第陸頁 真田信之………あの岳父の娘じゃなぁ………

名前真田信之(さなだのぶゆき)
生没年永禄九(1566)年〜万治元(1658)年一〇月一七日
役職武田家家臣→信濃松代藩初代藩主
恐れた妻小松姫
恐妻要因激し過ぎる女房の好戦的性格と徳川家の圧?



略歴 真田信之を取り上げるのは初めてではないし、その人生は九三年に及ぶので、いつもの書き方だと膨大な分量になりかねないので(苦笑)、本当に「略歴」に努めたい。

 信之は永禄九(1566)年信濃の地侍・真田昌幸の嫡男に生まれた。初名は源三郎源三郎誕生時、祖父・幸隆の三男だった父・昌幸は武藤家を継いでいたが、天正三(1575)年に長篠の戦いで伯父の信綱・昌輝が共に戦死したために期せずして真田姓に復した。
 父同様、人質として武田勝頼の下で過ごしたが、これまた父同様優遇され、天正七(1579)年に一四歳で元服する際に亡き信玄の「」の字を賜って真田信幸となった。

 だが、三年後の天正一〇(1582)年三月一一日の天目山の戦い(武田崩れ)で武田家は滅亡。直前に信幸は昌幸が籠る上田に戻っていた。
 武田家の滅亡は歴史上の典型的な櫛の歯現象で、勝頼の身内・譜代・国人衆が次々と彼から離反した。新府城を捨てることになった勝頼を昌幸は信州上田に迎えんとしたが、譜代大名は勝頼が買いを捨てることに反対し、信濃衆への不信を露わにしたために昌幸・信幸は上田に戻った訳だが、皮肉にも勝頼は郡代にて小山田信茂の裏切りに止めを刺される形で滅亡し、逆に真田家は命拾いした。

 武田家滅亡後の甲斐・信濃は織田・徳川・北条・上杉の取り合う地となり、殊に本能寺の変で織田信長が横死すると、混迷の度合いは激化した。小豪族である真田家はその生き残りを賭けてこれらの大勢力に対して、時に臣従し、時に抵抗した。
 紆余曲折を経て、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正一七(1589)年に徳川家康との和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。
 このとき、駿府城に出仕した信幸の才能を高く評価した家康は、重臣本多平八郎忠勝の娘・小松姫を養女とし、信幸に娶らせた。

 そして天正一八(1590)年の小田原征伐で秀吉による天下統一がなされると、信幸が戦功を挙げた地である上野松井田城が真田家に与えられ、沼田領が真田家の所領として確定、ようやく真田家は安定期を得た。

 慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去すると、徳川家康の勢力が増し、慶長五(1600)年に家康は同じ五大老の一人である上杉景勝が城砦を補強し、上洛命令にも従わないとして、秀頼の命を受けて諸大名を率いて会津征伐に出陣。真田昌幸・信幸・信繁父子も従軍した。
 そして家康を挟撃せんとして、石田三成が毛利輝元・宇喜田秀家を担いで挙兵。その報を受けた家康は小山にて軍議を開き、諸大名の妻子が大坂で人質状態であることを告げた。

 家康はこの状況下をもって諸大名が陣を離れることを拒まないとしたが、黒田長政への根回しもあって、福島正則が三成憎し、家康への合力を唱えると堰を切ったように諸大名はこれに同意した。
 しかし、真田父子は例外で、犬伏で家族会議を開くとどちらが勝っても一族が生き残れるよう図り、結果、信幸は岳父・本多忠勝に味方して家康陣営に残り、大谷吉継を岳父としていた信繁が陣を去り、昌幸は信繁とともに上田に向かった。

 周知の通り、関ヶ原の戦いは東軍の大勝利に終わり、信幸は昌幸の旧領に三万石を加えて上田藩九万五〇〇〇石の主となった(上田城は破却を命じられたので、引き続き沼田城を本拠とした)。
 当然、西軍についた父と弟は処罰対象となり、信幸は手柄を辞退し、徳川家への忠勤を示すために真田家の通じである「」の字を捨てて「信之」と名乗りを改めてまで父・弟の助命を嘆願した。
 結果、岳父・忠勝の口添えもあって、辛うじて命は救われたものの、昌幸・信繁は高野山九度山へ流罪となった。昌幸はその後大名に復帰することはなく同地に没し、その折に信之は父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。

 表面上は父・弟と袂を分かちつつも、九度山にて困窮する二人への援助を続けていた信之だったが、大坂の陣が勃発する直前に信繁は厳重な警戒網を掻い潜って大坂城に入城し、さすがにこのときは信之も弟の為に何かをするでもなく、病気で出陣出来ない自身に代わって、長男・信吉、次男・信政を出陣させた。

 元和八(1622)年一〇月、信濃松代に加増移封され一三万石の中堅大名となり、明暦元(1656)年に隠居した。このとき既に信之は九〇歳で、信吉、その子で嫡孫である熊之助に先立たれていたため、家督は信政が継いだ。
 しかし二年後に信政も父に先立ったため、後継者争いとなったが、孫・幸道(信政の六男)が第三代藩主となり、まだ二歳の幸道のため、信之が藩政を後見した。だが、さしもの長寿を誇った信之も人の子で、同年一〇月一七日に死去した。真田信之享年九三歳。



恐妻振り 真田信之の妻は三人分かっている。
 最初の妻は清音院殿で、彼女は信之の従妹だった(その父は伯父・信綱)。真田家は祖父・幸隆の没後、その嫡男である信綱が継いでいたが、上述した様に信綱は次弟・昌輝と共に長篠の戦いに散っていた。ために、昌幸が期せずして家督を継いだ訳で、信之 (当時信幸)と清音院殿の従兄妹婚が、信綱を立てたものであるのは想像に難くない。
 彼女は信之の嫡男・信吉を産んだが、それに前後する言動・人柄・事績は全くの不詳で、後に正室の座を小松姫に譲らされ(そのため、信吉生母としての立場すら世に忘れられた)、元和五(1619)年九月二五日に没したことしか伝わっていない。生年も実名も、信之より年上だったか年下だったかすら不明である。

 その清音院殿に取って代わって正室となったのが小松姫である。
 彼女は上述した様に、徳川四天王の一人でもあった猛将・本多平八郎忠勝の娘で、家康の養女として信幸に嫁いだ訳だが、正直、「後から嫁いできた者が正室に 取って代わる」と云うのは相当に稀有である。
 このようなことが起きた背景は後述したいが、普通に考えるなら実家を憚った故であろう。

 ともあれ、豊臣秀吉による天下統一直前の天正一七(1589)年より、小松姫は諸大名の正室達・世子同様に聚楽第・伏見城・大坂城下の武家屋敷に住まうことととなったが、云うまでもなく人質である。一方、「家女」という立場になった清音院殿は地元である沼田に住んだので、どちらが幸せな立場かは微妙である。
 ただ、猛将として名を馳せた父・忠勝に似たものか、家康・秀忠に対しても直言し、弟の本多忠政・忠朝が戦地から帰還した際には高らかに忠節を讃えるなど、勝気に溢れ、云いたいことを堂々と述べる性格で、愛用の枕屏風には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた物など、勇壮な絵を所持していた点からも小松姫は「男勝り」と評された。

 そんな小松姫の男勝り振りで有名なのが関ヶ原の戦い直前の出来事である。
 上述した様に、真田家は天下分け目の戦いに東西のどちらが勝っても御家が存続出来る様に、敢えて一族で東西に分かれた。
 信幸と信繁は妻の実家の縁で、信幸が東軍に、信繁が西軍に、そして父も西軍に付いた訳で、父子及び兄弟は犬伏で袂を分かった。その後、昌幸と信繁が上田城に籠り、西上する徳川秀忠の軍を足止めして天下分け目の戦いに遅参せしめたのは有名だが、その上田帰還に際して小松姫は烈女振りを発揮した。

 犬伏を発った昌幸・信繁は西軍方として徳川方の西上に備えて領国の上田に戻る途中、沼田に立ち寄った訳だが、それを小松姫が阻んだ。
 小松姫の云い分では、夫の信幸は内府(内大臣)・徳川家康に従って会津征伐に従軍しており、それを離れて城内に入らんとするのは裏切りか利敵行為に他ならない、とするもので、自身甲冑を纏い、薙刀を手に家人にまで武装して、門前に立つ岳父を「昌幸公の名を騙る偽物に違いない。」としてその掃討を命じた。
 豊臣秀吉をして「表裏比興の者」、武田信玄をして「我が目」と云わしめた傑物・真田昌幸も、義理の娘の敢然たる立ち居振る舞いに驚愕し、「流石武士の妻なり」と褒めながら撤退する他なかった。
 また、『改正三河後風土記』によると、昌幸は入城を拒む小松姫に対して、「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候。」と申し出たが、小松姫はこれを断ったものの、侍女を遣わして昌幸等を城下の旅宿に案内し丁重にもてなし、孫(信幸の子達)と会わせたとある。
 その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じ、それを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ。」と、その手並みを褒め称えたと記されている。

 謂わば、真田信幸の妻にして、本多平八郎忠勝の娘として夫の留守を守り、軍事の前には岳父といえども気を許さず、さりとて軍務に差支えのない分には一族の体面を許す度量を持っていた烈女振りを表わしたものとされている。

 このときの小松姫の強硬姿勢が夫を立てたものか、実家(本多家)とその主家(徳川家)を立てたものか、或いはその両方だったかは推測するしかない。それ以前に歴史学者によっては、この話をフィクションとする方もいる(←一応は、豊臣家の天下だったので、正室扱いの小松姫は大坂にいた筈として)。
 ただ、この逸話が真実とするなら、誠に「本多忠勝の娘」らしく、自らの信念の為には何物も恐れず直言居士的に振舞う小松姫の姿が見て取れる。
 ただ、だからと云って、小松姫が妻として横暴だったり、夫に愛されなかったりした訳では決してない。

 関ヶ原の戦いにて徳川の天下が到来すると、夫の信幸改め信之が加増を受ける一方で、岳父・昌幸と義弟・信繁が厳罰を受けることなったが、このとき小松姫は実父・忠勝とともに岳父と義弟の助命嘆願を行った。
 そして高野山への配流後も、信之は父・弟の生活を援助しつつ、減刑嘆願を繰り返し、小松姫もこれに密かに協力した。減刑嘆願は功を奏さなかったが、その際に昌幸は信之家臣に宛てた書状にて小松姫からの音信に礼を述べる内容が記されていたと云うから、夫とともに小松姫も昌幸を気遣っていたと推測される。

 江戸幕府が開府されると豊臣政権下では畿内にて居住していた諸大名の正室・世子は江戸城下に住むこととなったが、真田家では当初信之の母・山手殿が江戸屋敷に住み、慶長一八(1613)年に山手殿が亡くなると小松姫が江戸に移った。
 翌々年、大坂の陣が勃発すると病気で出陣出来ない信之に替わって長男・信吉、次男・信政が実弟・本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣した。この時小松姫は初陣となる息子達を気遣い、同時に義弟・信繁が大坂方に与したことを知り、書状でもって夫に代わって様々な指示を出したり、情報収集したりしていた(ちなみに大坂夏の陣で忠朝は討ち死にした)。

 その後、泰平の世が来て数年を経た元和六(1620)年二月二四日、小松姫は病気療養の為に草津に向かう途中の武蔵鴻巣で逝去した。小松姫享年四八歳。
 彼女の遺骨は彼女に所縁のあった三つの寺に分骨されたが、その内の一つである芳泉寺(信濃上田)は一周忌の際に信之によって建立されたもので、もう一つの勝願寺(武蔵)は小松姫が生前に深く帰依していた円誉不残が住職を務めてた寺で、次女の見樹院によって墓石が建立されたものであった。
 妻として、母として、十二分に愛されていた女性だったと云えよう。

 ここまで書いておいてなんだが、小松姫が烈女であったゆえに時と場合によっては夫・信幸に逆らうことも辞さない女性だったことは容易に推察出来るが、だからといって彼女が信之を蔑ろにしたり、尻の下に敷いた証拠にはならないし、信之が彼女を恐れたり、疎んじたりした形跡も見られない。
 偏に、状況証拠として、小松姫が父親似の性格で、既存の正室を押しのけて正室待遇を得たことだけが事実として確認出来るのみである。
 実際のところ、信之小松姫をどう見ていたのだろう?小松姫に先立たれた時点で信之は五五歳で、その後三八年の時を生きた信之の人生に小松姫がどれほどの存在感を持っていたかは詳らかではないし、泰平の世における信之の言動もまたそれほど詳らかではない。
 単純に実父のカラーが濃過ぎた故に小松姫もまた色眼鏡で見られ、彼女に関する数々の逸話が後世の創作である可能性が強いことも触れてはおきたい。



恐妻、その背景 正直、小松姫の烈女振りが際立っているが、そんな彼女を夫として真田信之が恐れていたかは不詳である。
 ただただ不可解なのは、小松姫が事実上の正室に居座った事実である。
 史上には側室でありながら(側室だからこそと云うべきか)、正室以上に寵愛されたり、正室以上に発言権をもって夫を手玉に取ったりした側室の存在は枚挙に暇がない。ただ、その場合でも正室はあくまで正室で、多くの場合実家の家柄・家格・実力もあってその権威までが脅かされることは稀だった。
 まして後から嫁いできた者が先に正室となっていた者を追った例など極めて稀である。

 徳川家康は築山殿の後に豊臣秀吉の妹・朝日姫を継室に迎えているが、この時点で既に築山殿はこの世にいなかった。同様に武田信玄の正室として有名な三条夫人も継室だったが、信玄は最初の正室が妊娠中に病死するという不幸に見舞われており、三条夫人を迎えるまで側室もいなかった。
 そこを行くと、信之の正室・清音院殿がその座を追われた理由が分からない。上述した様に清音院殿の父は信之の伯父・真田信綱で、長篠の戦いで戦死していなければ真田家の家督はその血筋が継いでいた。それゆえ昌幸も兄の血統を重んじて姪の清音院殿を息子の正室に迎えたと思われる。
 そんな背景がありながら、清音院殿が正室の座を追われ、世子生母としての存在を忘れられかけるに至ったのは不可解ですらある。

 オーソドックスに考えるなら、徳川家への忠勤を示す為だろう。
 豊臣恩顧の大名や外様大名の中にも、徳川家と姻戚になることで生き残りを図った例は枚挙に暇がなく、他ならぬ家康自身、秀吉死後から伊達政宗、福島正則、蜂須賀至鎮等と姻戚を結び、四大老(前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)から糾弾されたことがあったように、自己勢力拡大の為に多くの大名家と縁を結んでいた。
 勿論、家康の娘の数にも限界があるから、重臣の娘や支族である松平家の娘を養女として迎え、形式の上では多くの大名世子(例:黒田長政、加藤清正、山内忠義、有馬豊氏、小笠原忠清、蜂須賀至鎮、毛利秀元、鍋島勝茂、福島正則、その他)を「娘婿」と位置付けた。
 勿論、「家康の娘」を迎える以上、様々な意味で粗略な待遇をする訳にいかなかったのは想像に難くない。一方で油断も出来なかったことだろう。加藤清正は継室に迎えた家康養女と床に入る際に必ず懐剣を忍ばせていたと云う。チョット下品なことを書くと、そんな物を持って夜の営みの際にはどうしていたのだろう?

 話を戻すと、家康の養女であり、その家康の重臣の実の娘を妻に迎えた信之が同じ苦心を抱えたことは容易に想像出来る。だが、妻の実家・養父を恐れたからと云って、極端な追従は却ってその女性のプライドを傷つけかねない。
 まして小松姫は実父に似た強硬姿勢を持っていたとはいえ、間違った行動は一切取っていない。にもかかわらず、不可解な正室待遇を考察するに、これはやはり、徳川家への忠勤を過剰なまでに示す必要性を考えていたからではあるまいか?

 秀吉死後から元和偃武まで様々な戦闘や政治的駆け引きで豊臣恩顧の諸大名をも取り込んだ家康・秀忠だったが、両者は決して豊臣恩顧の諸大名に心を許していた訳ではなかった。
 関ヶ原の戦いにおける論功行賞にて加藤(清正&嘉明)、福島正則、小早川秀秋、黒田長政、細川忠興、山内一豊、池田輝政、藤堂高虎と云った豊臣恩顧でありながら自分達に味方した諸大名を家康は大幅加増でもって報いたが、それら領国は九州・四国・中国地方が主で、江戸や大坂を基点とするなら、「遠国に追いやった。」ととも取れるものだった。
 大坂冬の陣においても黒田長政、加藤嘉明、福島正則には江戸城留守居を命じて従軍を許さず、正則だけは大坂夏の陣においても引き続き留守居を命じられた。そしてそんな史実や背景故か、家康と豊臣秀頼の二条城会談から大坂冬の陣までの間に加藤清正、浅野長政、浅野幸長、真田昌幸、池田輝政と云った豊臣恩顧の諸大名が相次いで世を去ったことが数多くの歴史小説で「暗殺された。」と云うことにされた(特に加藤清正に対するそれはひどい!)。

 そして元和偃武後も福島正則の大減封を皮切りに、加藤忠広(清正の子)を初め、豊臣系と見られた多くの諸大名が武家諸法度に違反したとして改易や大減封に追いやられた。
 勿論、真田家同様、細川家、黒田家、山内家、島津家、毛利家、上杉家、伊達家のように御家騒動を起こしながらも幕末まで存続した大名も少なくなく、松平支族の中にも嗣子が生まれなかったことで改易に処された家も少なくないから、改易問題をもって徳川幕府を悪し様に罵るのは考え物だが、信之が父や弟の赦免を願いつつも、幕府に忠勤を示した度合いが他の大名より大きかったことに間違いはなかろう。

 これも上述しているが、信之は初名が「信幸」だったのを、先祖代々の通字「」の字を捨てて、「信之」と改名して豊臣派としての真田家との決別を示した。それでも昌幸・信繁に煮え湯を飲まされた秀忠の恨みは深く、秀忠は信之を責めこそしなかったものの、終生まともに目を合わさなかったと云うから、信之の苦衷も半端なかったことだろう。
 また、関ヶ原の戦い直後は褒賞を擲ってでも父と弟の助命を請い、高野山に配流された父と弟を何かと気遣った信之だったが、大坂城に入城した信繁の為に為したこれといった言動は見られない。
 さすがに「二度は味方出来ない。」と云ったことだろうか?同時に、関ヶ原の戦い直後にともに助命嘆願を行ってくれた岳父・本多忠勝は既に亡く、小松姫に再度の(それも裏切ったにもかかわらず)助命嘆願をさせるのも忍びなかったのではなかろうか?

 ともあれ、信之以外にも「家康養女」を正室・継室に迎えた諸大名は多いが、信之ほどに妻と幕府を憚ったと思われる例も見当たらない。信之が過剰に幕府を恐れたのか?それともここまで気を遣ったからこそ真田家は生き残れたのか?
 小松姫がもう少し長生きしていれば少しはこの謎が解けたかもしれないが、興味深い問題ではある。


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令和四(2022)年五月一七日 最終更新