第参頁 福島正則………相手に背中を見せた男

名前福島正則(ふくしままさのり)
生没年永禄四(1561)年〜寛永元(1624)年七月一三日
役職豊臣家重臣→広島藩初代藩主
恐れた妻継室:昌泉院
恐妻要因不明



略歴 永禄四(1561)年、尾張海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)で桶屋の倅に生まれたとされる。幼名は市松。母が木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の母・なかの妹にあたる縁で、長じて秀吉の小姓になった。
 天正六(1578)年に播磨三木城の攻撃で初陣を飾ったのを皮切りに、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いに奮闘。殊に賤ヶ岳の戦いにおいては、加藤清正・片桐且元・平野長泰・糟屋武則・脇坂安治・加藤嘉明らとともに、世に云う「賤ヶ岳の七本槍」との称賛を勝ち取った訳だが、他の六人がその褒賞として三〇〇〇石を得る中、一番槍・一番首を認められた正則はその筆頭として、唯一人五〇〇〇石を拝領した。

 その後も小牧・長久手の戦い根来寺攻め四国征伐九州征伐に従軍し、天正一五(1587)年の九州平定の後に伊予今治一一万三〇〇〇石を与えられて一端の城持ち大名となり、小田原征伐でも秀吉の天下統一に貢献した。
 朝鮮出兵が始まると、文禄の役では五番隊の主将として京畿道(朝鮮半島中西部で、現在の大韓民国首都ソウルもこの道にある)の攻略にあたった。
 文禄の役中は出陣・渡海と帰国を繰り返し、文禄四(1595)年七月の秀次事件に際しては高野山に追放された豊臣秀次の切腹に立ち会い、秀次の領土だった尾張清洲二四万石を与えられた(ちなみに秀次妻子の処刑に立ち会ったのは石田三成)。
 一時休戦を経た慶長の役において、正則は実戦を担わず、更なる大攻勢を石田三成・増田長盛とともに指揮することが秀吉によって計画されていたが、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去したことで朝鮮出兵そのものが中止となった。

 翌年潤三月に豊臣家中における武断派と文知派を抑えていた前田利家が死去すると正則は武断派の急先鋒となって、石田三成を襲撃せんとしたがこれは徳川家康に止められた(七将襲撃事件)。
 家中の仲の悪さを利用された形ではあったが、これに前後して正則は家康と接近し、翌慶長五(1599)年、家康が上洛命令に従わない上杉景勝を成敗すべく会津に向かうと正則も六〇〇〇の兵を率いてこれに従軍した。
 周知の通り、この間隙を縫って石田三成が毛利輝元・宇喜田秀家を抱き込んで打倒家康の兵を挙げたことが関ヶ原の戦いとなった訳だが、三成挙兵の報を受けた家康は下野小山にて評定を行い、従軍大名達にその妻子が大坂で人質状態になっていることを告げ、家康軍を離れても恨まないと宣言した。
 従軍大名達が躊躇いを見せる中、予め家康の意を受けた黒田長政と打ち合わせ済みだった正則は逸早く家康の味方につくことを誓約。それに釣られて殆んどの大名が一斉に「君側の奸」として三成を討つ為に家康に従うことを誓約した(←日本人やなぁ(苦笑))。

 江戸城に入った家康は正則達を反転して西上させ、軍勢は正則の居城・清洲城に入り、そこから美濃に進軍し、織田秀信(信長嫡孫)が守る岐阜城を攻め落とした。
 これを受けて家康も徳川本軍を率い、九月一五日に関ヶ原にて東西両軍が激突すると、中央先方に位置した福島勢は宇喜多秀家勢一万七〇〇〇と激闘を繰り広げた。
 これまた周知だが、戦は小早川秀秋を初めとする西軍諸将の裏切りから両軍の均衡が崩れ、西軍の戦線は崩壊。福島勢は宇喜多勢を総崩れに追い込み、戦は東軍大勝利に帰結した。
 その後も正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後の論功行賞で安芸広島四九万八〇〇〇石の大大名・広島藩主となった。

 その二年後に徳川家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと徳川と豊臣の上下関係は名実ともに逆転し、諸大名は豊臣家を蔑ろにして徳川家への忠勤に励んだが、正則は徳川家に仕えつつも、可能な限り豊臣家を主筋に立て続け、慶長一三(1608)年に秀頼が病に倒れた時は見舞いに大坂城へ駆けつけもした。
 だが、この間、広島藩主としての務めに従事していた正則は豊臣家よりも我が家中・我が領土のことを第一に考えなければならない立場にシフトしていった。

 慶長一六(1611)年三月、秀頼と家康が二条城での会見を行った際には、徳川の下風に立つことを断固として拒む淀殿を加藤清正・浅野幸長とともに説得して、会談を実現させた。その折、清正と幸長は秀頼の身辺を警護し、この時病として臨席しなかった正則は枚方から京の街道筋を一万の軍勢で固めて万一の変事に備えた。
 会見は無事に終了したが、直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった豊臣恩顧の大名達が相次いで死去し、正則もそれまでと同様には秀頼に仕えられなかった。

 そして大坂の陣が勃発した際に、秀頼は豊臣恩顧の大名に味方して大坂城に入城するよう要請したが、大名で応じたものは皆無で、正則も拒絶した。ただ密かに力になりたい想いはあったものか、大坂の蔵屋敷にあった蔵米八万石を豊臣方が接収するのを黙認し、弟・福島正守が豊臣軍に加わった。

 そのこともあってか正則は「隠れ豊臣派」と幕府に露骨に疑われ、黒田長政・加藤嘉明とともに江戸留守居役の名目で軟禁され、従軍を許されなかった。大坂夏の陣では長政と嘉明は従軍を許可されたが、正則のみは許されず、嫡男・忠勝が参戦した。

 元和五(1619)年、正則は台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕した咎で武家諸法度違反に問われた。
 正則は修繕工事の二ヶ月前に幕府重鎮である本多正純に届けを出していたが、それは無かったことにされ、嵌められる形で、また工事内容や言い分にも数々難癖をつけられた形で安芸・備後五〇万石没収、信濃川中島四万五〇〇〇石への減転封を命じられた。
 よく誤解されているが、広島藩主でなくなったことで福島正則武家諸法度違反による改易大名第一号のように云われているのは誤りで、正則への処分は減転封であって改易ではない。

 移封後、正則は忠勝に家督を譲り、出家・隠居したが、翌元和六(1620)年忠勝が早世し、意気消沈した正則は二万五〇〇〇石を幕府に返上。四年後の寛永元(1624)年七月一三日に死去した。福島正則享年六四歳。正則の死には左遷や豊臣家滅亡に対する失望・絶望から腹を切ったものと見る向きもあり、幕府の検死役が到着する前に正則の遺体を火葬したことを咎められ、残り二万石も没収され、ここに大名としての福島家は取り潰された(子孫は旗本として御家は存続)。



恐妻振り 福島正則の人生を一通り見るだけなら、妻の影響は不鮮明で、夫婦生活の詳細も不鮮明である(←勿論道場主が不勉強なだけとも云える)。
 本作に登場する他の恐妻家の中には人生や職務に怖い奥さんが影響を与えたものも多いが、その中にあっては正則の場合はその影響は大きいとは云い難い。ただ、猛将然とし、戦場で怖いもの知らずに暴れまわった正則が、かみさんが怖かったというギャップが面白くて採り上げたことを白状したい(苦笑)。

 ともあれ、正則の奥さんについて触れたいが、正則が恐れたのは継室の昌泉院 (しょうせんいん)で、正室を亡くした後に徳川家康の養女として娶あわされたものだが、実父は徳川家譜代家臣・牧野康成の娘で、慶長九(1604)年に嫁してきて、二女を儲けた。

 伝わっているところによると、かなり嫉妬深い性格で、女性問題で逆上した際に薙刀で正則に斬りつけ、これには正則も堪らず逃げ出したと云われている。ただ、これ、いつの話で、どういう状況下にあったのか、問題となった女性が誰なのかも薩摩の守の研究不足で全くの不明である。
 ただ、正則はこのときの心境を、「今まで敵に背中を見せたことなかったのが初めて背中を見せた………。」とこぼしたと云うから、戦場で強敵と遭遇したり、劣勢に立たされたりしたのとは全く異質の恐怖だったのだろう。

 ちなみに昌泉院正則の減転封後、二女とともに実家に戻っている。



恐妻、その背景 福島正則昌泉院の何を恐れたのだろうか?

 まず、夫婦喧嘩での負傷・死傷を恐れたものとは極めて考えにくい。一般的には「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが強く、乱暴者としての逸話には事欠かない。
 幼い頃に父親の桶屋家業を継ぐために修行していたが、大人と喧嘩をして鑿で相手を殺害したことすらある。また大酒飲みで酒癖が悪く、泥酔して家臣に切腹を命じるなど、激情家で、自分に対しても人に対しても命を重んじていたとは云い難く、戦場での数々の働きも討ち死にを恐れていたとは思えない。
 戦場を別にしても、安芸広島に船で初入国する際に嵐が起きたのに腹を立てて、何の罪もない船頭を斬り捨てた逸話があり、関ヶ原の戦いでも家臣が徳川家の足軽に侮辱されて自害し、その上司である旗本・伊奈昭綱の切腹を正則が要求した際にも「聞き容れられなければ城地を立ち去るのみである」と啖呵を切っている。
 これらを見る限り、おおよそ福島正則に恐れという感情は極端に弱いか、怒ればそれを忘れてしまうのだろう。

 ただ、考えるに、正則には正則なりの仁義や筋があり、それに逸脱することを彼の中で許さなかった節がある。それが良い方に生きれば彼は男気ある人物に映り、悪い方に生きれば傍若無人な乱暴者に彼を貶めたのだろう。
 関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城を攻め落とした際には、秀吉のかつての主筋であった城主・織田秀信が切腹するのを押し止め、彼の助命を嘆願した。
 前述の泥酔で家臣を切腹させたときも、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたと云われている。
 思うに、正則は豪決然とした人物で、戦場や生き様において槍を合わせることを好み、筋の通らないことに対しては相手が誰であろうと対峙することを辞さないが、それゆえに女子供を初めとする弱者に膂力で圧倒することをよしとしなかったのだろう(正則の激情家振りは過去作『酒好きな奴等』も御参照下さい)。

 となると、昌泉院に薙刀を突き付けられた正則としては様々な意味でこれを斬る訳にいかず、それ以前に刃を交えること自体が様々な意味で恥を意味し、同じ恥でもそれよりはましな「逃げる」を選ばざるを得なかったのだろう。

 話は逸れるが、あるとき正則は、細川忠興に「なぜ武勇もなく得体の知れない茶人の千利休のことを慕っているのか?」と尋ね、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。
 茶会が終わると正則は「わしは今まで如何なる強敵に向かっても怯んだ事は無かったが、利休殿と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた。」とすっかり利休に感服したと云う。  槍を手にした戦場では誰よりも勇猛であらんとした福島正則だったが、それ以外の世界では第一人者を立て、「敵わない」と見た相手には従順だったのだろう。
 正則昌泉院の何に対して「敵わない」としたかは不明だが、興味は尽きない。


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令和四(2022)年四月一四日 最終更新