第捌頁 徳川光友………御三家筆頭も形無し

名前徳川光友(とくがわみつとも)
生没年寛永二(1625)年七月二九日〜元禄一三(1700)年一一月二六日
役職尾張徳川家第二代当主・大納言
恐れた妻千代姫
恐妻要因妻の実家の権威?



略歴 徳川家光が将軍(但し、大御所徳川秀忠も健在)だった寛永二(1625)年七月二九日に徳川御三家筆頭の尾張藩主・徳川義直の長男として名古屋に生まれた。母は「吉田甚兵衛の姉」とのみ伝わっている。
 待望の長男だったことで父・義直と同じ五郎太との幼名を与えられた(「五郎太」は、将軍家における「竹千代」、紀伊家における「永富丸」、水戸家における「鶴千代」同様、尾張徳川家の世継ぎ候補に与えられる幼名となった。)

 長じて、元服するに際し、時の将軍家光から「」の字を、父・義直から「」の字を与えられ、徳川光義と名乗る(生涯において、「徳川光友」を名乗った期間よりも、「光義」を名乗った期間の方が長いのだが、便宜上本作では「光友」で通します)。
 慶安三(1650)年、父の死に伴って尾張藩第二代藩主に就任。寛文一二(1672)年に名を「光友」と改め、数々の制度を打ち立てて藩政の基礎を固めた。

 藩政のみならず、武芸や文化的な諸芸にも優れ、剣術は新陰流六世を継承(ちなみに五世は父・義直)する腕で、書は後西院・近衛信尋とともに「三筆」と称せられるほどだった。
 また艶福家で、一一男六女を儲け、男児の内数人は尾張国内にて別家を立て、尾張藩の支藩を為し、御三家筆頭としての権威を高めた。

 元禄六(1693)年四月二五日に家督を嫡男・綱誠(つななり)に譲り、隠居生活に入ったが、元禄一二(1699)年に綱誠は食傷で父に先立って急逝(藩主の座は綱誠の子・吉通が継いだ)。
 息子に先立たれたことに意気消沈したものか、それとも単に寿命だったのか、翌元禄一三(1700)年一一月二六日に逝去した。徳川光友享年七六歳。
 翌月には従弟で、同じ御三家二代目当主だった水戸光圀も食道癌で逝去し、時代は一つの変換期を迎えつつあった。



恐妻振り 道場主が徳川光友を恐妻家だったと知ったのは、大河ドラマ『八代将軍吉宗』でのことだった。根上淳氏演じる徳川光友は、紀伊光貞(大滝秀治)、水戸光圀(長門裕之)の従兄弟達と共に御三家第二代目当主として将軍綱吉(津川雅彦)を支え、天下に君臨し、その威風堂々たる佇まいは後に八打将軍吉宗(西田敏行)が「威風堂々」として、その時点の当主であった尾張宗春(中井貴一)、紀伊宗直(柄本明)、水戸鶴千代(長瀬優秀)達の至らなさを比較して嘆いていた。
 個人的な想いを書くと、根上淳氏は『帰ってきたウルトラマン』でMATの二代目隊長・伊吹竜を演じ、強面で厳めしい面構えと前任の加藤隊長(塚本信夫)以上の厳しさで隊員達を指揮しながら、内面には深い度量を持ち、家庭では妻と一人娘を溺愛する(しかし甘やかさない)スタイルを演じていたのが思い出深いので、御三家筆頭の古武士を見事に演じていたのを感嘆する一方で、妻・千代姫(中村メイ子)に酒席で少しの注意を受けただけで狼狽えていた様が新鮮であり、驚愕であり、笑えたのを覚えている。

 ただ、逆を云えば、実のところ、このシーンとナレーション以外に光友が恐妻家だったことを示すシーンや話を薩摩守は見たことがない。
 具体的な言動にて光友千代姫を恐れたり、遠慮したりした例は見られない。また、上述した様に、光友は艶福家で、一一男六女を儲けたが、当然だが、千代姫が全員を産んだ訳ではない。
 光友には一一人の側室がいたことが分かっており、千代姫が築山殿やお江の様に側室の存在を疎ましく思って夫を束縛するような女性だったとは思えない。

 ただ、正室としての立場は光友及び尾張徳川家に徹底させた様である。
 まず千代姫だが、彼女は三代将軍徳川家光の娘で、家光にとって最初の子だった。つまり従兄の娘をとの婚姻だった訳だが、それ自体はこの時代珍しくも何ともない。問題は一族にあっては従兄でも、公的には主君にして、幕府の最高権力者が岳父になったことだった。
 具体的な記録が無くても、千代姫の立場は正室以外に考えられず、正室である彼女の生んだ綱誠が光友の後継者となった訳だが、嫡男とされた綱誠は実際には次男である。
 勿論、この当時正室の生んだ最初の男児が「嫡男」とされたのは常識で、側室から生まれた長子は「庶長子」とされた。
 注目すべきは、綱誠が嫡男とされただけではなく、綱誠と同じく千代姫から生まれた松平義行が「次男」とされ、庶長子の松平義昌は「三男」と位置付けられたことである。結果的には順当に綱誠が第三代藩主となり、義昌も義行も松平の姓が与えられて支藩の大名に列せられた訳だが、綱誠が藩主就任前に夭折した場合でも義行が第三代藩主となっていたのは確実だったことだろう。

 直接関係あるかどうかは分からないが、千代姫が将軍息女だったのに対し、それ以外の光友側室達は全員身分が低かった。
 大名や幕府・藩の重臣の娘は一人もなく、想像に過ぎないが、光友が身分の高い家の息女を側室としなかったのも、千代姫の生んだ子供達と側室の生んだ子供達に明らかな格の違いを示す為だったのではなかろうか?
 そして子沢山とはいえ、光友の子供を最も多く生んだのは千代姫で、早世した娘二人を含めて四人産んでいる。その他の側室は三人産んだ者もいるが、多くは一人きりだった。やはり光友千代姫にどこか遠慮したと考えられるのではなかろうか?

 ちなみに千代姫光友の庶長子・松平義昌と最後の男児・松平義著(よしあき)を養子分としている。最初の男児と最後の男児を養子分としたことにどういう意図や背景があったかは不明だが、千代姫を正室として、光友の子女全員の母として位置づけさせた、と見るのは深読みだろうか?



恐妻、その背景 上述した様に徳川光友の正室・千代姫は三代将軍徳川家光の娘で、家光にとって最初の子だった。単純に最高権力者の愛娘を迎えたことのプレッシャーが光友にはあったと考えられる。
 少し話が逸れるが、記録の少ない千代姫を考察するために、ここで彼女を巡る背景に触れておきたい。

 千代姫の父・家光は「生まれながらの将軍」ゆえ、早くに正室も宛がわれたが、家光自身は過去に何らかのトラウマがあったらしく、女性よりも男色を好み、正室との間に夫婦の営みもなく(←当時、世継ぎ問題を起こさないため、将軍が大奥で誰と寝たかはすべて記録されていた!)、一説には世継ぎを心配した春日局が千代姫の母・振姫を男装させて近づけ、懐妊にこぎつけたとされている。
 これで女の良さを知ったものか(笑)、三四歳にして最初の子・千代姫を得た家光は数々の側室を迎え、四八歳で没するまでに千代姫以外にも五男を儲けた。

 いずれにせよ周囲の目論見が功を奏した訳で、家光没後は長男の家綱が、家綱が嗣子なく世を去ると四男の綱吉が将軍位を継いだ。
 ただ、その契機となった振姫は千代姫を産んだ僅か三年後に若くしてこの世を去り(享年は一〇代だったと推測されている)、さしもの家光もただ一人の娘で、幼くして母に死なれた娘の身を案じたものか、かなり溺愛したようで、千代姫の生後四ヶ月目に宮参りを行った際に天海(←まだ生きていた!)に命名させ、寛永一五(1638)年二月二〇日の、まだ千代姫が二歳の時点で徳川光友と縁組した。ちなみにこのとき光友は一四歳である。

 勿論、この時代従兄妹同士での婚姻は珍しくない。また年齢的なものからしても当人の意志など有って無きが如しだったことだろう。
 となると、千代姫との婚姻に当たって、将軍家から尾張家へ、尾張当主義直から光友へ相当なプレッシャーがあったとも思われる。それを考察するのに、下表を見て頂きたい。

光友千代姫婚姻時点(寛永一五(1638)年二月二〇日)での関係者の年齢
関係者続柄年齢公的立場
徳川光友新郎一四歳尾張徳川家次期当主
千代姫新婦二歳将軍息女
徳川義直新郎父三八歳尾張徳川家当主
徳川家光新婦父三五歳征夷大将軍

 この時点で家光の子は千代姫のみ(後継者となった家綱の誕生はこの三年後)で、四代将軍候補は不在である。もし家光が千代姫の弟を成すことなく世を去ることがあれば、幕府の制度的にも、義直か光友が将軍となることも充分あり得た。
 実際、この三年後に生まれた竹千代(家綱)を皮切りに四人の男児を成したとはいえ、家光の薨去は光友千代姫婚姻の一三年後のことだった。義直は家光の前に世を去ったが、生涯病弱だった家光の急死はいつでもあり得たことで、実際の享年(四八歳)もお世辞にも長命とは云えないものだった。その間に生まれた家光の子供達も、この時代の乳幼児の死亡率からしてちゃんと育ったかどうかは疑わしい。
 露骨な野心を見せずとも順当に尾張家が将軍家を継げる可能性は充分にあり、そうなると将軍家に対して徹底した忠勤を見せることが何より肝要だったと思われる(実際に野心ありと目されたのは紀伊家だった)。

 思春期間なしの少年が、乳幼児に等しい妻を迎え、妻とその父を徹底的に立てることを求め続けられれば、恐妻的な夫になるのも無理は無かったのかも知れない。
 しかも、その時代、次々代を担った将軍もまた妻の弟で、妻はある意味将軍より強かったのだから。


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令和四(2022)年五月三〇日 最終更新