第伍頁 島津家久……矜持と謎の死

末弟File伍
名前島津家久(しまづいえひさ)
生没年天文一六(1547)年〜天正一五(1587)年六月五日
島津貴久(しまづたかひさ)
本田親康(ほんだちかやす)の娘
義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)
官位・立場佐土原城代
兄弟仲親密且つ良好


略歴 まず述べておきたいのだが、島津一族の中に、「島津家久」と名乗った人物が二人いる。一人は本作で採り上げている者で、島津家第一五代当主島津貴久の末っ子に生まれた人物である。
 もう一人は島津家第一七代当主で江戸幕府薩摩藩初代藩主となった人物である。この者は家久の次兄・義弘の子に生まれたが、第一六代当主であった伯父・義久(義弘家久の長兄)に子が無かったためにその養子となって島津家を継ぎ、その際に徳川家康から「家」の字を与えられて「島津家久」となったが、この時点で故人とはいえ、同名である叔父との混同を避ける為にも一般に初名である「島津忠恒」と認識されている。

 まあ、第一七代当主の方は本作で触れることも無いのでそのまま家久の人生を語っても問題ないが、ともあれ、当頁の主人公・島津家久は天文一六(1547)年に島津貴久の四男に生まれた。母は本田親康の娘で、上三人の兄とは母が違った(義久義弘歳久を生んだ雪窓夫人は家久が生まれる三年前に死去)。幼名は又七郎
 祖父・忠良から武勇を愛でられ、永禄四(1561)年に一五歳で初陣を飾り、敵将の首を取っていた。

 その後も戦場働きが続いたが、天正三(1575)年、島津氏の目標である三州(薩摩・大隅・日向)平定を祈願する為に伊勢神宮に参拝する際に初めて上洛。連歌師・里村紹巴の弟子宅に寝泊まりし、公家や堺商人達とも交流し、島津家における渉外も担った。
 織田信長や明智光秀とも接触し、帰国後は再び槍働きを担い、九州の勢力を島津氏と共に二分していた龍造寺氏との戦いに身を投じ、天正一二(1584)年三月に肥前の有馬晴信から受けた援軍要請に応じて義久家久に救援軍の総大将を命じた。
 家久の軍は晴信軍と合流しても人数的に龍造寺軍より遥かに劣勢だったが、家久は敵将龍造寺隆信を狭隘の湿地帯・沖田畷に巧みに誘引し、隆信を討ち取ることに成功した(沖田畷の戦い)。

 この大勝利により九州で島津家に対抗できる勢力は皆無となり、戦功により家久は知行四〇〇〇石を与えられて部屋住みの身分から佐土原城代となり、日向の差配を任された。
 だが、戦は続いた。島津氏の前に立ちはだかったのは鍋島直茂。直茂は龍造寺隆信の母が父に再嫁した関係で隆信の義弟の立場にあった(直茂の母も龍造寺一族の出身)。
 直茂は島津側が送って来た隆信の首を突き返す形で徹底抗戦の意を示すも、圧倒的優勢の島津勢に抗し得ず、服従知ると見せかけて密かに豊臣秀吉を頼った。

 さすがにこの時点で中国地方・四国地方をも傘下に置いていた秀吉が相手となると今までとは勝手が違った。秀吉は新たに参加に加えた大名達をも動員し、家久はそれらを迎撃し、四国勢を打ち破るなどして奮戦したが、秀吉は更に大軍を派し、実弟・秀長に豊後→日向→薩摩ルートを取らせ、自らは肥後→薩摩ルートを進軍した。
 かつてない大軍の侵攻に島津家としては九州北部を放棄し、薩摩・大隅・日向三国の守りを固めることに方針変換した。

 義弘家久は三月二〇日に日向都於郡城(とのこおりじょう)に入って長兄義久と共に善後策を協議し、四月一七日に秀長が在陣していた根白坂(現・宮崎県児湯郡木城町根白坂)に攻め込んだが、敗れ、分家当主で歳久の娘婿だった島津忠隣が討死に。義久義弘は都於郡城に、家久は佐土原城に退いた。そしてそこに豊臣秀次(秀吉・秀長の甥)が追撃を加えた。

 一方で秀吉本隊も四月二六日に肥後の南端である水俣を通過し、翌二七日には薩摩出水にも侵入。薩摩国内に点在していた島津兄弟及び、分家当主達は次々に降伏。家久も秀長と和睦する形で単独降伏した。
 五月三日、秀吉が川内の泰平寺に入るとその三日後に義久は剃髪。龍伯と号して八日に泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立した。
 秀吉は五月二五日に薩摩を義久に、大隅を義弘に、日向の一部を久保(義弘次男)に与える等して戦後処理を進めた。

 戦後処理は六月七日まで続いたが、処理完了の二日前の六月五日、家久は佐土原城で急死した。島津家久享年四一歳。
 戦後処理完了直前の急死であり、それも秀吉の陣に詣でた直後だったことから当然の様に暗殺が疑われ、秀吉陣で毒を盛られたとも、単独講和を独断専行とした島津本家が刺客を放ったとも、大友・伊東の残党に殺されたとも、過去の戦場における戦傷によるものとも噂されているが、秀長の側近である福地長通が義弘に宛てた五月一三日付の書状に家久が病気であることが記されていることから、一般には病死したものとされている。
 確かな史実として、秀吉が義弘に対して、家久の遺児・豊久に特別に所領を与えるよう命じ、義弘は豊久を引き取って実子同様に養育した。一五年後の関ヶ原の戦いにて豊久が義弘の身代りになるように壮絶な戦死を遂げたことからも、薩摩守は暗殺説に否定的である。



兄弟 島津家久は父・貴久が三四歳の時の子で、長兄・義久とは一四年、次兄・義弘とは一二年、三兄・歳久とは一〇年の年齢差である。上述しているが、三人の兄と家久とでは生母が異なる。兄三人の母は正室・雪窓夫人で、家久の母は側室だったが、雪窓夫人は家久が生まれる四年前に世を去っていた。
 兄三人とは年齢差も開いており、母も異なったとはいえ、島津氏は基本的に結束が強い一族で、従兄妹同士での婚姻も盛んだった。何より始祖以来武を尊ぶ家柄でもあり、これも上述したが家久もまた武勇に優れ、それを祖父から愛でられていたことからも兄弟仲は良好だった。

 一応、「兄弟」という観点で語ると、四兄弟の祖父・忠良の言が参考になる。忠良は四兄弟の資質を以下の様に述べていた。

 長男・義久………「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」

 次男・義弘………「雄武英略を以て傑出する」

 三男・歳久………「始終の利害を察するの智計並びなく」

 四男・家久………「軍法戦術に妙を得たり」

 概ねこの言葉通りで、義久は実戦には余り出ず、総大将たる器の大きさで本拠地から弟達を支え、硬軟織り交ぜた巧みな政治手腕で、秀吉・徳川家康とも渡り合い、形の上では膝を屈したが、肝心の本領安堵を確保した。
 そんな義久の手足となって軍務に従事した中核が次兄・義弘で、時に義久と両頭体制を採ることもあったが、これは長兄と次兄が張り合ったものではなく、巨大な勢力に硬軟両面で対抗し、何があっても島津家の血筋が残るように図ったものだった。
 それ故、義弘関ヶ原の戦い朝鮮出兵などで義久の名代を務め、時には名代を超えて当主に等しい役割も担った。最終的に義久には子が生まれず、義弘の子が義弘の養子となって島津家を継承した。

 そして歳久家久は主に部将的な役割を担った。共に軍才に秀でていたが、歳久は軍戦略に、家久は戦術に優れていた。
 武勇に優れる島津一族は当初豊臣秀吉が相手と云えども恐れはしなかったが、その中で歳久だけが秀吉に抗うべきではないとした。とはいえ、歳久が臆病だった訳ではない。いざ戦いが始まり、降伏が避けられないとなった際、降伏条件を良くするために徹底抗戦を主張し、実践したのが歳久だった。
 一方、家久は島津軍の急先鋒を担う中、肥前戦線では見事な戦術で龍造寺隆信を討ち取ると云う大殊勲を挙げる程戦術に優れていたが、対秀吉戦線では一番早く秀長に対して単独講和した。

 個々に武勇に優れつつも、各々個性にも優れ、時に各自の判断を下しつつも長兄を出し抜くことなく、外敵に対して一族団結する…………骨肉の争いが珍しくなかった時代に在ってなかなかに稀有な兄弟だった。



特別な立場 ある意味、島津四兄弟の中で特別な立場に置かれたのは末弟の島津家久ではなく、三兄の歳久だった(詳細後述)。

 一先ずは家久の立場を見るが、通常四男は影が薄い。
 長兄は家を継ぎ、次兄は長兄に万が一のことがあった際に家を継ぐ代理兼保険的な立場を担う。医学が未発達な時代故、三男ぐらいまでは家を継ぐ可能性も低くなかったが、四男ともなると家を継ぐ可能性は極めて低かった(まあ、藤原道長・徳川吉宗・井伊直弼の様な例外もあるにはあるが)。
 それゆえか、「略歴」にも記したように家久は島津家における渉外を担い、戦においては急先鋒も務めた(歳久も部分部分で似た役割を担った)。

 殊に秀吉による九州征伐が天正一四(1584)年から始まると、緒戦において秀吉の部将・仙谷秀久と長宗我部元親・信親父子や十川存保等の四国勢が上陸すると家久はその迎撃を義久から命じられ、激戦の果てに長宗我信親・十川等を討ち取って勝利し、豊臣軍の出鼻を挫いた。
 これに対して秀吉は吉川元春・小早川隆景と云った中国勢を含む三七ヶ国・二〇万の大軍を率いて九州に送り込み、これに対して個々の戦いでは家久も中国勢を相手に一歩も引かずに奮戦したが、島津家としては北九州を放棄し、薩摩・大隅・日向三国の守りを固めることに方針変換せざるを得なかった。
 その後の家久降伏・休止に至る展開は上述通りで、謂わば、島津家の一部将にして一族の一人として個別に秀吉と相対した訳だが、それと似て非なる展開を辿ったのが歳久だった。

 上述したが、島津家中の多くが大勢力を擁しつつも、成り上がり者である秀吉を恐れず、好戦的な構えでいたが、その中で歳久だけが「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」として「戦うべきでない。」と主張した。
 しかし島津家中は抗戦することを評決。自分の意見が通らずとも評決には忠実に従い、家中が和睦に傾いた際は、戦況的に降伏すべき時期ではないと見て兄弟の中では最後まで抗戦した。
 そして義久義弘が秀吉に降伏した後、秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中、歳久の家臣・本田四郎左衛門が西端の山崎にて秀吉の駕籠に矢を六本射かけた。
 襲撃はこれを予測していた秀吉が空駕籠にしていたことで失敗に終わったが、当然歳久に対する秀吉の心証は悪化し、後に朝鮮出兵において歳久が中風を患っていることを理由に出陣拒否した際に、秀吉は朱印状を、義久義弘家久には与えたが、歳久には出さなかった。
 酒飲みだった歳久が中風を患い、この時軍務に耐えられない体だったのは事実だったのだが、先の襲撃もあって病気理由の命令不服従も(信用されないことで)とおらず、秀吉の圧力を受けて義久歳久の元に追討軍を送らざるを得なくなった。

 これを受けて歳久は「自分の兵を失うは薩摩島津の兵を失うこと。」として抵抗を断念し、初陣ゆかりの岩剣神社に向かった。しかし追討軍に追いつかれ、歳久は平松神社鳥居付近に上陸し、そこを最後の場として切腹を決意した。
 追手も主君の弟に手が出せず、先端は開かれぬ中、切腹せんとした歳久だったが、刀を握る力はなく家臣、原田甚次に首を打たせ、原田を初め付き従っていた従者二七人全員が殉死、追討軍の者達も皆槍や刀を投げ捨て、地に倒れ臥し声を上げて泣いたという。

 骨肉の争いが連発した戦国の世に在って、島津家も全くの例外とは云えないまでも、その背景、その経緯、その原因のどれを取っても、島津家の結束の固さはかなり稀有であるとの見解は覆らないだろう。

 些か穿った物の見方になるが、薩摩守は歳久が他の三兄弟と異なる立場に立ったのも、古来よく行われた族滅を避ける為の疑似対立と見ている(保元の乱における源平一族や、関ヶ原の戦いにおける真田昌幸・信之父子の様なもの)。当然、展開や対人関係次第では家久歳久の立場に立った可能性は充分にあり得たことだろう。


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令和六(2024)年四月四日 最終更新