第拾頁 小村寿太郎………女房から仕事に逃れた男の典型

名前小村寿太郎(こむらじゅたろう)
生没年安政二(1855)年九月一六日〜明治四四(1911)年一一月二六日
役職外務次官・駐外国公使・外務大臣等を歴任
恐れた妻小村町子
恐妻要因家事をしない妻の芝居好きと自らの借金問題



略歴 条約改正ポーツマス講和条約で有名な明治外交史上の代表的人物である。
小村寿太郎は安政二(1855)年九月一六日、日向飫肥(おび)藩の藩士・小村寛平と梅の長男として生まれた。
小村家は一八石取りの下級武士で、寿太郎は七人兄弟の第二子として、寿太郎出産後から体調を崩した母に代わって、祖母の熊に厳しく、優しく育てられた。

文久元(1861)年、寿太郎は飫肥藩の藩校・振徳堂で学び、小柄な体格と寡黙でうつむきがちに歩き、本ばかり読んでいるような生徒だった。そのためにいじめに遭うこともあったが、努力・気力で成績は常に優秀、剣術の稽古でも大柄な強敵に対しても臆せず何度も立ち向かい、教師達の間でも「いつも元気で思慮深く、何事にもよく耐える精神力があるので、将来は必ずひとかどの人物になるであろう。」と評価されていた。
 その成績優秀さを買われた小村は藩内でも一目を置かれ、父の従兄弟の夫が藩校の有力者・小倉処平だったこともあり、明治に入ると遊学の好機を掴んだ。

 明治三(1870)年、文部省権大丞の職にあった小倉が学南校(現・東京大学)に貢進生の制度を求めて国家有為の人材を全国から集め、郷里の愛弟子である小村を藩より推挙させた。
小村は大学南校に入学し、法律を学び、優秀な成績(次席)を収めた。そして英語を熱心に学んでいたこともあって、明治八(1875)年、第一回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学した。謂わば、第一期官費留学生であった。

西南戦争←この戦いで恩師・小倉が戦死)の起きた明治一〇(1877)年にハーバード大学を卒業した小村はニューヨークの法律事務所に訴訟実務見習として勤務。滞米五年間に極めて高い英語力を身に着け、明治一三(1880)年一一月一八日に帰国すると翌月司法省に入省した。
これは政府が条約改正交渉の為に法典整備を進めており、その為に外国の法律に通じた人材を求めていたからで、小村は刑事局、大坂控訴裁判所判事、大審院判事を歴任した。

その後、外務卿・井上馨が英語と法律の双方に長けた人材を求めたことから、外務省公信局長・浅田徳則が大学予備門長・杉浦重剛に相談し、杉浦が推挙したのが小村だった。と云うのも、杉浦は小村と東京開成学校で共に学んだ仲で、これに井上の秘書官だった斎藤修一郎も彼を推した。
かくして小村は司法省から外務省に移った。時に小村寿太郎二九歳。
小村は公信局勤務で在外公館との間で交わされる電報文書の翻訳を主任務とした。公信局が政務局と通信局に分かれると翻訳局に移り、明治一九(1886)年三月に翻訳局次長に、明治二一(1888)年九月に局長に昇進。以後、五年後の廃局までのその地位にあった。

かように外務省に勤めていた小村だったが、当初は親友の杉浦とともにその時点での条約改正交渉に反対していた。両者は外相・井上馨が領事裁判権撤廃と関税自主権の一部回復の為に展開した欧化政策(俗に「鹿鳴館外交」と呼ばれたもの)を欧米に媚びたもので、裁判所に外国人判事を採用せんとの動きがあったことからもこれらの動きを屈辱的に感じていた。
条約改正はその後も大審院に外国人判事を認める井上案を踏襲せんとした大隈重信が爆弾を投げられたり、明治二四(1891)年五月に大津事件(来日中のロシア皇太子ニコライが警備中の警察官に斬り付けられて負傷した事件)が起きたりして、容易には進まなかった。
ちなみに大津事件に際して、政府要人の多くがロシア帝国の顔色を窺って被告・津田三蔵の死刑を訴える中、法律と外交の両方に尽力してきた小村は「ロシアを恐れるあまり法律を曲げて津田三蔵を死刑にしてはならない。」とした(結局津田は終身刑となり、程なく獄中で病死した)。

明治二六(1893)年、翻訳局が廃止。小村は第二次伊藤内閣の外務大臣・陸奥宗光に見出されて、同年一一月、清国公使館参事官として北京に着任。すぐに駐清臨時代理公使に昇進し、外国の公使とも積極的に交際して情報収集に奔走した。
 その後、明治二七(1894)年二月に李氏朝鮮で東学党の乱が起こると小村は対応と折衝に当たり、日清戦争直前にも清・朝鮮の正確な情報を国内に送り、日本の派兵に反対する清にも堂々と日本側の正当性を述べた。
そして遂に日清両軍が衝突すると七月三一日に国交断絶を清に伝えたのは小村で、翌日には独断で北京公使館を引き払った(同日陸奥は宣戦布告を発し、小村の行為を不問に付した)。

周知の通り日清戦争は日本の勝利に終わり、その講和交渉において小村は外務省政務局長として、伊藤博文・陸奥宗光の両全権を補佐し、下関条約によって朝鮮半島への日本の影響力が増したが、それに伴う事件も増えた。
明治二八(1895)年一〇月に日本軍によって閔妃が殺害される乙未事変が起こった。これを重く見た日本政府は駐朝公使三浦梧楼を解任し、日本に召喚して逮捕し、代わりに政務局長の小村を駐朝弁理公使に任じ、事件調査の為に派遣した。
日本側の云い分がどうあれ、一国の王妃が殺害されたとあっては朝鮮半島での反日派の勢いは強まり、義兵闘争が激化。国王高宗も反日的でさしもの小村もその対策に難渋した。
 李氏朝鮮改め大韓帝国では、下関条約で清が朝鮮の独立を認めたことで歴史上初めて帝号を称したが、日本を警戒する余り清に代わってロシアに事大するようになり、明治二九(1896)年二月に国王がロシア公使館に移り、そこで政務を執るという異常事態が起きた(露館播遷)。
小村が親日派として頼りにした金弘集も民衆によって斬殺され、新たに誕生した内閣は親露反日派で朝鮮半島における利権の多くはロシアに渡ったことからも小村に対してロシアに出し抜かれたものとして批判する声が上がり、暗殺すると脅す者まで出てきた。
蹴ったり踏んだりだった小村の駐朝公使期間は僅か半年余りで終わったがこれらの経験は後々の小村の外交政策・外交姿勢に極めて大きな影響を与えた。

明治二九(1896)年六月一一日、帰国した小村は外務次官に着任。西園寺公望、大隈重信、西徳二郎といった歴代外相の下で同職を務めた。殊に西徳二郎はサンクトペテルブルク大学で学び、ロシア公使を一〇年も務めた当代切ってのロシア通であり、日露関係が難しい時期を迎えていたこの時期、小村からすれば、西の下で働くのは心強かった。
 外務次官として韓国問題や列国の対清活動、アメリカ合衆国のハワイ併合などに関する諸対策にあたった小村は駐米公使、駐露公使、駐清公使を歴任した。
駐清公使在職中、清で日清戦争後の欧米列強侵出に反発した義和団事件が起きると講和会議全権として事後処理に当たり、会議が長期化する間にも世界各国と交渉を重ね、特にロシアに油断せず、韓国に対する日本の影響力を強める外交を重ねる内に「日本外交に小村あり」の声が世界でも囁かれるようになった。

義和団事件後、南下政策を重視していたロシアは満洲占領から撤兵せず、この脅威に対して日本国内では満州をロシアに譲る代わりに日本が韓国を取る「満韓交換論」を重視する日露協商派と、イギリスと連携してロシアに対抗せんとする日英同盟派に分かれた。勿論小村は後者であった。
交渉は多くの列強の思惑も絡み、大いに難渋したが、日本政府首脳は小村の尽力と実力を充分に評価し、同年六月、小村は新首相となった桂太郎からの第一次桂内閣の外務大臣就任を要請され、入閣。第一八代外務大臣となった。時に小村寿太郎四六歳。

この間、日露協商派と日英同盟派は各々に相手との交渉を進めたが、最後の日露協商派だった伊藤博文が交渉を断念したことで明治三五(1902)年一月三〇日に日英同盟がロンドンで調印され、この功により男爵位と勲一等を授けられた小村は各地で開かれた日英同盟祝賀会に何度か招かれており、政権内での桂、小村の威信も高まった。

日英同盟の目的はあくまでイギリスとの連携を示すことでロシアを牽制し、満州から撤兵させることにあった。他の欧米列強の声もあり、ロシアも清に対し、三年間で三度に分けて完全に全満洲から兵を引き揚げるという内容に合意した。
 だが、ロシアは定められた明治三六(1903)年四月八日の第二次撤兵期限を守らず、逆に増派した上で七箇条の撤兵条件を清国に迫り、事態が急変。ただでさえ下関条約締結後の三国干渉で悪化していた日本国民の反ロシア感情は急速に高まった。
 小村は駐日公使ローゼンを呼び出して日露交渉を打診したが、ロシア側は撤兵問題を「露清二国間の問題」として他国の介入を拒み、それどころか韓国内におけるロシアの権益を認めるよう要求するという強硬姿勢で小村達を驚かせた。
 そして明治三七(1904)年二月四日の御前会議で対露開戦が決定され、二月一〇日には宣戦布告が発せられ、日露戦争に至った。

開戦すると、対韓政策を何よりも重視する小村は、既に秘密交渉を進めていた林権助に命じて戦時中の韓国の協力を最大限引き出す、圧倒的に日本に有利な形で日韓議定書を結んだ。
 同時に小村は日本の正当性を訴える国内外の広報活動にも力を入れた。英米両国に対しては特使を派遣して広報外交を展開した。
 戦局は苦戦と多大な犠牲を重ねながらも日本有利に展開。しかし増税と莫大な外債をもってしても日本の戦争継続能力は限界に瀕し、如何に有利に戦争を終わらせるかが重要となった。
開戦から一年を経た明治三八(1905)年二月一二日の日英同盟三周年記念式典で小村は同盟を高く評価し、強化を望む演説をおこなった。イギリスも日露戦争後の極東で日露が和解した結果、イギリスが孤立することを危惧して同盟強化を願っていた。
これらの外交努力に加え、三月一六日の奉天会戦、五月二八日の日本海海戦での勝利もあって、小村は三日後の五月三一日に駐米公使・高平小五郎にあてて訓電を発し、ルーズベルト大統領に日露両国間の講和を斡旋するよう求め、小村が講和会議の全権に選ばれた。

かくしてポーツマス講和会議が始まった。日本側全権は小村寿太郎 (外相)・高平小五郎(駐米公使)、ロシア側全権は、セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)とのロマン・ローゼン(現駐米大使・前駐日公使)であった。
 交渉は難渋した。日本は戦闘こそ勝利し続けたものの既に継続不能状態に陥っていた。死傷者は約二〇万人、戦費は約二〇億円に達し、更なる犠牲と戦費はとても見込めなかった。
一方のロシアは海軍を失ったり、革命による国内の混乱があったりしたものの、シベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあったことから強気を崩さなかった。

講和交渉において桂内閣は絶対的必要条件としては、「日本の韓国保護権」、「日露両軍の満州撤兵」、「遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡」を定め、可能なら叶えたい条件として、「賠償金一五億円」、「中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、」「樺太及び付属諸島の割譲」、「沿海州沿岸の漁業権獲得」、「ロシア海軍力の制限」、「ウラジオストク港の武装解除」を定めた。
連戦連勝に熱狂し、戦闘継続能力の詳細を知らされていない当時の日本の世論は、多額の賠償金や領土の割譲を当然と見込み、七月八日に大観衆に見送られて日本を出発する際、小村は桂に「帰国する時には、人気は全く逆でしょうね。」と語ったと云われ、井上馨も小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇に立った。今までの名誉も今度で台無しになるかもしれない。」と語ったと云われている程、国内の期待と現実にギャップのあるものだった。

八月一〇日から始まった講和会議は予想通り難渋。ウィッテは当初小村の提示した内容のほぼすべてに反対していた。ただロシア側も国内外の問題から講和成立は急務な状態にあり、徐々に妥協するも、賠償金支払いや領土割譲については論外であるとの強硬な姿勢を崩さなかった。
一時は双方交渉を打ち切って帰国することまで覚悟したが、最終段階でルーズベルトのニコライ二世への妥協提案もあって、既に日本が占領していた樺太(サハリン)の南半分のみの割譲で妥結し、九月五日にポーツマス講和条約は調印され、日露戦争は終結した。

 結局ロシア側は「戦争に負けた訳ではない!」として賠償金は一円も獲得出来なかったが、必要条件はすべて満たし、沿海州の漁業権も獲得出来、現実的に見て、日本政府の立場からは講和交渉の結果は成功と云えた。また歴史の全容を知る後世の人間もまた小村が最善を尽くせたと見ている。
ただ、小村的には全島を軍事占領した樺太の南半分しか獲得出来なかったことは生涯の痛恨事だったらしく、以後小村は樺太のことを口に出すのも嫌がり、何より日本国民は講和条約内容に激怒し、日比谷焼き討ち事件を初めとする暴動すら起きた。
暴徒の中には小村やその家族の殺害を叫ぶ者すらあった。

調印翌日に体調を崩したため、約一ヶ月の療養を経て帰国の途に就いた小村は一〇月一六日に横浜港に到着した。
そして渡米前の予想通り、小村を民衆は大ブーイングで迎えた。小村自身、ポーツマス講和条約成立の夜、ホテルにて泣きじゃくる程、悔しい思いを押しての調印だった。
小村の家族は当初全員で帰国する寿太郎を横浜まで迎えにいく予定だったが、憲兵より「身の安全が保障出来ないので、誰も迎えに行かないで欲しい。」と云われ、結局長男の欣一だけが横浜に行くことを許され、小型船に乗り込み、船室の小村と対面する有様だった。
小村は、欣一の顔を見るなり「おお、無事だったか。」と言ってつくづくと顔をながめたという。と云うのも、外相官邸が襲撃され、小村の家族は斬殺されたという噂が流れたので、実際に息子の顔をみてようやく安堵したのであった。
新橋駅に到着すると、「速やかに切腹せよ!」「日本に帰るよりロシアに帰れ!」などという散々な罵声を浴びせられた。そんな小村を、出迎えた桂と海相・山本権兵衛は両脇を挟むようして歩き、爆弾でも投げつけられたら共に死ぬ覚悟で総理官邸まで彼を護衛した。
その後も小村邸への投石などの騒乱は収まらず、妻の町子は精神的に追い詰められ、小村はしばらくの間家族と別居することを余儀なくされた。

だが、小村は休む間もなく外交に尽力した。
同年一一月一八日第二次日韓協約が結ばれ、自身がポーツマス講和条約で獲得した韓国の保護国化を進め、韓国から外交権を剥奪し、漢城には韓国統監府が置かれた(初代統監は伊藤博文)。
 満洲でも日本の権益を守ることに熱意を傾け、南満州鉄道経営の為にアメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日して鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案し、これを日本政府は好意的に受け止める中、小村はこれをたてにアメリカが過剰な口出しをしてくることを懸念して反対し、桂や元老達を説得してこれを破棄した。

明治三九(1906)年一月七日、第一次西園寺内閣が成立し、第一次桂内閣の総辞職に伴って小村も外相を辞し、二日後に枢密顧問官に任じられたが、六月六日には駐英大使となり、明治四一(1908)年七月一四日、第二次桂太郎内閣が組閣されると、再び外務大臣に就任した。
帰国することとなった小村はロンドンからウィーンとサンクトペテルブルクを経て、シベリア鉄道を用いて日本に向かったが、その途中サンクトペテルブルクではかつてポーツマス講和会議で熾烈な交渉をやり合ったセルゲイ・ウィッテに再会した。
ウィッテは小村を歓迎し、小村が敵対した日露両国は今や友好国であり、ポーツマス講和会議のことも振り返れば夢のようであると述べたのに対し、ウィッテは、会議当時、自分の交渉は大成功ともてはやされ、小村は国民から大きな批判を受けたが、しかし、いまや評価は逆転していると述べた。

帰国した小村は、桂に具申して「帝国ノ対外政策方針」を提出、九月二五日、これに基づいてドイツを除く列国との多角的同盟・協商網の維持を目指すことが閣議決定された。小村は、日英同盟こそ「帝国外交の骨髄」としつつ、アメリカとは排日移民問題を緩和しつつ、協商関係を結ぶ必要ありとした。
 対英・対米外交重視は同盟関係の維持と条約改正への好機を掴む為で、対清・対露外交重視は日清戦争日露戦争で得た日本の権益を確固たるものにする為だった。

そして韓国問題に際し、日本の領土に組み込む方針であった小村は明治四二(1909)年四月一〇日、桂とともに、一時帰国中の韓国統監伊藤博文を訪ね、併合方針を示した。
伊藤は併合反対派として知られていたが、意外にも彼はあっさりと同意。これにより併合への動きは加速した。
 同年中に併合に関する政府方針が固まると翌明治四三(1910)年二月二八日、小村は各国駐在の大使に電報を送り、韓国併合に関する注意を促した。
イギリスに対しては、五月一九日、小村自身がマクドナルド駐日大使との会談の際に韓国併合問題について話し合い、日本の韓国併合に異存はないとの同意を得た。
このとき、日本は条約改正の最後の仕上げとして関税自主権の完全回復を目指しており、イギリスとも交渉中であり、イギリスが過去に韓国と結んだ条約について改正後の関税率を適用されることを危惧したが、小村は関税をしばらく現状のままとし、開港場から馬山を除いて新義州を加えるなどの措置をとったため、外相エドワード・グレイも安心して満足の意を表し、八月三日、併合に同意の意思を伝えた。

 少し話が逸れるが、日韓併合を正当化する歴史修正主義者の中には、「日韓併合にはアメリカもイギリスもフランスも反対しなかった。」と抜かす輩がいるが、「馬鹿も休み休み云え。」と云いたい。
 そりゃ日本の非なんて鳴らせんよ。イギリスはインドを、アメリカはフィリピンを、フランスはベトナムを植民地にしていたんだから(この頁とは関係ないが、強国ロシアに勝った日本に学ぼうとして欧米列強の支配に苦しんだアジア諸国から多くの学生が日本に留学したが、日本はフランスの要請でベトナム人留学生を追放している。つまりこの時点での日本は欧米列強と同じ穴の狢だった)。

結局、五月三〇日に併合反対派だった曾禰荒助に代わって第三代統監に陸相寺内正毅が選ばれると寺内は七月二三日に韓国へ到着して皇帝純宗に挨拶し、八月一三日、小村に対して、一週間以内に併合条約を調印する予定であると伝えた。そして八月二二日、日韓併合条約が調印された。

 その後も小村日英同盟を重視しつつ、条約改正に細心。明治四三(1910)年三月以降、関税自主権の完全回復を目指して日英通商航海条約の改定を協議していたが、対英交渉が難航すると、小村は交渉優先相手をアメリカに変え、日米関係の悪化を懸念していた国務長官ノックスと一〇月一九日に日米通商航海条約改定交渉を始めた。
対米交渉は思いの外順調に進み、翌明治四四(1911)年二月二一日には新条約が調印された。これにより幕末以来の悲願であった不平等条約の完全な改正が達成された、アメリカとの間で関税自主権が回復されることで他国との条約改正問題も解決の方向性が見え出し、小村はイギリスに対して彼の国が重視する輸出品に限って協定関税を残す代わりに日本の幾つかの輸出品が無税になることで折り合いをつけ、同年四月三日、新日英通商航海条約が締結され、同年中に、他の列強との間でも新通商航海条約が結ばれた。

 同年八月二五日、第二次桂内閣が総辞職し、同月三〇日に第二次西園寺内閣が成立した。桂は、小村の外相留任を希望していたが、原敬を中心とする与党の立憲政友会は、桂の影響力が新内閣に残るのを嫌い、後継外相に内田康哉を迎えた。
 これによって大病を繰り返していた小村は政界を引退し、九月に神奈川県葉山町に転居した。貧乏ながらも酒と読書の悠々自適生活を送っていたが、一一月に入ると高熱と肺の痛みで床に伏せるようになり、一一月二二日に容体が急変した。
翌二三日に脳膜炎の症状が現れ、二四日に桂と寺内が訪ねてきたときには言葉を交わすことが出来なかった。二五日は杉浦ら旧友が集まったが呼吸困難からやがて危篤に陥り、一一月二六日に息を引き取った小村寿太郎享年五七歳。
一二月二日、小村は外務省葬にて葬送された。



恐妻振り 小村寿太郎とその妻・町子との夫婦関係はお世辞にも良好とはいえないものだった。「恐妻」とはちょっとニュアンスが異なり、妻の在り様に手を焼いた小村が彼女を顧みずに仕事に没頭したというイメージを云えよう。

 ここで少し小村町子の馴れ初め、そして夫婦生活の実態を見てみたい。
 二人が結婚したのは明治一四(1881)年九月のことで、当時小村は二七歳、旧幕臣・朝比奈孝一の娘・町子は一七歳だった。
町子は、当時の女性としては珍しく、明治女学校で高等教育を受けた、所謂、才媛で、留学から帰国したばかりの小村には眩しい存在であった。
 ただ、典型的なお嬢様だった町子は裁縫も料理もせず、実家からの仕送りで女中を雇い、家事一切をやらせるような女性であったことを小村は結婚後に知って愕然とした。
 彼女は性格にも難があり、多分に感情的になって激昂することが多く、小村と云い合いになると暴言を吐いたり物を投げたりして、近所に住む実家の両親の元に行って泣いて訴えることもあった。
 町子の母は、芝居見物を趣味とする町子に一緒に外出し、その間子供達は女中に託されたと云うから、恐らく町子の両親は我儘な娘を窘めることもなかったのだろう。

 町子は一九歳で長男・欣一を、二二歳で長女・文子を、三一歳で次男・捷治を産んでおり、小村の動きに照らし合わせると、彼が司法省から外務省に移った頃に最初の子である欣一が生まれ、日清戦争勃後の下関講和会議で伊藤博文や陸奥宗光を補佐していた多忙な時期に捷治が生まれたことになるから、多忙極まりない中、しっかり夫婦の営みを持っていたことが伺える。
 長じて子供達は、欣一が外務省情報部長・初代拓務次官となり、文子は佐分利貞男(外務省通商局長や条約局長を務め、幣原喜重郎の側近中の側近といわれた人物)に嫁ぎ、捷治は朝日新聞記者・貴族院議員・明治大学教授になったことから、彼等は両親の才能を受け継ぎつつ、然るべき教育を受けていたと思われるが、多忙な小村や、ろくに家事もしない町子が尽力したとは思えない。

 何とも実像の掴み難い夫婦及び一家である。
 ともあれ、小村小村で良き夫であったとは云い難い。町子の難のある性格に対してその是正に小村が尽力した様子は伺えない。どうも早々に諦めていた節があり、好きな酒や待合い通い(←早い話、女郎屋通い)に走っていた様だった。
 小村は父親が事業に失敗して多額の借金を背負い、それを肩代わりしたため、生涯を通じてその返済と高級官僚・爵位叙任者とは思えない貧困に苦しんだが、債権者に追い立てられる日々に開き直ったものか、持ち前の太々しさもあって外務省の宴会には必ず参加して一円も払わず飲み食いし、返済日前後には外泊し、その為に怒った町子は赤坂や新橋を歩き回って夫の居場所をかぎ出し、人前でも平気で小村に当り散らしたと云う。

 とても夫婦間に愛情があったとは思えず、何故離婚しなかったのか謎ですらある。子供達のことを想ってか?世間体を気にしてか?恐ろしいほど互いにマイペースだったことが開き直るように現状を受け入れたのか?
 まあ、何故離婚するのか、しないのかが周囲には丸で意味不明な夫婦はごまんと存在するから、妻帯したとの無い薩摩守には理解しようがない話なのかも知れない(泣)。



恐妻、その背景 小村寿太郎町子との夫婦関係が冷え切った背景には、両者の性格の不一致と、小村を生涯苦しめた貧困がその背景に伺える。まあ、町子の性格の方が要因としては大きいかな?

 とにかく、この夫婦、様々な意味で普通ではない。
 まず夫である小村だが、小柄な体格で、様々な多病にも苦しんだが、決して弱い男ではなかった。藩士時代には剣術稽古で自分より大柄な相手にも果敢に挑んだと云われ、精神的なタフさは身体のそれを大きく上回り、小柄ながら精力的に動き回り、毒舌も多用した彼は「ネズミ侯爵」と呼ばれた。
 小村町子よりも背が低かったが、アメリカ留学時代、常に背の高い女性に囲まれていたことで慣れたものか、小村町子と並んで歩くことは気にならなかった。また外交官でありながら非社交的で、その一方で外交の為に誠実を重視する旨を公言していながら、国家の為には大嘘をつかなければならないことがあるのを認識する現実主義者でもあった。
 ポーツマス講和会議において、ロシア全権のウィッテは仲介国であるアメリカの要人との会話を日本側に漏らさない為にフランス語で話していたが、小村はフランス語が分かるのに素知らぬ顔で一ヶ月を過ごし、最終日に実はフランス語を介していることを示してウィッテを大いに驚かせたりもするような人物だった。
 町子ほどではないが、感情の起伏も大きく、恐らく、良いか悪いかは別にして、恥や価値観を巡る感情が周囲の人々と異なっていたのだろう。

 一方の町子は上述した様に、家事も育児も女中任せで、自分は芝居見物に夢中になる女性だった。一応は新婚時に着物を金に換えて借金返済に苦しむ小村を助けた話もあるが、実家からの送金で女中を雇っていたことを考えると小村家の凄まじい貧困の為に彼女が何かを成した話を聞かないから、その辺りの経済観念もよく分からない。
 小村の貧困ぶりは凄まじく、家具は長火鉢一つと座布団二つだけ、衣類はほとんど質屋に入れたため、 いつも同じ服を着ており、長男の欣一が夜盲症、所謂、鳥目に掛かる有様だったから、ビタミンAが不足する様な食生活だったことが伺える。

 正直、家事を実家からの送金で雇った女中の丸投げ出来る状態にあるのなら、小村家の苦境や子供達の食生活を改善する方に金銭を使いそうな気がするが、その辺りの町子の価値観はどうだったのだろうか?
 いずれにせよ、ポーツマスからの帰国後に小村邸が脅迫に等しいバッシングを受けた際に精神を病んだとされているから、好き勝手しつつも夫程精神的にタフではなかったのだろう。

 ここまで夫婦で個々の在り様が異なり、それでも夫婦関係が続くとなると、やはり互いにかかわらない道を選ぶと思われ、小村は仕事に、町子は趣味に没頭し、各々相手に対するストレスから逃れたと思われる。


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令和四(2022)年五月三〇日 最終更新