への御成りは諸大名にとって、物凄く稀なことで、同時に物凄い名誉になることでもあった。御三家ですら例外ではなく、紀伊家は綱吉の一人娘・鶴姫を世子・綱教の嫁に迎えていた縁が有って尚、なかなか御成りを得られず、実現に際には紀伊家は散在しまくってこれを歓待したし、尾張藩邸への御成りは最後まで成立しなかった。それが柳沢邸には五八回と云うのだから、当時の人々が異常を感じたのは無理もなかった。

 勿論、この様な寵愛が尋常なものではないことは吉保自身よく理解していた。同時に綱吉の存在なくして自らへの待遇が有り得ないことも勿論理解していた。



末路 寵愛の終わりは徳川綱吉の薨去とともに訪れた。柳沢吉保綱吉薨去から僅か四ヶ月の宝永六(1709)年六月三日に自ら職を辞し、家督を長男の吉里に譲って隠居した(勿論誰も止めなかった)。
 以降は保山と号し、江戸本駒込で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園の造営などを行った。つまり吉保綱吉と云う後ろ盾を失った自分がそれまでと同じ待遇でいられないことを良く理解していたので、権力の座に固執せず、綱吉との思い出の場に引きこもったのだった。
 綱吉の死から五年後、七代将軍・徳川家継の御代である正徳四(1714)年一一月二日、死去。柳沢吉保享年五七歳。尚、大正元(1912)年一二月一四日、従三位を追贈されている。
 世に「君側の奸」と呼ばれた人物は寵愛してくれた主君を失った後も権力に固執したり、新たな主君に取り入り損ねたりして、ロクでもない死に方をする者が少なくないのだが、彼は畳の上で天寿を全うしている(当時の五七歳は早いとも遅いとも云えない)。これは簡単なようで結構難しい(吉保にした所で、綱吉の子・徳松や鶴姫の夫や子が将軍に就任していたらどう身を処していたかは分からない)。

 事の是非はさておき、柳沢吉保が知恵者で在ったことは間違いなく、それもまた綱吉に寵愛された一因だったのだろう。



評価と実像 とかく柳沢吉保のイメージは悪い。
 大河ドラマや『水戸黄門』を始めとする時代劇等で彼が良く書かれることは皆無である。では、彼の実態並びに正当な評価とは如何なるものだろうか?

 まず妬みや、直接文句を云えない徳川綱吉を批判する為のスケープゴートにされた為に、かなり実態より悪し様に云われている可能性(根拠レスではないが)を考慮する必要はある。

 そこで柳沢吉保を正しく理解・評価する為にも、徳川綱吉の名君振り・暴君振りについて触れたい。
 一昔前まで、『生類憐みの令』や元禄金銀の悪改鋳や松の廊下尋常事件の不公平裁きで「暴君」との評価が強かった綱吉だが、昨今では『生類憐みの令』が戦国以来の殺気を日本から一新した面や、『忠臣蔵』による正悪論が見直されていることから、綱吉は「名君」と見られることが増えている。
 そんな綱吉を薩摩守は「暴君であり、名君」と見ている。要するに「やることなすことが極端」なので、良い面も悪い面も強過ぎるのである。

 そして何度か繰り返したように彼は凝り性だった。そんな彼の政治をサポートするのは容易だが、本気で共同作業とするのはすこぶる困難だった。何せ綱吉の様な人物は自分の考えに絶対の自信を持つから、殆どを自分でやってしまい、他者の意見を容易には受け付けない(受け付けることを大事と思っていても、腹の内で撥ね除けてしまうのである。現実にもいるでしょ?そんな人)。
 それゆえに学問に優れ、信念の強い綱吉を五代将軍として擁立した堀田正俊・徳川光圀は重用されたが、最後には対立し、邪魔者とされた。そして結果として、「誰も綱吉に逆らえなかった。」という事実が肝となる。
 少し前述したが、綱吉を責められない(これは綱吉死後も江戸幕府存続中は同様である)から、幕閣も諸大名も、綱吉に対して云いたくても云えない不平をその側近にぶつけることになった。勿論その筆頭は柳沢吉保だが、元禄金銀改鋳を進言した荻原重秀や『生類憐みの令』進言者とされる僧・隆光が槍玉に挙げられた。

 このことを踏まえた上で柳沢吉保の人物像に迫りたいが、まず彼が「有能な太鼓持ち」であったことは概ね正しいだろう。
 「凝り性」だった綱吉と趣味や思想の上で対等に付き合い、寵愛される為には付け焼刃では通用しない。それ相応の知識量と書に対する読解力が求められ、それを兼ね備えた綱吉とガチでコミュニケートする能力が必要だったのである。間違っても馬鹿には務まらない。
 この一点だけでも吉保がその道において「有能」だったのは間違いない……………何・似ていない?誰も物真似なぞしてませんぞ……(←道場主「物真似ではなく、『パタリロ!』からの盗作です」)。

 実際、領国における政治家としての柳沢吉保は地元民から尊敬された。
 川越藩主時代の三富新田の開発を始めとする行政面での吉保の業績は高く評価されており、三富新田の古くからの住民の家には、祖先の位牌と並んで吉保の位牌が並べられているという報告もある。
 政治家と並んで、一学者としても、綱吉の文治政治を良く助け、儒者を多く召し抱え、儒学の発展に少なからぬ役割を果たした。
 彼が召し抱えた十社の有名所を挙げれば、荻生徂徠(おぎゅうそらい)がいる。彼は吉保に寄って父の没落から救われたと云っていい。
 また細井広沢(ほそいこうたく)がいた。彼は赤穂四十七士の中でも有名な堀部安兵衛と仲が良かったことから、「事件を裏から支援していた。」と疑われ、後に側用人の松平輝貞の不興を買い、輝貞から柳沢家へ執拗に放逐要請が来たため、吉保もやむなく放逐したが、浪人中の細井広沢に吉保は年間五〇両もの支援金を送って親交を持ち続けたと云う。
 そんな遺徳が細々ながら受け継がれたものか、廃藩置県となった明治一三(1880)年、旧大和郡山藩士族が吉保と吉里の遺徳を偲び、旧大和郡山城跡に柳沢神社を創建したのであった。
 また、「君側の奸」臣にありがちな、賄賂も吉保に関しては史書を見る限りにおいては見られないことも重要なポイントである(時代劇等では受け取りまくりだが)。
 最後に余談に加えたいが、吉保を巡る疑念は将軍家の閨房に一つの習慣を残した。
 前述した様に、吉保の側室・染子は元・綱吉側室だったことから、吉保と染子の子・吉里が「綱吉公の御烙印では?」との醜聞が立ったのだが、その状況を利用して、吉保が甲府に一〇〇万石の領地を獲得せんと企んで、吉保の側室になってからも綱吉の寝所に召されることの多かった染子(←この設定からして胡散臭い)を通じてこれを願い出た、との一説が有る。
 この説によると、綱吉がこれを快諾したが、間もなく病死したので成立しなかったとのことだった。

 実際、染子に関する話は『護国女太平記』が流布・訛伝されたものと考えられており、実際の染子は柳沢家家臣の娘に過ぎず、大奥に上がったことも一度としてなかったため、将軍綱吉との接点もほとんどなく、信憑性のないものとされている。
 だが、いつの時代でも人間は醜聞が好きで、事実か否かは別として、再度このようなことがまた起こること(或いはその様な噂が立つこと)を憂慮した幕閣は、以後、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、将軍の寝所に泊まらせ、彼女等に寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかをことごとく報告させることとした。
 つまり、綱吉以降、大奥における将軍のセックスは逐一記録されることになったのである(幕末まで続いた)。

 柳沢吉保は有能で、主君に馬が合った忠実な家臣で、ただ一つ「諫言」をしなかった為に世間や後世の講談・時代劇で綱吉への鬱憤まで含めて叩かれる羽目に在ったが、もし彼がイエスマンを止めていたら綱吉の寵臣であり続けたかどうか疑問である。歴史の評価とは難しいものである。
 そろそろ吉保を悪者役ばかり振るのは止した方がいい気がする。綱吉に逆らえなかった、諌め切れなかった者達にも少しずつ責任はある筈である。



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令和三(2021)年六月三日 最終更新