第玖頁 木戸孝允………DV夫を止められた男も自分の女房には弱し

名前木戸孝允(きどたかよし)
生没年天保四(1833)年四月二六日〜明治一〇(1877)年五月二六日
役職長州藩士→明治政府参議
恐れた妻木戸松子
恐妻要因逃亡中を支えてくれた頃からのべた惚れ?



略歴 拙サイト初登場となる木戸孝允………そうとう気合入れて掛からないと「略歴」が「略歴」じゃ済まなくなるな(苦笑)…………。
 冗談(?)はさておき、木戸孝允黒船来航の二〇年前である天保四(1833)年四月二六日に長州藩の藩医・和田昌景の長男に生まれた(養子が後継者に決まっていたので次男扱いだったが)。初名は小五郎
 七歳の時に家名断絶の危機にあった桂孝古に請われて養子となり、桂小五郎となる。

 一七歳の時に吉田松陰の門弟となり、二〇歳の時に江戸に留学して剣術、洋式砲術、兵法、造船術、蘭学等を学んだ。
 翌年黒船が浦賀に来航すると世の中、取り分け長州藩は大きく動き、小五郎は安政四(1858)年の安政の大獄以降、薩摩・水戸・越前等の諸藩の尊皇攘夷派の志士達と広く交わるようになり、藩内では高杉晋作・久坂玄瑞等と並んで尊皇攘夷派の指導者となった。
 その為、文久四(1864)年の池田屋事件禁門の変を経て但馬出石で潜伏生活を余儀なくされたりもした。

 高杉等が藩政を掌握すると帰藩し、翌年に藩主より木戸の姓を賜り、慶応二(1866)年に坂本龍馬の仲立ちで西郷隆盛と薩長同盟を締結した。
 やがて大政奉還を経て江戸幕府が倒れると薩長藩閥政府の長として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任。五箇条の御誓文の起草(明治元(1868)年)、版籍奉還(明治二(1869)年)、廃藩置県(明治四(1871)年)を主導して中央集権化に尽力した。

 同年、岩倉遣欧使節団に参加して諸国の憲法を研究。明治六(1873)年に帰国すると留守中に西郷が決めた征韓論を大久保利通と共に潰した。欧米を回った結果、外征よりも内政の充実が先と考え、憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では資本主義の弊害に対する修正・反対や、国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進した。

 だが、話は決してスムーズではなく、征韓論を巡る対立から西郷は下野し、共に征韓論を潰した大久保は木戸の憲法制定を容れず、富国強兵政策を優先せんとした。
 結局、明治七(1874)年に台湾出兵に反対して木戸は参議を辞職。翌年の大阪会議を経て政府に復帰するも大久保との対立は続き、政府内で木戸は孤立した。そして健康が優れず、西南戦争中だった明治一〇(1877)年五月二六日に出張中の京都にて病没した。木戸孝允享年四五歳。
 大久保の手を握りながら木戸が発した今際の言葉は、「西郷よ。いい加減にしないか。」だったと云われている。



恐妻振り 木戸孝允を恐妻家の一人にカウントするのには少々躊躇いがある。木戸の妻は松子で、一般には芸妓時代の名前である幾松(いくまつ)の名の方が有名だが、別段木戸松子を怖がっていた訳でも、頭が上がらなかった訳でもない。
 偏に、「維新の三傑」と称された男が、愛した女の為に地位も名誉も棒に振りかねない程危ない橋を渡り続けたことが興味深くて採り上げた(苦笑)。

 その松子だが、天保一四(1843)年一〇月一日の生まれで、木戸とは一〇歳年下である。
 その経歴には諸説あるが、一般に云われているのは、若狭小浜藩士・木崎市兵衛を父に、三方郡神子浦の医師・細川益庵の娘・末子(すみ)を母に生まれたが、父が罪を得て閉門となった果てに妻子を残し京都へ出奔したことで母の実家に連れられ、神子浦で幼少期を過ごした。
 嘉永四(1851)年またはその翌年に出奔した父の手掛かりを求めて母と共に上洛。その後、父の消息や会えたか否かには諸説あるが、一条家諸大夫の次男・難波常二郎の養女となった。

 安政三(1856)年に一四歳で舞妓に出ると美しく利発で、芸事にも秀でた彼女は養母であった初代・幾松の名を襲名し、瞬く間に有名な芸妓となり、洛中潜伏中の木戸 (当時は桂小五郎)との出会いを迎えた。

 要するに客として出会った訳だが、幾松に惚れ込んだは、彼女を贔屓にしていた山科の豪家と張り合い、両者は互いに幾松を自分だけのものにしようと随分お金を使ったが、最後は伊藤博文が刀で脅し幾松のものになった云われている。
 この情熱に絆されたものか、以後、幾松が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支え続けた。

 池田屋事件禁門の変を経て、長州藩が朝敵とされるとも幕府に追われる身となった訳だが、二条大橋周辺に乞食の姿となって隠れ潜んでいたに、幾松はよく握り飯を持っていったと云う逸話はその頃の事であると考えられる。

 木戸孝允の通称に「逃げの小五郎」と云うものがあるが、これは木戸が弱かった訳ではない。幕府を敵に回し、時に朝敵とされ、命が幾つあっても足りない程の危機的状況を乗り越えた木戸の有能振り(剣術・柔術にも優れていた)を称えた司馬遼太郎の言葉が端緒だが、字面から一部誤解されている。  ともあれ、幾松は各地を渡り歩いては潜伏し続け、互いを気遣い合った。そんな二人がようやくにして落ち着いてともに暮らし始めたのは慶応元(1865)年の末か慶応二(1866)年初め頃と云われている。

 明治元(1868)年八月、幾松は初めて木戸の実家・萩を訪れ、この事から、この時に初めて正式に妻となる者して、木戸の身内に紹介された。そして幾松は長州藩士・岡部富太郎の養女としたことでようやく木戸との婚姻が成立し、木戸松子となった訳だが、岡部家への養女入りは勿論そのままの身分差では婚姻など思いもよらないからでったが、そのことを差っ引いても当時の正式な婚姻としては前例がないほど身分さを乗り越えたものだった。

 勿論木戸は多忙な間を縫って松子を溺愛し続けた。明治二(1869)年六月からは東京で暮らし出したが、木戸は友人達との宴席に松子を伴うことも多く、箱根に療養に行った際も松子を伴い、明治九(1876)年に二度目の箱根へ行った際には夫婦で明治天皇の皇后にも謁見した程だった。
 台湾出兵問題で下野して山口に帰った時も一緒に帰っているが、この頃木戸は外国の友人に、松子のダイヤモンドの指輪を注文している。
 そして夫婦で洋行する話も出て、木戸は二人で行く事を照れながらも、松子の洋装の心配までしていたが、これは木戸の夭折により叶わなかった。

 何か、「恐妻家」と云うより「愛妻家」と云う気がしてきたが(笑)、酒乱で、酔って暴れると手の付けられない黒田清隆を投げ飛ばし、以後、「木戸が来た!」と云うだけで黒田を大人しくせしめたほどの柔術の達人が、身分違いの恋の為に相当な無茶を繰り返し、プレゼントや旅行への同行に余念がなかった程にべた惚れだったのは興味深く、微笑ましくもある。



恐妻、その背景 「糟糠の妻」と云う言葉がある。酒糟や米糠で糊口をしのぐ様な貧困・身分の低さに苦しんだ時期から自らを支えてくれた妻を指す言葉で、権力を握った後に多くの側室を迎えた者でも、「糟糠の妻」を大切にした者は多い。
 有名で分かり易い例を挙げれば、豊臣秀吉と高台院(お禰)と云えようか?

 つまり、若き日の辛酸期を支えたくれた妻は何年経とうと、如何に身分が上がろうと大切な訳だが、ある意味木戸孝允松子もこの関係と云えるだろうか?
 我々は歴史の結果を知っているから、木戸が「維新の三傑」と云われるほど身分と業績を極め、その夭折を惜しむが、幕末に当初は攘夷を叫び、幕府を敵に回し、朝敵のレッテルを貼られて幕命を受けた数々の雄藩と死闘を重ねた長州藩で倒幕に尽力することはいつ命を落としてもおかしくない日々だった。

 実際、薩長藩閥が明治新政府の重職を独占出来た後こそ伊藤博文、井上馨、山縣有朋と云った長州出身者が内政・外交・軍事の大権を握ったが、そこに至るまで長州藩は吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作と云った有能の士を数多く失っている(才能を発揮する前に命を落として歴史に埋没した者も多いことだろう)。
 木戸が「維新の三傑」たり得たのも、生き延びることに成功したからで、洛中や出石での潜伏を支えてくれた松子は、正式な妻ではなく、現代風に云えば「カノジョ」に近い存在ながら、木戸にとって「糟糠の妻」に等しかったことだろう。
 それゆえ伊藤にライバル客を刃物で脅させたり、身分の差を乗り越える為に数々の尽力をしたりした訳で、政治を初めとする仕事以外の時間は、木戸にとって松子がすべてだったのだろう。

 奇しくも、明治一〇(1877)年から明治一一(1878)年に掛けて木戸、西郷隆盛、大久保利通の「維新の三傑」が相次いでこの世を去り、明治新政府の要人は次世代にシフトした。彼等が長生きすることで糟糠の妻と共に静かな余生を送っていたら、どんな夫になっていたかもまた興味深い。


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令和四(2022)年五月三〇日 最終更新