第捌頁 徳川頼房……末弟が血筋に残した「密命」
末弟File捌
名前 徳川頼房(とくがわよりふさ) 生没年 慶長八(1603)年八月一〇日〜寛文元(1661)年七月二九日 父 徳川家康(とくがわいえやす) 母 お万(おまん) 兄 信康(のぶやす)、結城秀康(ゆうきひでやす)、秀忠(ひでただ)、松平忠吉(まつだいらただよし)、武田信吉(たけだのぶよし)、松平忠輝(まつだいらただてる)、松千代(まつちよ)、仙千代(せんちよ)、義直(よしなお)、頼宣(よりのぶ) 官位・立場 水戸藩初代藩主、権中納言 兄弟仲 基本良好
略歴 慶長八(1603)年八月一〇日、江戸幕府初代征夷大将軍徳川家康の一一男として、側室お万の方を母に伏見城にて生まれた。幼名は鶴千代(←この名前は水戸徳川家に代々嫡男の幼名とされた)。
父・家康は鶴千代が生まれる半年前に武士のボスである征夷大将軍に就任しており、その後僅か二年で三兄・秀忠に将軍職を譲り、武家政権を徳川家が世襲することを天下に示すとその翌年に鶴千代は三歳で常陸下妻一〇万石の藩主となった。
慶長一四(1609)年一二月一二日、同母兄頼将(頼宣)が駿府転封になったことで常陸水戸二五万石を領したが、この時点でまだ七歳だった鶴千代は父・家康の元で育てられ、現地にはいかななかった。
慶長一六(1611)年、九歳で元服し、清和源氏の通字の一つである「頼」の字を用いて頼房と名乗った。
だが、武将として戦場に立つことはなく、慶長一九(1614)年に起きた大坂の陣では駿府城の守備を担っただけに終わった。
元和二(1616)年四月一七日、父・家康が薨去。この時一四歳の頼房は駿府から江戸に移ったが、まだまだ幼少とあってか、領地に赴かず、藩主として水戸に入ったの元和五(1619)年一〇月、一七歳のときだった(但し、二か月で江戸へ帰り、次の水戸に入ったのは六年後の寛永二(1625)年のことだった)。
徳川幕府に在って、大名達は参勤交代を命じられて江戸と領地を往復し続け、それは徳川一門も例外ではなかったが、水戸藩は例外で、逆に水戸に入るのに幕府の許可を必要とした(江戸定府)。それゆえ頼房は青年時代の殆どを江戸で過ごし、一歳しか年齢の違わない甥・家光の学友兼悪友的な立場にあった。
寛永二(1625)年から寛永七(1630)年までの間は大半の時間を水戸にて領土の統治に専念し、寛永三(1626)年八月一九日に従三位権中納言に叙任された(これ以後、権中納言は水戸家の極官となった)。
寛永八(1631)年に大御所・秀忠が病となり、将軍家光が名実ともに幕府のトップになると引き続き頼房は家光側近として江戸に留まることが大半となり、家光薨去の慶安四(1651)年までの一七年間、水戸に赴いたのは僅か三回のみだった(このことで水戸藩主の江戸定府が基本となった)。
寛文元(1661)年七月二九日、水戸城にて病の為に逝去。徳川頼房享年五九歳。藩主の座は次男・光圀が継いだ。
兄弟 徳川家康の男児は一一人存在し、徳川頼房はその末子だった。
長兄・信康は父・家康が一七歳の時の子であるのに対し、最後の男児となった頼房は六一歳の時の子で、長兄と末弟の年齢差は四四年もあった。さすがにこれだけ年齢差があり、兄弟が多いと一度も顔を合わせないことも珍しくなかった。
実際、頼房が生まれた慶長八(1603)年の時点で、一〇人の兄の内、長兄・信康、七兄・松千代、八兄・仙千代が既に世を去っていた。また頼房が生まれた翌月に五兄・武田信吉が亡くなり、物心の付いたか否か定かではない五歳時に次兄・結城秀康、四兄・松平忠吉が相次いで世を去った。
つまり、頼房が顔を合わせたと思われる兄弟は、物心ついた自分に既に将軍となっていた二四歳年上の三兄・秀忠、一一歳年上の六兄・松平忠輝、三歳年上の九兄・義直、一歳年上の同母兄にして十兄の頼宣だけだった。
例によって兄弟が多いので、まずは下表を参照して頂きたい。
徳川頼房の兄達
兄弟順 名前 生年 没年 生母 備考 一 徳川信康 永禄二(1559)年 天正七(1579)年 築山殿 唯一の正室腹生まれ 二 結城秀康 天正二(1577)年 慶長一二(1607)年 お万(長勝院) 三 徳川秀忠 天正七(1579)年 寛永九(1632)年 西郷局 忠吉の同母兄 四 松平忠吉 天正八(1580)年 慶長一二(1607)年 西郷局 秀忠の同母弟 五 武田信吉 天正一一(1583)年 慶長八(1603)年 お都摩 六 松平忠輝 天正二〇(1592)年 天和三(1683)年 茶阿局 松千代の同母兄 七 松千代 文禄三(1594)年 慶長四(1599)年 茶阿局 忠輝の同母弟 八 仙千代 文禄四(1595)年 慶長五(1600)年 お亀 義直の同母兄 九 徳川義直 慶長五(1600)年 慶安三(1650)年 お亀 仙千代の同母弟 一〇 徳川頼宣 慶長七(1602)年 寛文一一(1671)年 お万(養珠院) 頼房の同母兄
こうして頼房兄弟達の生年を見てみると、関ヶ原の戦いの大勝利から着々と天下取りを進めていた家康が秀忠に将軍職を譲って徳川家の政権世襲を満天下に示した少し後迄の七年間に次々と子供を得ては、何人もの子供に先立たれたことが分かる。天下の覇権を握りつつもその陰で次々子供に死なれたとあっては、人生の幸福とは何なのかを感がさせられる。
ともあれ、家康が完全に天下を取り、それに安心して世を去った段階で生きていた家康の息子達は、秀忠(三八歳)、忠輝(二五歳)、義直(一七歳)、頼宣(一五歳)、頼房(一四歳)のみだった。
その中で忠輝は勘当状態にして謹慎中で、頼房にとって、秀忠は親子ほど年が離れており、義直と同母兄の頼宣が近しい存在だった。そして江戸幕府としては、故結城秀康の子・松平忠直の越前福井、義直の名古屋、頼宣の紀伊、頼房の水戸が一門の治める親藩だった(後に親藩の数は増えるが、それは義直・頼宣・頼房の庶子達が立藩した支藩的存在だった)。
秀忠と義直以下の弟達の年齢が二〇年以上離れている上、義直以下の三兄弟が生まれ、物心ついた時には徳川の天下はかなり固まっていた。家康が将軍位に在り、秀忠が将軍職を受け継ぐ前年に生まれた徳川家光が自らを「生まれながらの将軍」と称していたのは有名だが、その家光と一歳しか違わない頼房も、少ししか年の違わない義直・頼宣も「高貴な生まれ」と云う認識はそれなりにあったと思われる。
また、長兄信康以降、余り子供を作らなかった家康が、信康死後かなり精力的に子供を作っており、我が子を死に追いやった家康が頼宣・頼房は膝の上に乗せて可愛がっていたと云うから、「家康は関ヶ原の戦いで戦死していて、その後の家康は影武者だった。」と云うトンデモ伝承がある。
まあ、この伝承の真偽について本作では検証しないが、単純に年を食ってから出来た子供は特に可愛いのだろう、とだけ述べておきたい。
いずれにせよ、天下人が片手に掛かってから出来た子供に対しては、それまでと接し方も育て方も異なるのだろう。
特別な立場 「御三家始祖の一人」であったことと、「将軍家光に最も身近な者」というのが徳川頼房の独特な立場だった。
また、御三家が創立されたことで頼房本人と共に水戸藩も特別な立場に立たされた。
まず、頼房以前に家康の息子達が立たされた立場に関して簡単に触れたい。
子供の数が多いという事は、子供や若者の早世率の高かった当時にあって、「保険」が多い一方で、「御家騒動の種」が多いことも意味した。物事何事も一長一短ありである。
順当に考えるなら、御家は正室の腹から生まれた最初の男児である嫡男が継ぐのだから、嫡男に異常が起きなければ他の弟達は部屋住みか、養子行きが一般で、御家に力があれば別家を立てることもあり得る。
そして周知の通り、徳川家では養子行きと別家立てが行われた。
まず信康が不幸に見舞われたことで後継者を誰にするか一時徳川家は紛糾(と云う程でもなかったが)し、結果的に秀忠が家康後継者となった訳だが、基本、それ以外の男児は養子行きとなった。
次兄秀康は最初小牧・長久手の戦いにおける和睦の際に豊臣秀吉の養子となり、秀吉に実子・秀頼が生まれると下野の名家であった結城晴朝の養子に行かされた(最終的には松平姓に復したのだが)。
四兄・忠吉と六兄・忠輝は徳川家の祖で、一八の家に別れていた松平家で後継者が途絶えていた東条松平家・長沢松平家へと養子に行った。
五兄の信吉は滅びた武田家を惜しんだ家康によって、その名跡を継いだ。
これらの養子縁組は継いだ個々人が後継者亡く早世したり、改易されたりした訳だが、最終的に家康の息子(及びその子)達は親藩を為す大名となった。
次兄・秀康は家康に先立ったが、嫡男・忠直が継ぎ、越前松平家として、将軍になれなかった兄を憚る秀忠によって「制外の家」と云う別格待遇を受けた。最終的に越前松平家は忠直が強制隠居させられたことで家格を落としたが、徳川家の連枝としての血筋は保たれた。
そして義直・頼宣・頼房は徳川の姓を許された特別な立場に立たされた。有名な話だが、「徳川」の姓を許されたのは秀忠直系と、御三家の当主及びその世子のみだった。御三家に生まれた男児といえども、世子が死んで新たな後継者ともならない限り、名乗ることを許された姓は「松平」で、上述した御三家から派生した親藩当主の姓はすべて「松平」である。
これだけで頼房が置かれた立場は大名の中でも別格過ぎる程別格だった訳だが、末子に生まれた頼房は徳川家及び徳川幕府にあっても特別なものが有った。
まず、頼房には二人の母がいた。お万の方とお梶の方である。
お万の方は生母で、頼宣と頼房を生んだ。一方のお梶の方は家康の男児を生んでおらず、後に頼房を養子とした。お梶は家康晩年に最も寵愛された女性だったが、家康最後の娘・市姫を生んだものの、その市姫は幼くして亡くなり、それを不憫に思った家康がお梶と頼房の養子縁組をした。
この養母と養子の関係が如何なるものだったかの詳細は薩摩守の研究不足で詳らかではないが、お梶は後に頼房の庶長子・頼重の大名復帰を幕府に懇願し、三男・光圀が実際には諸国を漫遊していなかったのがお梶を弔う為に鎌倉に入っていた史実を考えるとそれなりに良好だったのだろう。
一方で、頼房には父・家康から血の気の多さを警戒されていた節がある。
信康・秀康・忠吉・忠輝・頼宣、と家康の息子達には良く云えば武勇に優れていた、悪く云えば血の気の多いものが多かった。好戦的で勇猛な性格・資質は戦国の世では頼もしくても、平和を守る世においては危険分子でもあった。一説に秀忠が将軍職を継いだのも、守成の世を考えるなら、却って武将としては凡庸な方が良いと見られていたからとも云われている(まあ、それだけではなく、養子行きの経緯や内外の対人関係、政治資質も考慮してだとは思うのだが)。
そして家康は頼房に対しても血の気の多さを懸念し、彼に巨大な石高を与えないよう秀忠に命じたと云われている。その真偽の程は何とも云えないが、頼房の同母兄・頼宣は後に由比正雪の乱に際してそれに加担し、己が天下を取ろうとしていたのでは?との疑いを持たれたことがあった。
それとは無関係だが、水戸藩は頼房死後に二八万石から三五万石となったのだが、これには上述の家康の遺言が働いていたとの説がある。まあ、七万石の差がどれほどのものだったのかはさっぱり分からんが(苦笑)。
さて、そんな頼房だが、まず彼の立場を特別ならしめたものとして家光との関係がある。
後に江戸幕府の礎石を固めた家光だが、生涯病弱で幼少時は内向的な性格が強く、人の好き嫌いも激しかった。実弟忠長との不仲は有名で、忠長が乳母ではなく実母であるお江の手で育てられたことから、一時家光は両親とも不仲だったとされている。一方で、出生の事情から実父の愛情を得られなかった異母弟・保科正之は思い切り可愛がり、一歳しか違わない頼房とは最も年の近い、気脈の合う身内にして、悪友だった。
頼房が領国である水戸よりも江戸にいることの方が多かったのも、家光との蜜月関係が有ったと思われる。
一方で、末弟でありながら家光に可愛がられ、父や兄に警戒されている自分の身を頼房は頼房なりに気遣っていたと思われる。頼房は妾が頼重や光圀を身籠った際に堕胎を命じていた。頼重・光圀が出来たとき、家光にも、兄である義直・頼宣にも子が生まれていなかった。もし甥や兄に子が出来なければ自分の子が四代ないし五代征夷大将軍になることもあり得る訳だが、逆を云えばその存在が危険視されることにもなりかねない。
頼房がそこまで考えていたかどうかは詳らかではないが、少なくとも家光・義直・頼宣に男児が生まれるまでは自分が子供を持つことを憚った(まあ、それでも周囲の女性に手を付けるなどして、やることはやっていた訳だが)。
最後に頼房に派生した水戸藩の特別な立場に関して。
一般に尾張・紀伊・水戸の三つの徳川家は「御三家」と呼ばれ、本家である将軍家の血統が途絶えるような事態が起きた際にはこの三家から将軍を輩出する「保険」の家とされたと云われている。
実際、将軍家は七代将軍家継で断絶し、紀伊徳川家から吉宗が八代将軍となった訳だが、この「御三家」を、「尾張家・紀伊家・水戸家」ではなく、「将軍家・尾張家・紀伊家」を指すとしたものである。
つまり、水戸家だけが当主が徳川姓を名乗りながら、将軍になれない家系とされとことになる訳だが、これには水戸家が受けたとされる密命が関与したの説がある。
江戸幕府始祖徳川家康は先見の明がある男だった。
御三家を創設したのが将軍血統を絶やさない為のものであることは余人の言を待たないところだが、一方で幕府が何らかの政変で朝廷と対立するような事態になることも懸念していた。
名目上、征夷大将軍の地位は朝廷、つまり天皇から命じられるものである。すべての人民は天皇の臣下な訳だが、天皇に代わって天下の実権を握っていることに朝廷が面白からぬ感情を抱くのは自然なことである。
実際、江戸幕府は薩摩・長州を初めとする雄藩を味方につけ、「朝敵」とされたことで大政奉還という形で滅びるに至った訳だが、家康は万一幕府が朝敵にされた際には、水戸家には幕府ではなく朝廷に味方をして、幕府が滅びても徳川家が存続する様に密命したとの説がある。
密命は密命故にどこまで本当かは分からないが、水戸家に尊皇思想が強く、幕末には朝廷が密勅を下したこともあるのは事実である。
かように徳川頼房個人も血統や政治的な立場からかなり特殊な立場に立った訳だが、様々な意味で「保険」とされたのも、「家康最後の子」という一面が強かったように思われる。
個人の資質もあるのだろうけれど、最終的に天下を取った「徳川家」の看板はそれだけ大きかったと云える。その看板に悪く云えば翻弄された、別の云い方をすれば特権とした頼房の人生は表に出ている以上に濃密なものが有ったと思われる。
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令和六(2024)年四月四日 最終更新