第肆頁 武田信清……亡父好敵手の下で御家存続

末弟File肆
名前武田信清(たけだのぶきよ)
生没年永禄三(1560)年〜寛永一九(1642)年三月二一日
武田信玄(たけだしんげん)
禰津御寮人
義信(よしのぶ)、海野信親(うんののぶちか)、信之(のぶゆき)、勝頼(かつより)、仁科盛信(にしなもりのぶ)、葛山信貞(かつらやまのぶさだ)
官位・立場上杉家家臣
兄弟仲良好


略歴  このような作品を作らなければ、武田信清を採り上げる事なんてなかっただろうなあ(苦笑)。
 永禄三(1560)年に武田信玄の七男に生まれた信清は、幼名を大勝と云い、六人の兄の幼名が太郎(義信)、次郎(信親)、三郎(信之)、四郎(勝頼)、五郎(盛信)、十郎(信貞)だったのを見れば、兄弟順的にも武士として育てられる予定になかったと思われる。

 大勝が生まれた年、長兄・義信の岳父・今川義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げ、甲駿相三国同盟の瓦解が始まりかけていたのだが、それでもこの時点では正室を母に持つ義信が武田家の嫡男であることに内外において認識されていた。
 兄達が甲斐や信濃の名家に養子入りする中、大勝は永禄一〇(1567)年に八歳で信玄の命により巨摩郡加賀美(現・南アルプス市加賀美)の法善寺に入り、玄竜と号した。後に(時期は不明だが)四兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城主となった。

 元亀四(1573)年四月一二日に父・信玄が陣没した時、信清の兄で存命だったのは次兄・信親、四兄・勝頼、五兄・盛信、六兄・信貞の四人だった。
 この内、海野家を継承していた信親は幼少時の病で盲目となったため、僧籍にあった(僧名は龍芳)。盛信は仁科家を、信貞は葛山家を継承していて、家督は勝頼が継いでいたのだが、厳密にはこれは正式なものではなかった。
 勝頼の母・諏訪御寮人は信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘で、武田家中の者達は諏訪御寮人がいつ信玄の寝首を掻くか分からないとして側室に迎えることに反対した。これに対して信玄は、「信濃の名族で、諏訪大社の大祝(おおほふり)である諏訪家の名跡を絶やさない為」と称して諏訪御寮人の生んだ四郎は「諏訪家の人間」とした(それゆえ、勝頼だけが武田家の通字である「信」の字を与えられていない)。
 だが、信玄臨終時、長兄・義信、三兄・信之は既に亡く、次兄・信親は盲目だったため、勝頼が継ぐしかなかったのだが、生粋の甲斐国人は心許さず、武田家の家督は信玄の孫で勝頼の長男であった信勝が継ぐものとして、勝頼は信勝が成長するまでの「後見人」と云うのが公式な立場とされた。
 結局、この複雑な関係が武田家の結束を乱し、信勝は信玄が没した一〇年後に正式に家督を継ぐとされたのだが、皮肉にも武田家の滅亡はその一〇年目のことだった。

天正一〇(1582)年三月一一日、織田信長・徳川家康による甲州征伐を受けて勝頼は妻子と共に天目山に自刃し、武田家(の嫡流)は滅亡した。
これに際して信清は高野山無量光院に逃れ、同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・菊姫の縁を頼って上杉氏に寄寓し、景勝から三〇〇〇石を与えられた。景勝と菊姫の間に子は生まれず、やがて豊臣秀吉が天下を取るに及んでこれに臣従した上杉家は会津に移封となり、信清は三三〇〇石を賜った。

その後、慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いで上杉家が与した西軍が大敗したことで、景勝は会津一二〇万石から米沢三〇万石への大減封を食らった。信清の知行も一〇〇〇石となったが、それでも藩主親族、高家衆筆頭として遇された。
 寛永一九(1642)年三月二一日、武田信清逝去。享年八三歳。天目山にて「甲斐源氏の名家・武田氏は滅亡した。」とされるが、武田信玄の血筋はこの信清の子孫が現代にも残している。



兄弟  例によって話を整理する為、武田信清の兄達を表にして見てみたい。

武田信清の兄達
兄弟順 名前 生母 名跡 生年 width=14%信清との年齢差 没年
義信 三条夫人 甲斐武田氏 天文七(1538)年 二二 永禄一〇(1567)年一〇月一九日
信親 三条夫人 海野氏 天文一〇(1541)年 一九 天正一〇(1582)年三月一一日
信之 三条夫人 西保氏 天文一二(1543)年 一七 天文二二(1553)年
勝頼 諏訪御寮人 諏訪氏→武田氏 天文一五(1546)年 一四 天正一〇(1582)年三月一一日
盛信 油川夫人 仁科氏 弘治三(1557)年 天正一〇(1582)年三月二日
信貞 油川夫人 葛山氏 永禄二(1559)年 天正一〇(1582)年三月二四日

 まず信清が生まれた永禄三年の時点で、長兄義信は信玄の後継者として内外に認められ、今川義元の娘を娶ることで甲駿相三国同盟の一翼を担っていた。
 次兄信親は海野氏を継ぐも、幼少時に病の為に失明したため出家しており、三兄信之は夭折していた。
 四兄・勝頼は元服前だったが、信清誕生の翌年に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪四郎神勝頼となった。恐らく信清誕生時には「武田家ではなく、諏訪家を継承する者」として家中において見られていたのだろう。
 そして五兄・盛信も同じ年(つまり信清誕生の翌年)に仁科氏を僅か四歳で継承し、六兄の信貞はまだ二歳でこれといった動きをまだ歴史上に見せていなかった。

 勝頼より上の兄達とは年齢が一〇歳以上離れており、各々が家督継承に向けて動いていたので住むところも異なり、兄弟間の繋がりはそれほど濃いものではなかったと思われる。
 ただ、長兄義信以外の男児が基本として甲斐・信濃の名家名跡を継いでいるのを見ても、それらが信玄による戦略的なものであるのは一目瞭然である(毛利元就の子供達が吉川家、吉川家、穂井田家を継承した様なもの)。
 信清誕生翌年の第四回川中島の戦いで叔父・武田信繁が戦死し、その四年後に義信が父・信玄に反旗を翻して幽閉され、そのまた二年後に切腹した様に、この辺りから武田家の繁栄に翳りが見え出すのだが、この時期幼少の信清にどうこう出来るものではなかった。

 まして義信切腹のその年に信清は僧籍に入れられた。還俗して安田家の名跡を継いだのは信玄死後のことである。
 信玄が陣没した時、信玄の息子達で生きていたのは信親(三三歳)、勝頼(二八歳)、盛信(一七歳)、信貞(一五歳)、信清(一四歳)だった。全員元服していたとはいえ、武田家中の中枢に参画出来たのは、兄弟の中では勝頼のみだった。その勝頼とて、出自や成長過程の問題から叔父信廉・一条信龍、従兄穴山梅雪(母親が信玄の姉・妻は信清の姉)・武田信豊(信繁の子)が完全な忠誠を誓っていたとは云い難かった。
 そんな中、勝頼の弟達は概ね異母兄である勝頼に忠実だった。盛信は同母妹・松姫が織田信忠の許嫁者だった縁から信忠が降伏勧告を行うも断固拒絶し、武田家滅亡の九日前に高遠城にて自刃して果てた。信貞は最終的には小山田信茂とともに勝頼から離れたが、信茂共々周囲に引き摺られた感が強く、結局勝頼父子自刃の一三日後に織田信忠に攻められ、討たれている。
 思うに、勝頼信清を還俗させて、一門衆の一人に加えたのも、信頼出来る身内が欲しかったからではあるまいか?
 信玄逝去時、武田家臣団は一門衆、累代の家臣である宿老、甲斐・信濃・駿河・上野の地侍である国人衆で構成されていたが、武田家滅亡時にはこの多くが勝頼から離反していた(離反とまでいかずとも、距離を置いていていざというときに頼りにならなかった者も多かった)。
 勝頼と確実に血の繋がっていた穴山梅雪が裏切り、信廉や信豊も日和見的で肝心なところで勝頼の力にならなかった。国人衆は次々と織田・徳川・北条に寝返り、皮肉にも甲斐国人が「信用出来ない。」とした信濃衆の一角、真田昌幸の方がよっぽど忠実だった(勝頼の勧めで武田家再起の準備を整える為、地元に引き揚げたことで勝頼とは袂を分かってしまったが)。
 宿老達も先代信玄を絶対視する余り勝頼に忠実ならざる面があり、何より長篠の戦いに前後して彼等の多くがこの世を去っていた。
 「兄弟は他人の始まり」という言葉があり、代替わりすればそれまで親密だった間柄が希薄になることもあり得るが、裏切りや離反が相次いだだけに、勝頼盛信信貞そして信清の兄弟仲結束はもう少し精査し、重視したいところである。



特別な立場 武田信玄の七人の息子達において、武田信清の特別性を一言で云うなら、「御家滅亡後も生き延びた。」ということであろうか。
 天正一〇(1582)年三月一一日、武田勝頼は妻(北条氏)、子・信勝とともに自害した。同日次兄・信親も自害しており、この時点で生きていた信玄の息子達は信貞信清だけだった。
 同時に、肝心なところで勝頼に味方しなかった親類達も次々とろくでもない最期を遂げていた。九日前に堂々たる自刃を遂げた五兄・盛信はまだ良い方で、叔父・信友が四日前に織田信忠軍に捕らえられて処刑され、叔父・一条信龍も前日に戦死し、従兄・信豊は五日後に落ち延びた信州小諸城で城代に背かれて自刃に追いやられ、主だった者を捕縛・処刑し、甲斐を掌中に収めた織田信忠は残党狩りを徹底し、三月二四日に叔父・信廉と六兄・信貞が殺された。
 話は飛ぶが、三ヶ月もしない内に武田家を滅ぼした張本人である織田信長・信忠父子も本能寺の変で横死し、その混乱の中、従兄・穴山梅雪も落ち武者狩りに遭って命を落とした。かように武田家の人々が命を落とす中、信清は高野山に逃れることで命を永らえ、武田家の血筋を後世に残した。

 信清がいつ甲斐を離れ、高野山に着いたかははっきりしない。薩摩守の推測に過ぎないが、武田家滅亡が不可避と見た段階で血筋を絶やさない為に勝頼か守信辺りが仏門に逃れることを勧めたと思われる。
 上述した様に信玄の息子達が名族の名跡を乗っ取り継承する役割を担わされた中、信清だけが端から僧籍に入れられた。明日をも知れない戦国時代、御家滅亡を避ける為に一族の一員を出家させることで俗世の争いから逃れさせたのはよく見られる手法で、還俗したしたとは云え、それまでに僧界にいた信清が伝手を保持していたのは充分に考えられ、それを活かして織田家による武田家族滅の魔手から逃げおおせたのだろう。

 いずれによせ、信清の高野山への脱出は明らかに武田家存続を目的としたものだと断言出来る。武田家が滅びた天正一〇(1582)年のその年の内に信清は異母姉・菊姫を頼ってその嫁ぎ先であった上杉景勝を頼り、越後入りした。
 上述した様に武田家滅亡から三ヶ月経たずして、織田信長・信忠父子も落命した。父信玄の代には激しく争った武田と上杉だったが、信玄は死に際して上杉謙信と戦わず、可能であれば手を組むよう遺言し、紆余曲折を経た後に勝頼は謙信の後を継いだ景勝と同盟し、同盟締結の証として菊姫が景勝に嫁いでいた。

 ここで注目したいのは、武田家末期から血脈存続までを担った信清の兄・姉の母親である。信清の母は禰津御寮人と云う信濃の地侍の娘だったが、信清と年の近い兄・姉・妹である盛信信貞・菊姫・松姫は信玄の側室・油川夫人を母としていた。
 油川夫人は弘治三(1557)年〜永禄四(1561)年の間に、信清に前後して信玄の四人の子を産んだ。これは五人の子を産んだ正室三条夫人に次ぐ数で、信玄の側室の中では最も愛されていたことが分かる。
 当然、油川夫人の子供達は同母兄妹同志仲が良かった。武田家滅亡後も、松姫は盛信の幼い娘二人を連れて武蔵八王子に逃れ、娘達を育てつつ武田家の人々と、婚姻叶わなかった織田信忠の菩提を弔い続けた。上杉景勝に嫁ぎ、上杉家の人間になっていたとはいえ、菊姫も気持ちは同じだったと思われる。
 そんな油川夫人の子供達と、母こそ違えど年の近い異母兄弟として信清はそれなりに昵懇だったのだろう。菊姫にとっても、母は違っても父・信玄の血を引く唯一人の弟となった信清に姉弟の情は充分にあっただろう。
 結果的に、信清は上杉家に受け入れられ、それなりの待遇を得て、米沢武田家の祖となった。

 もし信清に僧侶としての経歴、高野山に逃れる伝手が無かったら、勝頼盛信信貞に前後して命を落としていた可能性は充分になり、そうなると武田家(少なくとも信玄の男系)は完全に滅亡していた。
 信清の立場がもたらした奇跡とも云える生き残りは非常に興味深いと云えよう。


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令和六(2024)年四月四日 最終更新