第陸頁 織田有楽……頼りになるのかならないのか微妙な人
末弟File陸
名前 織田有楽(おだうらく) 生没年 天文一六(1547)年〜元和七(1622)年一二月一三日 父 織田信秀(おだのぶひで) 母 不明 兄 信広(のぶひろ)、信長(のぶなが)、信行(のぶゆき)、信包(のぶかね)、信治(のぶはる)、信時(のぶとき)、信興(のぶおき)、秀孝(ひでたか)、秀成(ひでなり)、信照(のぶてる) 官位・立場 従四位下侍従 兄弟仲 基本良好
略歴 織田有楽こと、織田長益(ながます)は天文一六(1547)年、織田信秀の一一男に生まれた。母親は信秀の数多い側室の一人としか分かっていない。初名は源五。
源五が生まれた年、父・信秀は事実上尾張の支配者に近い実力を固めていた(信秀の公式な立場は、尾張守護斯波氏の代理として尾張半国を治める織田本家三奉行の一人)。
国外に対しても三河の松平広忠が今川義元の元に人質として送ろうとしていた竹千代(徳川家康)を奪って広忠の臣従こそ得られなかったが、三河をある程度の無抵抗状態に追い込んでいた。
天文二一(1552)年三月三日、信秀が急死し、家督は次兄の信長が継いだ。兄弟順で云えば信長の上に長兄の信広がいたが、側室の生まれで、信秀生前から信広は後継者候補からは外され、信長が後継者であることを明言していた。
この時点での信長が異装・奇行を繰り返していたことから周囲より「うつけ者」と陰口を叩かれていたのは有名だが、そんな反信長派が期待したのは三兄の信行で、信行は信長の同母兄に当り、織田家後継者は端から正室腹の生まれの者だけが目されていた(他には四兄・信包と八兄・秀孝が正室腹の生まれ)
その後、紆余曲折はあったが、信長は早々に信秀後継を力で達成させ、本家織田氏、今川義元、斎藤龍興との戦いに勝利を収め、織田家の勢力を着々と拡大させたが、この間における長益の動向は殆んど記録に残っておらず、長益の名が歴史上に現れるのは、天正二(1574)年に尾張知多郡を与えられ、大草城を改修したときだった。
この時長益は二八歳で、以降は信長の長男で、一〇歳年下の甥・信忠の旗下にあったと思われ、甲州征伐などに従軍。天正九(1581)年に行われた織田軍の大軍事パレードであった京都御馬揃えに参加した際は信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続いていた。
そして織田家の運命が大きく変わった天正一〇(1582)年、甲州征伐に従軍し、木曽義昌勢に助力して木曽口から鳥居峠を攻め、降伏した深志城の受け取り役を務めた。その後、森長可・団忠正と共に上野に出兵し、小幡氏を降伏させる等の活躍もした。
だが、宿敵武田氏を滅ぼして三ヶ月も経たない同年六月二日、本能寺の変が勃発した。
この時長益は信忠とともに二条新御所にあった。信長も信忠も攻め寄せて来たのが明智光秀と知るや、脱出は不可能と判断し、戦うだけ戦った果てに自害した。だが、長益自身は御所を脱出し、近江安土を経て岐阜へ逃れた(多くの織田氏が潔く腹を切ったため、長益は京童の笑いものとなった)。
周知の通り、本能寺の変後は、中国地方から驚異的な速さで引き返した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討ち取ったことで織田家中での発言権を強め、清洲会議の結果、織田家の家督は信長嫡孫(信忠の子)でこの時三歳だった三法師(秀信)が継承し、それを信雄(信長次男)と秀吉が後見することとなった。
長益はこの信雄に仕え、検地奉行などを務め、二年後の小牧・長久手の戦いでは信雄軍の一将として徳川家康に助力した。
その後も蟹江城に籠る滝川一益の降伏、家康と秀吉の講和、佐々成政の降伏等の折衝・仲介・斡旋を担った。
天正一八(1590)年、北条氏を滅ぼして天下を統一した羽柴改め豊臣秀吉は徳川家康を関八州に入封したのを初め、全国の大名を各地に転封したが、その際に信雄が秀吉から与えられた一〇〇万石超の新領への移封を拒絶し、尾張に残ることを訴えたことで秀吉の怒りを買って改易された。このことで長益は秀吉の御伽衆となり、摂津島下郡味舌二〇〇〇石を領し、この頃に剃髪して有楽斎と号した。
姪で、秀吉の側室となっていた淀殿の庇護者となったこともあって、鶴松出産にも立ち会った。
有楽が五二歳だった慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が世を去ると、有楽は明らかに親家康派にシフトした。家康が同じ五大老の前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護した程だった。
翌慶長四(1599)年に利家が逝去したことで豊臣家中の対立への歯止めがなくなるとその翌年に関ヶ原の戦いが勃発。この戦いで有楽は東軍に属し、長男・長孝とともに総勢四五〇の兵を率いて参戦した。
寡兵ながら小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦して戦闘し、一時は本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退。また、庶長子・長孝が戸田重政、内記親子の首を取り、有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げた。
戦後の論功行賞にて父子で敵の首級を挙げた功績を認められ、有楽は大和国内で三万二〇〇〇石、長孝には美濃野村に一万石を与えられた。
一方で有楽は戦後も豊臣家に出仕を続け、姪である淀殿を補佐しつつ、個人としては茶の趣味に走り、建仁寺の子院・正伝院(現・正伝永源院)を再建し、院内に茶室・如庵を設けたりもした。
そして時が流れ、慶長一九(1614)年に大坂冬の陣が勃発した際にも大坂城にって大野治長等とともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。だが有楽に姪一家と心中する気はなかった(嫡男(次男)頼長は強硬派だったが)。
程なく徳川方との和睦が成立。その条件が大坂城の堀を埋めることだったのは有名だが、その他の条件として、有楽の五男・尚長と治長の次男・治安を人質として家康の元に差し出していた。
だが、大坂夏の陣直前、有楽は豊臣家中における再戦機運の高まりを見て、家康・秀忠に対し、「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味。」と許可を得て、豊臣家から離れた。
周知の通り大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。姪と大甥が落命した方に対し、黙って茶を喫していたこの時の有楽の心境は誰にも分からない。
その後の有楽は完全に隠居し、茶の湯に専念し、趣味に生きた。元和元(1615)年八月、有楽は、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ一万石を分け与え、有楽本人は隠居料として一万石を手元に残した。尚、庶長子・長孝は別家を建てた後に父に先立って病没し、嫡男の頼長は父との不仲から家督を継承されないまま長益逝去の一年前に父に先立ち、三男・俊長は僧籍に入っていた。
元和七(1632)年一二月一三日、京都で逝去。織田有楽享年七五歳。
兄弟 さて、「末弟」を考察対象としている本作だが、織田有楽は厳密には信長兄弟の「末弟」ではない。有楽の下には長利(ながとし)という生年不詳の弟がいて、本能寺の変における二条御所での戦いで戦死して歴史の表舞台から姿を消していた。
ただ、(御本人には些か可哀想だが)長利の記録は乏しく、信長を初めとする濃過ぎる兄弟達の動向及び、本能寺の変後における信長身内の微妙な立場からも「末弟」に相応しい動きを見せた者として有楽をピックアップしていることを御理解頂ければ有難い。
ともあれ、兄弟の父である織田信秀は艶福家で、男児だけでも一二人を儲けている。勿論これだけいれば人生も色々で、存在感の濃淡も大きく異なる。詳しく解説すれば一つのサイトになりかねないので、例によってまずは表で簡単に見てみたい。
織田有楽の兄達
兄弟順 名前 生年 没年 備考 一 信広 不詳 天正二(1574)年 庶長兄。長島一向一揆との戦いで、一揆側の最後の反撃を受けて戦死。 二 信長 天文三(1534)年 天正一〇(1582) 説明の必要なし(笑)。 三 信行 不詳 永禄元(1558)年 信長同母弟。周囲に担がれ、信長に反逆。一度目は許されたが、二度逆らって殺された。 四 信包 天文一二(1543)年 慶長一九(1614)年 信長同母弟。信長の為に父を失った浅井三姉妹を保護したとされる(異説有り)。 五 信治 天文一四(1545)年 元亀元(1570)年 近江坂本で浅井・朝倉連合軍と戦い、戦死。 六 信時 不詳 弘治二(1556)年 部下の裏切りで殺された。 七 信興 不詳 元亀元(1570)年 長島一向一揆との戦いで敗死。彼の死に激怒したことで後々信長が一揆側に苛斂誅求を科したとされている。 八 秀孝 不詳 弘治二(1555)年 信長同母弟。信長の弟と知らずに叔父・信次に無礼討ちにされて落命。信長は秀孝の不用心の方が悪いとした。 九 秀成 不詳 天正二(1574)年 長島一向一揆との戦いで、一揆側の最後の反撃を受けて戦死。 一〇 信照 天文一五(1546)年 慶長一五(1610)年 信長死後、甥・信雄(信長次男)の家臣となった。
こうして見てみると、信長・有楽の兄弟の中には兄弟仲においても、存在感の大小においても千差万別であることが分かる(当然だが)。
有楽の兄達の中で、信長を別格として比較的名前が有名なのは信広、信行、信興であろう。庶長兄の信広は松平竹千代(徳川家康)との人質交換に利用されたエピソードが有名で、信行は奇行異装から「うつけ者」と呼ばれた信長に取って代わる存在として周囲に担がれたことで知る人も多いだろう。そして信興は長島一向一揆との戦いで敗死したことで信長が激怒したことで有名だろう。
ただ、彼等も信長との関連や、信長の人生においてその周囲にいたことで知名度はあるものの、その性格や、信長に関連しない経歴は不詳であることが多い(妾腹の生まれの者は殆んどが生母不詳である)。
また、波乱万丈の人生を送った信長の側近くにいたこともあってか、信長を初め不幸な最期を遂げた者が少なくない。対長島一向一揆戦では信広・信興・秀成が戦死・自害しており、家中におけるトラブルで信行・信時・秀孝が命を落としてる。
そんな兄弟達の不幸にあって、個人的にどうも信長と云う人物が薩摩守には分からない。
戦場では残忍な下知も厭わず、裏切者や捕虜に酷刑を科すこともあった信長だったが、身内に対してはそれなりに情もあり、甘い面もあったと見ている。
政略結婚が当たり前だった時代に在って、信長が敵対勢力に嫁がせたのはすべて養女で、実の娘達は家康の息子・信康に嫁がせた徳姫を初め、大半が重臣などの信頼出来る家に嫁がせている。
上述した様に、信興の死に激怒してもいたし、自分を殺そうとした同母弟の信行を一度は許している。信長嫌いの薩摩守ではあるが、自分の命を狙った者は相手が誰であれ殺してもおかしくないと思っているので、実母・土田御前の哀訴があったとはいえ、信行を許したことに対しては身内に対する愛情をちゃんと持っていた男と見ているし、その信行が二度目の反逆を企てたのだから、その時に信行が殺されたことに対しては同情もしないし、信長を責めようとも思わない。
その一方で、同母弟である秀孝が叔父・信次に無礼討ち(←信次は相手が秀孝と知らずにやったのだが)にされた際には、「油断していた秀孝の方が悪い。」としていた。同母弟の死を悲しむ気持ちを周囲には押し殺して見せずに、筋を通す方を選んだと見れなくもないが、他の弟達の死に接した時と比べてどうも違和感を覚える。
信長がただただ残忍なだけの男だったのなら、「情けない死に方をした弟に冷たいだけ。」と云えなくもないが、上述した様に、薩摩守は信長をそんな男とは見ていない。まあ、人間はそう単純じゃないという事だろうか?
ともあれ、信長・有楽兄弟をまとめて見てみて思うのだが、信長の波乱万丈人生に在って有楽を初めとする弟達も本当に数奇な運命を辿っている。しかも信長横死後は自分達が生まれ育った織田家が家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に乗っ取られ、信長の子や孫達までもが時に殺され、時に改易に処されたのだから、表向きは「故信長公の遺志を継ぐ」としていた秀吉・家康から「信長の弟」と云うフィルターを通して遇されることは、時に特権を伴い、時に没落した恥辱を伴ったことだろう。
良いか、悪いかは別にして、信長と云う濃過ぎる存在を兄に持った者達は有楽に限らず、皆一様に大変だったと思われる。まあ、有楽の場合は信長死後の方が大変だった訳だが、その辺りは下記にて論述したい。
特別な立場 上述した様に、織田有楽が歴史上にその存在を見せたのは天正二(1574)年で、長島一向一揆との戦いが終結した直後だった。この時点で一〇人いた兄の内、存命だったのは信長・信包・信照の三人だけだった。
織田家全般で見てみると、有楽が歴史上に登場した二年後、信長は美濃と尾張の統治権を長男・信忠に譲っていた。そうなると信包・信照・有楽は本家の家臣に等しい扱いで、天正九(1581)年に行われた信長軍一大軍事パレード・京都御馬揃えでは織田一族では信長の息子達が先に並び、弟達はその後だった。
ただ、だからと云って薩摩守は信長が弟達を蔑ろにしたとは思わない。当時の慣例から云っても順当な処遇だと思うし、織田家の勢力が急速に拡大する中、有楽を初めとする弟達は「頼るべき身内」と見られていただろうし、そうあってもらわなければならなかった。
それ故か、この時点で生き残っていた信長の弟達には有楽に限らず個々に特別な役割が課されていた。
四兄の信包は信長の手に掛かって夫や父を失った市姫とその娘達や、徳姫を保護したと云われている(←別の身内が保護したとの説もあります)。戦国の世に在って、同盟瓦解時に命を失わずに済んだ彼女達はある意味幸運だったかも知れないが、別の意味では間違いなく不幸だった。まして婚姻を命じながらそれを瓦解させた兄・父・伯父の世話になることは想像を絶する辛さがあったことからも、もう一人の兄またはもう一人の伯父である信包に白羽の矢が立ったのは分からないでもない。
そして傍系の立場にして、兄弟順でも下の方である信照と有楽は、兄の子である甥に仕えることとなった。上述に表にあるように信照は信雄に、有楽は信忠に仕え、各々その後の織田家中が遭遇した数奇な運命に翻弄された。
信忠は本能寺の変で命を落とし、その中で下手に命を永らえたことで有楽は長く世の嘲笑対象となった。その後、信雄と秀吉が事を構えたことで信照と有楽の運命も暗転しかけた。
しかもいざ秀吉が天下を統一するとその論功行賞に不服を唱えた咎で信雄と信包が改易に処された(両名とも程なく復帰したが)。その後豊臣の天下に在って世の中が一時的に安定すると秀吉の世継ぎを生んだ淀殿が信長の姪であったことから、信包と有楽は秀吉の御伽衆となり、「淀殿の伯父」として一目を置かれた(信照は信雄の家臣に徹した)。
謂わば、有楽は、信長横死前後は信照と似た人生を送り、秀吉の天下統一後は信包と似た人生を送った。
そんな有楽の兄弟間における独特の立場を飾ったのは、利休十哲の一人にもカウントされた茶人としての名高さと、歴史の転換点における大坂冬の陣勃発時点で、「故信長公弟君最後の生き残り」、「淀殿身内最長老」という立場だったと思われる。
淀殿にとって、大坂冬の陣勃発直前に伯父・信包が急死しており、徳川家に顔の効く織田家の身内は有楽と従兄・信雄だけだった。だが、この身内、厚遇されたのは上辺だけで、結論から言えば二人とも決戦を前にして大坂城を辞去した。
殊に二度の失脚・失領を経験し、何かと家康に恩義もある信雄は様々な情報を徳川方に流している始末だった。
ただ、歴史の低さと云おうか、奇妙さと云おうか、織田一族に在って世間の嘲笑を駆った筈のこの二人の家系が江戸時代を通じて織田家の血筋を保ち続けた(他には信包の家系と信長の息子達が若干名御家を存続させた)。
必然とも云うべきか、大坂夏の陣が終わり、「信長公の弟」や「淀殿の伯父」という立場にこれと云った役割がなくなると有楽の存在感は急速に薄れていった(まあ、時代的な流れで有楽に限った話では無いが)。
織田有楽と云う人物個人については、過去作「日本史大脱出」で採り上げたこともあるが、変な形で生き残りを諦めないことや、下手に分相応の栄達や権力を望まず退くべき時に退いたことが、超有名人物である兄・信長と余りに好対照だったことも相まって、独特の存在感を史上に残したように思われる次第である。
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令和六(2024)年四月四日 最終更新