第漆頁 徳川秀忠………愛妻家?恐妻家?

名前徳川秀忠(とくがわひでただ)
生没年天正七(1579)年四月七日〜寛永九(1632)年一月二四日
役職江戸幕府第二代征夷大将軍
恐れた妻崇源院
恐妻要因妻の異常な嫉妬深さ?同情を含めた夫の愛情?



略歴 云わずと知れた江戸幕府第二代将軍である。
 出生は父・徳川家康が東海地方の一大名に過ぎない浜松城主だった天正七(1579)年四月七日のことで、三男に生まれた。母の西郷局は家康の人生中盤において最も寵愛を受けた側室で、翌年には秀忠の同母弟なる松平忠吉を産んでいる(家康の妻妾で二人以上の子を産んだものは稀少である)。

 長松丸と名付けられた彼は、異母兄の於義丸(結城秀康)が母の出自故に父と縁の薄かったことからも事実上の嫡男として育てられた。天正一二(1585)年の小牧・長久手の戦いに対する和睦にて於義丸が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子となることが決まると、その存在感は秀吉にも注目されるところとなった。
 殊に家康の継室・朝日姫には大層可愛がられた。

 朝日姫は既に佐治日向守に嫁いでいたのを、家康を取り込まんとする兄・秀吉の命で無理やり離縁させられ、家康の嫁がされたもので、当時既に彼女が四三歳だったこともあって、政略結婚が百も承知であったことを考慮に入れてもかなり無理のある婚姻で、結婚式も大層白けたものだったと云われている(結婚の条件として、家康と朝日姫の間に子が生まれても徳川家世子としないことも定められていた)。
 当然、朝日姫にとっても不本意極まりないもので、家康も秀吉も何かと彼女を気遣いはしたものの、通常の夫婦生活は成立し得なかった。そんな失意の朝日姫にとって、実母を亡くしたこともあって自分を慕ってくれる長松丸は大層可愛い存在だったようで、このことも長松丸が秀吉に注目される契機となった(当時の慣例で、諸大名の世子は人質として秀吉の膝元に招かれたが、長松丸はかなり長く猶予された)。

 不幸にして朝日姫は程なく世を去ってしまうが、長く実子に恵まれなかった秀吉は養子や人質として来た筈の諸大名の幼子をかなり可愛がり、家康を取り込むという目的もあったにせよ、天下統一直後に長松丸を元服させて徳川秀忠と名乗らせ、織田信雄の娘を養女にして秀忠と婚約させもした。

 この娘は不幸にして夭折したことで婚約は破談となったが、後に秀吉は甥(姉の子)・秀勝の未亡人・お江(崇源院)を養女として秀忠に娶せた。
 お江は秀吉の側室・茶々(淀殿)の実妹だったから、秀吉と秀忠は義兄弟にして、義理の親子と云うへんてこな関係になったが、まあ当時としては珍しくあるまい。
 加えて、年老いてようやく実子を授かった秀吉は、息子・お拾い(秀頼)の行く末を案じ、徳川家との結び付きが必要不可欠と考え、秀忠お江の間に生まれた長女・千姫をお拾いと婚約させたから、秀吉と秀忠は子の親同士という関係でもあった。

 だが、慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去すると、家康は徐々にしかし着実に天下取りに邁進し始めた。秀吉の死から二年後に関ヶ原の戦いに至った訳だが、このとき二一歳の秀忠は、一歳年下の同母弟・松平忠吉とともに初陣を迎えた。
 だが、家康後継者としての力量を問われる戦いでもあったこの天下分け目の戦いで秀忠は大失態を演じてしまった。
 石田三成挙兵を知った家康は福島正則を初めとする豊臣恩顧の大名に東海道を先発させ、彼らが岐阜城を落としたとの報に接すると機は熟したとみて自らも大軍を発して東海道を進み、秀忠には本多正信、榊原康政、大久保忠隣等とともに中山道を進ませた。
 だが、その途次、手柄を焦った秀忠は信州上田城に籠る真田昌幸を攻め、百戦錬磨の昌幸に翻弄されていたずらに日数を費やし、結局上田城を落とせぬまま関ヶ原に向かったが、その到着を待たずして天下分け目の戦いはたった一日で東軍の大勝利に終わっていた。

 この遅参はさすがに家康を激怒させ、秀忠はしばらく大津に留め置かれ、対面も叶わなかった。同時に家康は自分の後継者を誰にするかについても大いに頭を悩ませた。
 重臣達も、本多正信・本多忠勝がこの時点での長兄で上杉景勝の抑えを立派に務めた次男・結城秀康を推せば、井伊直政は娘婿にしてこの戦いで自分とともに手傷を負いながら奮戦した四男・松平忠吉を推し、榊原康政と大久保忠隣は律義者の秀忠を推した。

 結局、二度も他家への養子に行った秀康を徳川家に戻すのは無理があり、戦への強さよりも守成に優れた者を後継とすべきとの意見が通る形で、秀忠は家康後継者として江戸城に住まい、秀康には越前北ノ庄が、忠吉には尾張が与えられた。
 そして慶長七(1602)年二月に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた家康は僅か二年で秀忠に将軍の座を譲ると大御所として駿府に隠居した。勿論これはいまだ豊臣の世を捨て切れない秀頼・淀殿・豊臣恩顧の諸大名に「徳川の世」、「徳川家による世襲」を示すためのもので、幕府の実権は家康が握り続けた、当然の様に(笑)。

 秀忠が将軍に就任する前年には嫡男・竹千代(家光)が生まれており、既に徳川家世襲の流れは内外にアピールされており、これに前後して秀忠は次女を前田家、三女を結城家、四女を京極家に嫁がせ、末娘は朝廷に嫁がせた(家康死後の話だが)。
 同時に幕藩体制を固め、大坂の陣が勃発すると秀忠は関ヶ原の悪夢を繰り返さないために一〇万の大軍を率いて急上洛したため、「いたずらに世を騒がせた」として家康の叱責を受けたと云うから、誠に軍人としての活躍には恵まれない男だった。

 大坂の陣こそは自分が総大将になれることを期待した秀忠だったが、それは叶わず相変わらず家康がすべての実権を握り続けた。
 だが、大坂城を脱出して家康の下に駆け込んだ千姫が夫・秀頼、姑・淀殿の助命を嘆願し、家康がこれに折れかけると、娘可愛さを腹に隠して「何故夫(秀頼)に殉じなかったのか?!」と叱責するなど、自分なりの主義主張をアピールした。

 周知の通り、大坂の陣で豊臣家は滅亡し、元和偃武を迎えた翌年に父・家康が薨去すると名実ともに幕府の頂点に立った秀忠だったが、自身は父に遠く及ばない人物だと自覚しており、良くも悪くも二代目に徹した。
 ただそれは家康の事績や権威に隠れるような甘いものでは無く、武家諸法度に違反したとして反徳川的と見做した諸大名を次々と改易。大坂を天領化し、大坂城の修復、伏見城の破却を命じ、弟の頼宣を紀伊に転封し、西日本への睨みを強化した。
 元和五(1619)年、上洛した秀忠は近畿一円を巡り、上記を含む様々な手を打ち、朝廷に対しても元和六(1620)年六月一八日に末娘・和子を後水尾天皇に嫁がせるなど、内外に政治的辣腕を振るった。
 この間、内政に、人事に、外交に幕藩体制を固めたが、一方で体制を乱すと見做せば身内でも容赦しなかった。家康死後に弟・忠輝(家康六男)を改易したのを皮切りに、甥の松平忠直(兄・秀康の子)が病を理由に参勤交代の義務を果たさなかったことを責めて隠居させた。

 元和九(1623)年六月二五日に上洛・参内した際に将軍職を嫡男・家光に譲り、大御所となったが、政治の実権に関しては「以下同文」であった(笑)。
 江戸城西の丸に移った秀忠は大御所・将軍の二元政治という形を取ったが、その辣腕は変わらず、寛永三(1626)年一〇月二五日に家光・忠長とともに上洛し、二条城に行幸した後水尾天皇に拝謁し、三年後の寛永六(1629)年の紫衣事件では朝廷・寺社統制を徹底して行い、翌寛永七(1630)年九月一二日には和子が生んだ孫娘を即位させ(明正天皇)、天皇の外戚となることに成功した。
 だが、寛永八(1631)年に兄である以前に将軍である家光への敬意が足りないとして増長傾向の強かった次男・忠長の領地を召し上げて蟄居させた頃から体調を崩し出し、寛永九(1632)年一月二四日に薨去した。徳川秀忠享年五四歳。



恐妻振り 徳川秀忠の唯一人の妻は崇源院である。「崇源院」とは法名なので、生前の諱がある訳だが、その名は「お江」、「お江与」、「達子」、「小督」と諸説あり、そのどれが本当なのかはっきりしない。
 本作では「お江」とするが、まずは秀忠の恐妻家振りを考察するために、お江と云う人物にスポットを当てたい。  彼女は浅井長政とお市(織田信長妹)の三女に生まれ、まだ乳飲み子の頃に父を伯父・信長に滅ぼされ、母も再嫁した柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れたことで継父とともに北ノ庄に自害して果てた。
 そんな悲惨な運命に翻弄された果てに、二人の姉(茶々・初)とともに「両親の仇」に等しい羽柴秀吉に引き取られ、育てられた彼女は秀吉の命ずるまま最初に従兄の佐治一成に嫁ぎ、秀吉によって離縁させられると秀吉の甥・羽柴秀勝に再嫁し、一女を産むもその秀勝は若くしてこの世を去った。

 つまり、二度の婚姻歴があり、更には秀忠より六歳年上の姉さん女房だった。二人の婚姻は文禄四(1595)年九月一七日のことで、時に秀忠一七歳、お江二三歳の時だった。若い時から年上女性好きの道場主なら一七歳で二三歳の女性と「ムフフ………💗」なことが出来るとなると大喜びしそう…………ぐええええええええっっっっ……(←道場主のカンガルー・クラッチを食らっている)。
 いてててててて………まあ一〇代での婚姻が半ば当たり前で、場合によっては一〇歳にならない齢での婚姻すらも珍しくなかった当時の価値観では、二〇歳を過ぎた上に二度の結婚歴のある相手との婚姻を歓迎しない声も多かった。

 確かに相手に婚姻歴(それも複数)があり、年上となると、夫婦生活の主導権を握られる可能性は高くてもおかしくない。実際秀忠お江以外の側室を迎えることは終生なかった。
 厳密には二度浮気し、子・幸松(保科正之)も成したが、幸松と対面を果たしたのはお江の死後で、幸松を産んだお静は幸松が養子入りした保科家に同行したため、秀忠と会うこともなかった。

 お江が嫉妬深い女性であったことは史料にもはっきり記されており、秀忠がそれを憚ったのも間違いない。勿論一口に「嫉妬深い」からと云って、夫を束縛するか否か、またその度合いは人それぞれである。
 醜聞好きな人間の性(さが)から、誇張の可能性も考えなければならないだろう。ただ、それらのことをある程度差っ引いたとしても、お江の嫉妬深さは、秀忠が手を付けた女性及びその子に危害を加えかねないと見られていた。
 一説によると、秀忠には家光が生まれる前に他の女性に手を付けて産ませた「長丸」と云う男児がいたが、長丸は二歳で夭折しており、その死因をお江に灸で殺された。」とするものすらある(大河ドラマ『春日局』では長丸もお江(同ドラマでの名前はお江与)の子であり、麻疹で夭折したことになっていた)。
 上述した様に、お静が幸松(保科正之)を身籠った際には、お江を憚って母子の存在を隠し続け、父子対面が叶ったのはお江の死後だったが、秀忠は二人の存在を隠す為に、見性院(武田信玄次女・穴山梅雪未亡人)に預けて匿い、保科家への養子入りをさせた訳で、ここまで徹底したのも、お江による母子殺害を恐れたと考えればしっくりくる(大河ドラマ『春日局』でも『葵−徳川三代』でも両名の存在隠蔽に周囲が頭を悩まし、後者では秀忠 (西田敏行)は真剣に母子が殺されかねないと狼狽えていた)。

 まあ、実際に大奥に籠るお江に江戸城外にいるお静・幸松に刺客を放つ手段が有ったか否かは判然としないのだが、程度はともかく、秀忠お江の嫉妬から起こしかねない行動にある種の恐れを抱いていたことは間違いないだろう。



恐妻、その背景 天下の征夷大将軍、その立場上からも世継ぎを儲ける重要性は他の諸大名以上に大きい筈の者が何故に側室を堂々と持てなかったのかには謎が残り、それゆえに徳川秀忠を「恐妻家」とする声は多い。
 ただ、男尊女卑の世にあって、お江が巷間に抱かれている程に夫を意のままにコントロールしていたかは疑問が残る。

 良いか悪いかは別にして、お江を初めとする浅井三姉妹は情の深い姉妹である。
 戦国の世に翻弄され、両親を相次いで失い、複数回に渡る落城を経験し、時として意に添わぬ婚姻を強いられ、何重にも姻戚を結んだにもかかわらず婚ぎ先同士で対立し合い、滅ぼし合った。
 しかしながら、それでも三姉妹の互いを思い遣る心根が変わることなく、その女性らしさや母性や愛憎渦巻く姿は数多くの大河ドラマ・歴史ドラマで取り上げられ、花を添えてきた。
 お江にしてみれば、秀忠を完全に尻の下に敷き、己が意思を幕政に反映させることが出来るなら、決して豊臣家を滅ぼさないようにしただろう。だが、実際にはお江の意のままにならぬことは起きまくった。

 お江秀忠との間に二男五女を儲け、長女・千姫は姉の子・豊臣秀頼に嫁ぎ、次女・玉姫は外様ながら百万石の前田家に嫁ぎ、三女の勝姫は夫の兄・結城秀康の子・松平忠直に嫁ぎ、四女の初姫は姉・常高院に養女としてもらわれたことで姉の名を与えられ、京極家に嫁ぎ、末娘の和子に至っては後水尾天皇に嫁ぎ、後に明正天皇となる皇女を産んだ。
 また、前夫・豊臣秀勝との死に別れで離別せざるを得なかった最初の娘・完子は姉・淀殿に大切に育てられ、九条家に嫁いだ。
 上っ面だけを見れば、豪華絢爛な姻戚を重ね、完子の血筋に至っては現在の天皇家にまでその血脈を存続させている。

 だが、その背後に潜む不幸も並ではない。
 戦国の常ではあったが、当時の女児が幼くして嫁いだ例は多く、珠姫に至っては三歳で徳川家を去っている。交通の容易でない当時、婚姻が実家との根性の別れになることも珍しくなく、珠姫は二四歳の若さで病死し、両親と再会することはなかった。
 千姫や勝姫の様に再会した例もあるが、前者は他ならぬ夫・秀忠の手で婿・秀頼を殺されて実家に戻ったもので、後者は夫の不行状を巡るトラブルで江戸に下向してのもので、これまた手放しでは喜べない再会だった。
 娘だけではない。長男・竹千代(家光)は幼少の頃より病弱で、竹千代の乳母を務めた春日局は伯父・信長を殺した明智光秀の重臣の娘だったことで、竹千代が実母よりも乳母に懐いたことから、お江が竹千代・春日局と険悪な仲だった風に数々のドラマで描写された。
 薩摩守に云わせれば、伯父・信長こそ実父・浅井長政をお江の物心がつかぬ頃に死に別れに追いやった張本人で、本当に春日局を敵視したか疑問が残るところなのだが、複雑な人間関係に置かれたことは事実である。
 息子・娘が幼くして自分の下を離れた苦汁から、次男・国千代(忠長)は自らの手で養育されることを許されたお江だったが、逆にこれが仇となって、お江は国千代を偏愛し、一時は病弱で人見知りの激しい竹千代よりも国千代が三代将軍になると取り沙汰され、周囲もお江と国千代に媚びたと云われている。
 結局、大御所・家康の鶴の一声で三代将軍は竹千代に決まり、国千代は元服後に駿河・甲斐・遠江百万石の大身となったが、「自分こそ将軍」との想いを強く持ち過ぎたのか、忠長は家光に疎まれ、お江の死後に改易となり、秀忠死後に非業の最期を遂げることとなった………。

 薩摩守が推察するに、秀忠が「恐妻家」とされ、側室を(正式に)持たず、当時の夫としては妻の云い分にかなり耳を傾けたのも、彼がお江を深く愛し、それと同等かそれ以上に彼女の前半生や血縁を襲った不幸に深く同情していたのではあるまいか?
 大半は上述したが、華やかな彼女の人生で、彼女の血縁者が戦国の混迷・非情さに翻弄された例を下表に簡単にまとめてみた。

お江の身内とその不幸
血縁者お江との続柄不幸
浅井長政伯父・織田信長に攻められて自害。
お市羽柴秀吉に攻められ、継父の柴田勝家とともに自害。
浅井久政祖父伯父・織田信長に攻められて自害。
万福丸助命の約束を反故にされ、伯父・信長の命を受けた秀吉に殺される。
茶々(淀殿)長姉岳父・徳川家康、夫・徳川秀忠に攻められて自害。
豊臣秀頼岳父・徳川家康、夫・徳川秀忠に攻められて自害。
佐治一成最初の夫・従兄秀吉の命令で婚姻するも、即座に秀吉の命で離婚。
豊臣秀勝二度目の夫慶長の役で若くして戦病没。
完子長女秀勝没後、徳川秀忠に嫁ぐに際し、秀吉の命で連れていくことが叶わなかった。
千姫長女豊臣秀頼に嫁がされ、豊臣家ではそれなりに可愛がられたが、祖父と父に夫と姑(伯母)を滅ぼされる形になり、その後の婚姻も概ね不幸。
珠姫次女家康の命で、僅か三歳で前田家に嫁ぎ、二度と会えることはなかった。
初姫四女生まれてすぐに姉・初(常高院)の養女となり、母子として過ごせた日数は僅か。
徳川忠長次男偏愛が祟って、兄・家光と不仲に。母の死後に改易、父の死後に自害。

 これらの不幸には時代や寿命的な不可抗力もあるし、彼女の死後のこともあるので、すべてをひっくるめるのはいささか暴論だが、過程においても彼女は苦しんでいる。
 結果的に彼女は待望の男児・家光を産み、家光は三代将軍となった(徳川将軍一五代の中で、御台所(将軍正室)が世継ぎを産んだ例はお江だけ)。だが家光を産む前に生まれた子はすべて女児で、将軍家世継ぎを待望する周囲はお江を「女腹」と陰口を叩き、家康を初めとして秀忠に側室を持つことを進める者が後を絶たなかった。
 時代が異なるが、この時代より三〇〇年以上の後の昭和時代にあってさえ、昭和天皇と香淳皇后の間に四人も相次いで女児が誕生したことで、香淳皇后は「女腹」との陰口を叩かれ、側室制度の復活を目論む者も続出した(昭和天皇は頑としてその進言の応じず、五人目にして明仁親王(現・上皇陛下)が生まれた訳だが)。

 だが、秀忠は(くどいが正式には)側室を迎えず、お江との間に子を成し続け、ついに五人目にして嫡男を儲け、その後も二人の子が生まれたのだから、秀忠お江を熱愛していたことに疑問の余地はないだろう。熱愛の背景に上述したお江の不幸に対する同情が有ったか?有ったとしてその程度は?までは想像がつかないが、娘を巡ってのお江の不幸は父である秀忠も同様なので、彼自身の身につまされる面もあったと思われるが、幸も不幸も含め、夫婦が思い合い、愛し合ったことの事実はしっかりと受け止めたい。

 徳川秀忠を「恐妻家」として、その原因を現代劇風に語るなら、浮気や妻への想いが足りないと見做されることで、妻の自分への愛情が薄れることを恐れたものだろう。
 フィクションではあるが、大河ドラマ『葵−徳川三代』にて、なかなか男児に恵まれないお江(岩下志麻)を変わらず愛し続ける秀忠を前に、淀殿(小川真由美)が「妹は幸せ者」と呟いていたシーンが真実を捕らえていると、人としては思いたいところである。


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令和四(2022)年五月一七日 最終更新