第拾頁 桂昌院……愛深きゆえに憎しみも

名前桂昌院(けいしょういん)
お玉
生没年寛永四(1627)年〜宝永二(1705)年六月二二日
主な立場五代将軍生母
本庄宗正
徳川家光
徳川綱吉
悪女とされる要因「生類憐れみの令」ゴリ押し、への異常な憎悪
略歴 寛永四(1627)年に、本庄宗正(北小路宗正とも)を父に、京都の大徳寺付近で生まれた。名はお玉
 宗正は関白・二条光平の家司という身分だったが、お玉宗正の娘とするのは『徳川実紀』の記述によるもので、実際は最も低い身分の生まれと見られている。
 一例を挙げると、「西陣織屋の娘」、「畳屋の娘」、「宗正が使用人であった高麗人の女性に手を付けて産ませた娘」、「八百屋の娘」と諸説紛々である。
 いずれの出自にしても、大奥入りするに当たって、「宗正の養女」という形を取ったのだろう。

 というのも、時の将軍・徳川家光は女色に興味を示さず、正室を迎えたものの全く世継ぎの生まれる気配が無かった。それゆえ彼の乳母・春日局は辣腕を振るって、(かなり乱暴且つ語弊ある表現になるが)「家光が興味を示す見込みがある女」なら誰でもれば、大奥に挙げた。
 身分なら然るべき身分の者の養女とすればいい訳で、取敢えず出自に構っていられなかったのだろう。

 ともあれ、寛永一六(1639)年(1639年)に御小姓として家光の側室のお万の方(後の永光院)に仕えた。彼女は尼僧だったのだが、あるきっかけで家光に見初められたため、春日局に強引に還俗させられ、大奥に入れられた経緯を持っていた。
 謂わば侍女だったのだが、春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となり、正保三(1646)年一月八日に家光の四男・徳松(綱吉)を産んだ。

 チョット、この先は名前がややこしくなるので、まずは下記の表を頭に入れて頂きたい。
徳川家光の妻達
地位名前院号産んだ家光の子
正室鷹司孝子本理院
側室お振り自証院千代姫(尾張光友正室)
お楽宝樹院徳川家綱(長男・四代将軍)
お夏順性院徳川綱重(三男・家宣の父)
お万永光院※産まして貰えず
お玉桂昌院徳川綱吉(四男・五代将軍)
お里佐定光号鶴松(五男)
お琴芳心号
おまさ不明亀松(二男)

 慶安四(1651)年四月二〇日、家光が薨去。当時の慣例として、夫に先立たれた武家の妻は落飾したので、お玉も落飾して桂昌院と号して、大奥を離れ、筑波山知足院に入った。
 しかし延宝八(1680)年五月八日に四代将軍・家綱が継嗣なく薨去し、息子・綱吉が五代将軍となると、江戸城三の丸へ入った。

 学問に優れ、親孝行でもあった綱吉が最高権力者として孝養を尽くしてくれたので幸せの絶頂にあったが、綱吉に子供が出来ないことだけが気がかりで、あれこれ助言した。
 そして彼女自身仏教を篤く信仰していたので、帰依していた僧に隆光を紹介され、これが「生類憐れみの令」発令に繋がったとされている(異説もある)。

 貞享元(1684)年一一月に従三位となり、元禄一五(1702)年二月、将軍生母として女性最高位であった従一位の官位を下賜された。余談だが、この一一ヶ月前に桂昌院の昇進の為に勅使を江戸城に迎えた大切な時に浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬り付けると云う刃傷沙汰を起こしたため、怒った綱吉は浅野を即日切腹させた。

 宝永二(1705)年六月二二日、薨去。桂昌院享年七九歳。



第壱検証:「娘」として はっきり云って不明。出自からして不明で、父・本庄宗正も系統の信憑性に疑問のある人物である。桂昌院の事績がはっきりするのは大奥にて徳川家光に見初められてからのことなので、それ以降、家光逝去から綱吉将軍就任まで筑波山知足院に入っていた時期を除けば、常時江戸城内にいた筈なので、「娘」としての彼女は本当に「不明」と云わざるを得ない。
 唯一はっきりしているのは、本庄氏一族が、桂昌院の伝手で高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などにて小大名ながらも出世を果たしたことで、実際の血の繋がりは不明でも、桂昌院自身は本庄家を大切に思っていたようである。


第弐検証:「妻」として 徳川家光との関係よりも、他の側室との確執が注目される。特に有名なのは、お夏(順性院)との不仲である。
 大奥に入ったときのお玉は永光院・お万の侍女という立場で、その立場故に彼女が綱吉の寵愛を得たことは面白くなかっただろう。

 正室・鷹司孝子は家光と不仲で子を産まず、お玉にとって、主人に当たるお万は政治上の問題で子を産めば、朝廷よりの人物になりかねないとして、妊娠する度に堕胎を命じられると云う悲劇的な立場に置かれていた。
 となると、長子を産んだお楽(宝樹院)を別にすれば、おまさ、お夏、お玉、お里佐はほぼ対等の立場にあった。否、おまさの産んだ亀松、お里佐の産んだ鶴松は(縁起の良さそうな名前なのに)夭折したので、お夏とお玉が大奥での立場を巡って対立した。

 記録の残りにくい大奥内でどんな諍いが展開されたか詳らかではないが、一説にはお玉はお夏から折檻を受けたとも伝わっている。
 結果、お玉家光に死なれ、桂昌院として御仏に仕え、家光の菩提を弔う身になっても、同じく御仏に仕える身となったお夏改め順性院を憎み続けた。それが表面化したのは孫・徳松の夭折後だった。

 四代将軍・家綱は継嗣なく死に、それ以前に順性院の子・綱重が死んでいたので、我が子・綱吉が五代将軍となったのは良かったが、綱吉の子・徳松が夭折し、綱吉に子供の出来る気配が無かったため、徳川家の身内から養子を迎えなくてはならなくなった。
 その第一候補は徳川綱重の子・徳川綱豊(後の家宣)だったが、綱豊は憎き順性院の孫で、綱豊が綱吉の養子=自分の義理の孫となることは桂昌院には耐え難い事だった。ドラマや歴史小説・歴史漫画で桂昌院が最も悪女に描かれるのはこの点に関してだろう。

 TBSのドラマ『水戸黄門』では怪僧・隆光を通じて綱豊に呪いを掛けたり、綱豊に刺客を放ったりする桂昌院が何度となく描かれた。平成七(1995)年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』でも、桂昌院 (藤間紫)は、順性院が既に故人であったにもかかわらず甲府徳川家への敵意を露骨に見せ、孫娘・鶴姫の婿・紀州綱教(紀伊藩第三代藩主)の将軍擁立を綱吉に推し、鶴姫、綱教が若死にしても尚、綱豊擁立に異議を唱え続けていた。ちなみに鶴姫は桂昌院の亡くなる前年に、綱教は前月にこの世を去っていた。
 綱吉が綱豊改め家宣を将軍世子として、養子に迎え、西の丸に入らせたのは桂昌院が亡くなる半年前だったが、ここまで順性院の血筋までも憎ませたものは何だったのだろうか?


第参検証:「母」として 徳川綱吉に対する桂昌院の影響はとても大きい。元々学問好きで儒学の精神を重んじた綱吉は孝道を重んじ、桂昌院もそんな綱吉を鶴姫・徳松共々可愛がった。基本は、「学問熱心で親孝行な息子とその母」であった。

 そんな桂昌院が「母」としての存在感を増すのは、綱吉の世継ぎを案じてのことだった。前述した様に、仏教への信仰の篤い桂昌院が師匠の紹介で隆光を紹介してもらってうかがったところ、綱吉に子が出来ないのは、「前世で殺生をした報い。」とのことで、世継ぎを望むなら、これからは生類を憐れむよう告げられた。世に云う「生類憐れみの令」がかくして生まれたのは有名である。

 純粋な母心から出た献言だが、桂昌院「天下の悪法を成した黒幕」と見る目は少なくない。結果的に、「生類憐れみの令」綱吉が逝去するまで続けられたが、綱吉に子が出来ることはなかった。だがそれでも綱吉は「御利益」のなかった法令を、後継者である家宣にも続けるよう遺言した(守られなかったが)。
 それだけ、綱吉にとって、「母の一言」は重かったのだろう。


第肆検証:「悪女」とされる要因 殆ど前述しているが、順性院の血を受け継ぐ甲府徳川家への尋常ではない憎悪に絡む言動、そして「「生類憐れみの令」の元凶」と見られることだろう。
 二つの内、「生類憐れみの令」に関しては、純粋な母心で、責任は政治家として法令化した綱吉にあると見るべきだろう。
 問題は順性院との確執における問題である。
 人と人の対立はどちらかに一方的に「非」があることは稀有で、殆どの場合、大小の違いはあれど、双方に「非」がある。気になるのは、桂昌院と順性院どちらの非が大きいかである。
 推測するしかないのだが、どちらに非があるにしてもかなり一方的な気がしてならない。ポイントは桂昌院が甲府徳川家を憎みつつも、甲府徳川家サイドでは桂昌院に対する敵意が見られないことで、これだけ見ると桂昌院の怒りの度合いは不可解で、一人敵意をむき出しにする桂昌院に一方的な非がある様にも見えるし、暴力まで振るった順性院の非がひどかったから、甲府側は何も云わないようにも取れる。
 まあ、将軍生母に敵意など見せられないだろうし、女同士の確執に息子や孫までが引きずるのも変な話だ。

 薩摩守は、桂昌院の本質は、仏教の信仰に篤く、家族想いが少し過ぎる人物と見ているので、順性院への怨みを子や孫にまで引き摺らなければ、ここまで悪く云われることも無いだろうに、と思われてならない。



弁護論 繰り返しになるが、とにかく仏教への信仰の篤い女性であったことは間違いない。
 応仁の乱で一部が焼失した京都の善峯寺の再興に尽力したし、戦国時代に兵火で焼けた東大寺大仏殿を再建したのは徳川綱吉だが、これに桂昌院の影響があってもおかしくない、否、母子二人して寄進を行っている。

 謂わば、「長所は短所」といったところだろう。桂昌院は仏教への信仰が篤い故に、綱吉に子が出来ないことを母として真剣に憂えたが故に、「生類憐れみの令」が生まれた。
 「天下の悪法」と云われたこの法令も、昨今では「戦国時代の殺伐とした気風を一掃し、命を重んじる傾向を生んだ。」というプラス面が評価される様になったが、根本は確かに命を重んじる良法だった。
 「天下の悪法」とされたのはエスカレートしたことで罰則が苛斂誅求を極め、同じ「生類」でありながら「人間」が軽んじられたことにある(例:犬や燕を狩って切腹、蚊を殺して閉門)。
 その証拠に、綱吉逝去後、葬儀も待たずに廃止された「生類憐れみの令」だったが、捨て子の禁止を初めとする、一部人道的な部分は引き続き施行された。

 勿論、『水戸黄門』等で描かれる徳川綱豊(徳川家宣)に刺客を放っているのはフィクションである。(様々な意味で)間違っても桂昌院に「暗殺」の汚名を着せてはならないので、哀れにも刺客は全員が斬り殺されるか、自害することになる(苦笑)。

 結論、桂昌院の心根は悪くないのだが、凝り性過ぎ、良くも悪くも彼女に似た息子・綱吉が更に増幅させてしまった。正に「過ぎたるは猶、及ばざるが如し」で、行き過ぎが無ければ世にも稀な慈愛に溢れたシンデレラ・ガールと、学識と信賞必罰に厚い名君の母子が史上にのその名を刻んでいたことだろう。勿体ない話である。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新