第漆頁 大野治純……生き残れたのに家族に殉じた?

名前大野治純 (おおのはるずみ)
生没年?〜慶長二〇(1615)年五月某日
大野定長(おおのさだなが)
大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)
治長(はるなが)、治房(はるふさ)、治胤(はるたね)
官位・立場徳川家使い番
兄弟仲距離的に希薄、精神的に濃密


略歴 大野治純は大野定長の四男に生まれたが、生年は不詳(諸系図には名前がないらしい)。母は大蔵卿局で、北近江の大名・浅井長政の長女・茶々(淀殿)の乳母となったことから、浅井家の家臣の家に生まれたと考えるのが妥当だが、具体的な地位は薩摩守の研究不足により不詳。通称は壱岐守

 長兄・治長、次兄・治房、三兄・治胤、そして治純の全員が生年不詳なのだが、大蔵卿局が茶々に与えた母乳は治長を産んだ時のものと思われるので、治長治房治胤は長く淀殿の側近くに仕え、運命を共にしたが、治純のみが長じると徳川家康に仕えた。
 役職は使番で、知行は二〇〇〇石とも三〇〇〇石とも云われている。

 慶長一九(1614)年に豊臣秀頼が方広寺を再建すると大仏供養に関する書状が豊臣家家老・片桐且元から送られ、治純は使い番としてこれを受け取った。だが、この寺の鐘に徳川家を呪った銘文があるとして、江戸幕府は開眼供養の延期を命じて来た(方広寺鐘銘事件)。
 これに慌てた豊臣方では大野兄弟の母・大蔵卿局を正使として送り、治純は母と家康との面会を仲介した。このとき、家康は大蔵卿局を歓待し、秀頼や淀殿に一切悪意は無いとして彼女を安心して帰らせる一方で、別途駿府に来ていた且元には面会も許さず、絶対に許さないとの立場を取った。

 この二重対応に騙される形で大坂に戻った且元が、先に戻った大蔵卿局とは全く違う家康の態度を持ち出したことで且元は家中から猜疑の目で見られ、同年九月に大坂城を出奔。且元出奔を知った幕府側は治純を大坂に派してその経緯を詰問する使者としたが、治純は長兄・治長から入城を拒絶された。

 その翌月にも織田有楽や治長を介して家康が和睦を望んでいると再度大坂方に伝えたが、程なく大坂冬の陣が勃発。大坂冬の陣が始まった後にも使者となり、捕虜を治長の元に送り返し、重ねて和睦を勧めた。
 程なく大坂城の外堀を埋めることを初めとする諸条件を持って和睦が成立。豊臣方が懸念した大坂城退去、淀殿人質行き、牢人衆追放と云った厳しい条件が回避された形になったが、周知の通り和睦は長続きしなかった。

 慶長二〇(1615)年、大坂城の外堀に続いて、豊臣方が埋める筈だった二の丸・三の丸まで徳川方が埋め始めたことで徳川・豊臣の仲は険悪化した。
 大坂城内の上層部は必ずしも再戦を望んでいなかったが、行き場のない牢人衆の方が戦闘再開を渇望しており、同年四月九日に治長が闇討ちされて負傷するともはや再戦は避けられなくなった(治長負傷の際、治純は家康の許可を得て、兄を見舞った)。

 程なく、大坂夏の陣が勃発。周知の通り大坂城は落城し、五月八日、山里廓に潜んでいた豊臣秀頼は徳川方の井伊直孝勢に包囲され、覚悟を決めた秀頼は母・淀殿と共に自害。長兄・治長、母・大蔵卿局、甥・治徳(治長の嫡男)、毛利勝永、速水守久、真田大介等近臣二七名がこれに殉じた。

 大坂城の落城を知った治純は幕府を憚り、急病で死んだことにしてれと周囲に云い含めて京都にて自害した。大野壱岐守治純が自害した正確な日時は不明で、享年も不明。



兄弟 日本史上でも屈指の有名人豊臣秀吉に最も寵愛された側室・淀殿に付随した存在で、戦国時代最後の大事件とも云える大坂夏の陣に一方の重鎮として立ち合った故に大野兄弟の知名度はそれなりに高い。
 だが、知名度の割には謎の多い兄弟でもあり、同時に「徳川方最後の敵」と見做された故、長兄・治長を初め、長く悪し様に云われて来た一族でもあった。

 少し上述したが、大野治純には三人の兄がいて、すべて同母兄で、奇しくも四人とも同じ年に命を失った。
 長兄の修理亮治長は茶々(淀殿)の乳兄弟として物心ついた時から母と共に茶々に近侍し続け、それに伴って次兄・主馬治房、三兄・道犬斎治胤も同様の経歴を辿った。殊に茶々が豊臣秀吉の側室なった縁で治長は秀吉の馬廻衆となった。
 治長の出世は、言葉悪く云えば「淀殿のお陰」だった。彼女が数多くいる秀吉側室の中で唯一人秀吉の子を産んだことで寵愛を受けたのは有名だが、望外の実子を得た秀吉の喜びは並々ならぬものが有り、それに伴う治長の加増や昇進は、謂わば、御祝儀に近かった。
 とは云え、それは幼少の頃からの、淀殿による絶大な信頼があったればこそだった。それ故に秀吉死後には秀頼側近筆頭を任され、治房も秀頼近習、治胤も秀頼小姓となっていた。

 そんな中、唯一人豊臣家に仕えなかったのが治純である。彼が徳川家に仕え出した時期は不明だが、何も母や兄と仲違いして敵勢力である徳川家に着いた訳ではない。
 ここからは薩摩守の推測になるのだが、徳川家と豊臣家との姻戚深い関係ながら、政治・武力を巡る力関係の変遷もあって、複雑な両家の仲にあって、交渉の伝手を保持する為に治純が選ばれ、敢えて徳川家士官となったのではないだろうか?
 豊臣家臣として注目される大野兄弟だが、徳川家との仲にもなかなか複雑かつ興味深いものが有る。

 秀吉死後、早くも家康は秀吉の遺命に従わざる言動を繰り返し、豊臣家中の中には家康暗殺を企む者も現れた。慶長四(1599)年九月七日、重陽の賀の為に大坂城へ登城した徳川家康に対して、五奉行の一人である増田長盛が、家康暗殺計画があると密告した。
 密告によると金沢に帰国していた前田利長が首謀者で、浅野長政・土方雄久・治長が語らって城内で家康を暗殺せんとするものとのことで、家康は身辺の警備を厳重にして祝賀を乗り切ると、密告に名前の挙がった者達の摘発に乗り出した。
 前田家では利長の母・芳松院を人質に出して徳川家に反意の無いことを示し、長政は責任を取る形で隠居したことで家康からの罰を逃れた。しかし治長は一〇月二日に流罪を云い渡され、下総の結城秀康(家康次男)の元に預けられた(雄久も同罪として常陸水戸の佐竹義宣のもとに預けられた)。

 ただ、この暗殺計画、実在したのかどうかどうも疑わしい。詳しく言及すると長くなるので割愛するが、五大老の筆頭であり、秀頼後見人を任された家康を殺そうとしたとあれば、誰も死罪にならないなどあり得ない。実際、たった二年で家康は雄久と治長に引見して罪を許した。
 赦免は慶長五(1600)年七月二四日のことで、これは家康が会津の上杉景勝を討伐すべく大軍を率いて東上していたときのことだった。それゆえ治長はそのまま徳川軍に加わり、関ヶ原の戦いでは東軍先鋒である福島正則隊に属し、宇喜多秀家隊の鉄砲頭・香地七郎右衛門を打ち取る武功も挙げた。
 そして戦が東軍大勝利に終わると治長は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡を持って大坂城への使者を務めた後、江戸には戻らずそのまま大坂に残った。この治長赦免及び帰参が叶った背景には、自分の乳母である大蔵卿局を慮った淀殿が会津征伐に出立する直前の家康に治長赦免を頼み込んだゆえ、との説があるが、暗殺未遂犯に対する処遇としては些か首を傾げてしまうのが薩摩守の個人的主観である。そのまま江戸に戻らず、大坂城内に入り込んだことを含めて。
 逆に淀殿の要請がすべて通ってのことだとすれば、恐るべき淀殿と大野母子との絆の強さと驚嘆する他ないであろう。

 その後、大坂冬の陣直前の慶長一九(1614)年六月二二日、治長は片桐貞隆(且元の弟)と共に、家康の口添えで五〇〇〇石を秀頼より加増され、その返礼の為に貞隆と共に、駿府の大御所・家康、次いで江戸の将軍・秀忠を訪問した。
 そんな経緯もあってか、治長は徳川方と事を構えることに必ずしも積極的ではなかったが、淀殿・家康双方の関係の深さから、片桐且元・織田有楽といった重鎮に去られた大坂城に在って、総大将に最も近い立場に立たされたと云える。

 一方で、次兄・治房と三兄・治胤は好戦的だった。
 上述したが、大坂冬の陣が和睦で終結した後、治長が闇討ちされて負傷したのだが、これには主戦論者として兄と対立した治房が糸引いていたとの説が根強い。薩摩守的には治長を襲ったのは主戦派の誰かだとは思うが、大野兄弟の絆の強さからも、治房が兄を襲わせたとは考え難いと思っている。
 ともあれ、治房治胤治長以上に戦場に出た。殊に薩摩守一押し武将である塙団右衛門の活躍は治房の指揮によるところが大きい(笑)。また、大坂夏の陣が勃発した際に治胤は徳川方の平坦補給基地となっていた堺を焼き討ちした。

 しかしながら、奮戦空しく大坂城は落城した訳だが、治房治胤は母や長兄と運命を共にせず、城を脱出した。城脱出には秀頼の遺児・国松を逃亡させる為とも、再起を図る為とも云われているが、国松と治胤は五月二一日に京都で捕らえられ、治房に関しては討ち死にしたとも、自害したとも、捕らえられて殺されたとも云われているが、詳細は不明である。
 ともあれ、国松は京都で処刑され、治房は京都所司代板倉勝重の元に堺衆からの身柄引き渡し要請が寄せられたことで、堺に送られ、そこで報復的に火炙りに処された。

 治純の最期は上述した通り、大坂落城の方を受けての自害である。
 ちなみに治長の長男・治徳は父と主に秀頼母子に殉じ、江戸で人質となっていた次男・治安は戦後に処刑され、形は違えど四兄弟を含む大野一族は全員が豊臣家に殉じた。
 死に様も、役割も、立場も、正確も違った四兄弟だったが、一つ共通しているのは情の厚さであろう。いくら兄弟が似るものでも、四人もいれば性格が大きく異なる者が出てもおかしくない。また「血筋を残す。」と云うことにこだわれば、治純が自害せずに徳川家に仕え続けるという選択肢もあれば、治房治胤が豊臣家や大坂から逸早く離れて逃げに逃げるという選択肢もあっただろう。

 それでも全員が多少の際はあっても運命を共にしたに等しいので、それだけ兄弟間及び豊臣家との縁が強く、それは豊臣家に仕えた経験のない治純すら例外ではなかったのだろう。
 個人的感傷だが、平成元(1989)年の大河ドラマ『春日局』にて、落城寸前の大坂城で大和田獏氏の演じていた大野治長が印象に残っている。敗北必至となった状況下で、治長は秀頼母子に「かくなる上はこの治長の切腹を条件に(秀頼母子の助命を)!」と口にしたが、秀頼(渡辺徹)は「何を申すか!」と一喝し、淀殿(大空眞弓)も同調し、事ここに至って治長一人を死なせるものか、との意を示した。

 話は逸れるが、淀殿だけが秀吉の子を二度も産んだことで、「秀頼は秀吉の子ではない。」との噂は今も昔も絶えず、「秀吉の子でない。」となった際に、「父親は誰か?」との議論になると候補者の一人として必ずと云って良い程名前が挙がるのが治長である。
 本作ではその真偽については触れないが、秀頼にとっても治長が実父であろうとなかろうと信頼する側近の一人に違いはなく、淀殿にとっても治長との間に不義密通が有ろうと無かろうと最後まで運命を共にしても惜しくな存在だったのだろう。

 江戸時代に徳川家に敵対したことで悪玉にされ、講談の世界で大活躍した真田幸村・後藤又兵衛・塙団右衛門達との比較から乱暴な愚将の様に見られがちな大野兄弟だが、賢愚・正邪は別にしても豊臣家への一本気な想いは鉄板だったと信じたい次第である。



特別な立場 四兄弟における大野治純の特別な立場は、「徳川家家臣」の一言に尽きる。兄弟仲や性格はどうあれ、士官と奉公で語るなら、治長治房治胤は豊臣家に仕え、治純は徳川家に仕えた。そう、治純唯一人が豊臣家に仕えず、徳川家に仕えたのである。
 一部上述しているが、治長も軍務において一時的に家康の指揮下に入ったことはあるが、流罪赦免から大坂復帰までの過程的なものに過ぎない。赦免が淀殿・大蔵卿局の懇願によるものなら、尚の事、治長は徹頭徹尾豊臣家臣だったと云えよう。

 そんな中、兄弟で唯一人徳川家に仕えた治純だったが、恐らくこれは徳川と豊臣の複雑な関係を互いに慮って、幕府と朝廷の間に武家伝奏が存在した様に特別なパイプ役が求められ、治純がそれを担ったのだろう。
  単に血縁だけを考えるなら、徳川家と豊臣家は切っても切れない関係にあった。
 少し例を挙げると、

 豊臣秀吉と徳川家康 → 義兄弟。家康の継室は秀吉の妹。
 豊臣秀吉と徳川秀忠 → 義兄弟 秀吉の側室・淀殿と秀忠の正室・お江が姉妹。
 豊臣秀頼と徳川秀忠 → 義父子 秀頼の正室は秀忠長女。

 有名過ぎる婚姻関係だが、秀吉が家康を恐れる一方で、家康を味方に付ければ鬼に金棒と思っていたのは事実で、それゆえ秀忠に義理の妹・お江を娶せ、二人の間に生まれた娘・千姫と秀頼の婚約を家康に懇願した。
 だが、それでも最終的に徳川家は豊臣家を滅ぼした。これだけの血縁があっても両家が事を構えない保証にはなり得なかった。
勿論、簡単に両家が争った訳ではない。歴史の事実だけを見れば、秀吉死から僅か二年で家康は天下を実質的に掌握した。だが、淀殿は徳川家に対して「豊臣家家老」との見方をなかなか崩さず、家康が征夷大将軍に就任しても、「二代将軍は秀頼の筈。」と捉え、家康が二年で将軍位を秀忠に譲ったことで徳川家の心中を知るも、「秀忠(つまり義理の叔父にして岳父の)将軍就任に祝辞を述べに上洛する様に命じられた際もこれを拒絶した。
 回りくどい云い方をしたが、何重もの血縁を持ち、徳川家もいきなり豊臣家を家臣扱いした訳ではなかったが、それでも徐々に名実ともに力関係や立場が逆転する中、余程の馬鹿でない限り、徳川家から豊臣家に接するにも、豊臣家から徳川家に接するにも要所要所で慎重を期す必要があったことだろう。
 徳川家にも、秀頼を義理の弟と見る結城秀康もいれば、淀殿の実妹・お江もいた。秀忠とお江の子供達にとって、淀殿は血の繋がった伯母で、秀頼は従兄弟だった。どちらにとっても下手に義理を踏み躙れば世間からどう云われるか分かった者ではなかった。

 前頁でも触れたが、大坂冬の陣における和睦が成立した際、徳川家に反意が無い証として治長の次男・治安と織田有楽の五男・尚長が人質として江戸に送られた。織田家と大野家が如何に特別な存在と見られていたかが伺える。
 そしてそんな中、あくまで立場は「徳川家臣」だった治純だったが、心はやはり「大野一族」だったのだろう。大坂夏の陣戦後、治長の次男で江戸の人質だった治安が処刑されたことを思えば、治純の自害は大野一族である自分が徳川の世に生きられないと諦めてのものだったのかもしれないが、個人的感傷としては、母も兄も甥も全員命を落とした中で、自分一人生きることを受け入れられなかったと思っている。


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令和六(2024)年四月四日 最終更新