第拾壱頁 月光院……天英院との確執の果てに

名前月光院(げっこういん)
喜世(きよ)
生没年貞享二(1685)年〜宝暦二(1752)年九月一九日
主な立場六代将軍側室、七代将軍生母
勝田玄哲
徳川家宣
徳川家継
悪女とされる要因天英院との確執、江島事件との絡み、放置プレイによる家継病死
略歴 貞享二(1685)年、元・加賀藩士にして浅草唯念寺の住職だった勝田玄哲を父に、和田治左衛門の娘を母として生まれた。

 京極氏、戸沢氏に仕え、矢島治太夫(四代将軍徳川家綱の乳母・矢島局の養子)の養女に迎えられた。

 宝永元(1704)年、甲府宰相徳川綱豊の桜田御殿に出仕したことで綱豊の寵愛を受けるようになったが、正室の近衛煕子とは不仲だった。
 同年一二月三一日、綱豊は五代将軍徳川綱吉の養嗣子として江戸城の西の丸に入り、喜世も熙子や他の側室達と共に西の丸に同行。綱豊の六代将軍就任は確定し、名を家宣と改めた。

 宝永六(1709)年、夫・家宣が六代将軍に就任。同年七月、喜世家宣の四男、鍋松を出産した。この功績で喜世左京の局と呼ばれるようになった。

 宝永七(1710)年、家宣三男で、側室・須免の子、大五郎が三歳で夭逝。正室煕子の産んだ子もそれ以前に夭折しており、鍋松家宣にとって唯一人の息子となった(厳密には、須免は鍋松の異母弟となる男児を生んでいるが、こちらも夭折した)。
 そして二年後の正徳二(1712)年一〇月一四日、在位四年持たずして徳川家宣が薨去。息子の鍋松が否応なしに後継者となった。(さすがに余りに幼いので、正式な就任は家宣死の翌年に持ち越された)。
 例によって、家宣の死に伴い、正室・側室は落飾した。近衛煕子は天英院、、喜世月光院、須免は蓮浄院と号した。
 翌正徳三(1713)年四月二日、鍋松は元服して名を家継と改めると同時に将軍宣下を受け、徳川幕府史上最年少で第七代征夷大将軍に就任した。そして生母である月光院は従三位の位を賜った。

 当然幼い家継に政治を取れる筈はなく、天英院が統べる大奥に将軍生母として家継と共に過ごす月光院の元、政治の都合上、男子禁制の大奥に間部詮房が通い詰めた。
 それゆえ、月光院と間部詮房の中を怪しむ声が江戸城中に横行したり、正徳四(17141)年には江島生島事件が発生したりした(詳細後述)。

 家宣の師でもあった新井白石に学問を学ぶ家継は聡明で、月光院は天英院と共に家継の御代所として、霊元法皇の第一三皇女・八十宮を迎えようと運動し、婚約にこぎつけた。  実現していれば、第一四代家茂に先駆けた皇女降嫁になるところだったが、婚約直後の享保元(1716)年三月、家継は風邪をこじらせて病床に伏し、四月三〇日に享年八歳で夭折した。時に月光院、三二歳の女盛りだった。

 当然、家継に子供がいよう筈もなく、天英院の推挙もあって、八代将軍には紀伊藩主・徳川吉宗が就任。形の上では吉宗は家継の養嗣子となったので、天英院・月光院は吉宗の「義理の祖母」として引き続き、大奥に住むこととなった。

 寛保元(1741)年年二月二八日、天英院が薨去。既に天英院と月光院の仲は良好なものに修復しており、今際の際に、吉宗後継者として、言語不明瞭で政治に無関心な長男・家重よりも、文武両道に優れた次男・田安宗武を押すことを託され、これを了承した。

 だが月光院の擁立運動も空しく、吉宗は「長幼の序」を重んじて延享二(1745)年九月二五日、吉宗は家重に将軍位を譲位した。それに際して、宗武擁立派の急先鋒・松平乗邑(まつだいらのりさと)も老中を罷免された。
 既に時代は次の世代と移っており、寛延四(1751)年六月二〇日、大御所・徳川吉宗がこの世を去ると、翌宝暦二(1752)年九月一九日に月光院も逝去した。
 月光院享年六八歳。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼



第壱検証:「娘」として 前述した様に、月光院こと喜世の父は「元・加賀藩士にして浅草唯念寺の住職だった勝田玄哲」だが、これ以上のことがはっきりしない。
 武士が士分を捨てて僧侶になること自体は珍しくもなんともないが、当時の住職となった身で子供を作ったのは変な気がする。もっとも、唯念寺は浄土真宗なので、住職が妻帯してもおかしくはないのだが。

 勿論、この時代、婚姻時に将軍御代所として嫁いできた身でもなければ、女性の出自に関しては詳細な記録が残っていることが少なく、前頁の桂昌院でさえ謎が多い様に、薩摩守自身は月光院もまた然程高くない身分の女性に綱豊の手がついて、勝田家の養女になったのではないか?と見ている。

 とにかくこれ以上は探り得なかった。分かっているのは、月光院の縁で勝田家が町医者から幕府は袂三〇〇〇石に取り立てられたことだけだった。


第弐検証:「妻」として 「妻」として月光院のイメージを悪くしているのは「天英院との対立」と「江島生島事件」だろう。

 まず前者だが、夫の寵愛を巡って、「正室VS側室」あるいは「側室VS側室」の諍いや対立があったこと自体は古今東西、貴賤に関係なく珍しい話ではない。
 家宣の寵愛を巡る争いに注目したにしても、寵愛の推移はごく平凡な流れを辿った。

 天英院子と近衛煕子は、五摂家の一つである近衛家の娘で、彼女の父・近衛基煕は当初、綱豊との身分が将軍後継者には程遠いと見て、娘と綱豊の婚姻に不本意だったが、煕子は家柄を鼻に掛けることも無く、夫に良く尽くした。
 一男一女を生んだが、不幸にして二人とも夭折すると、綱豊に側室を勧めた。というのも、当時は身分の高い女性ほど三〇歳を過ぎれば、御家の為、子供を多く作る為、身を退いて若い側室を勧めることが慣習化していた(この距離間のため、煕子は家宣の臨終に立ち会えなかった)。
 個人的には分からない境地である。道場主なんか、女性は三〇歳を過ぎたあたりから熟味が増すと見ていて……………ぎゃあ!!(←道場主のナイマン蹴りを喰らっている)

 イテテテ、いずれにせよ、その様にして、綱豊に勧められたのが煕子よりも若い須免であり、喜世であった。ちなみに煕子と喜世の年齢差は一九歳。
 確かに自分の子供が夭折し、後から世継ぎを生んだ若い側室が重宝されれば正室は面白くないだろう。だが天英院は「妻」として夫、御家に尽くし続けた。
 また綱豊も、「世継ぎを産む役」としてはお役御免になっていたとはいえ、天英院を大切にし続け、死の間際に幼い鍋松(家継)に不幸があったときのことを天英院にも託していた。

 そんな聡明且つ、懐の深い女性と対立したと見られたことは月光院にとって、評判を落とすことになった面があるだろう。或いは、将軍生母として寵愛第一になりつつも、家宣が天英院を大切にし、その後の大奥で天英院が大きな権勢を持ち続けたことに対する嫉妬があったかも知れない。
 ただ、対立したと云っても、前頁の「順性院VS桂昌院」ほど醜いものではなく、後には若いし、九代将軍擁立問題に力を合わせており、識者によっては八代将軍に吉宗を擁立する頃には大奥として吉宗を推すことで合意していたので、既に和解していたと見る者もいる。


 次いで後者の「江島生島事件」だが、事件の表向きは大奥で月光院に仕える御年寄・江島が起こした綱紀粛正事件だが、江島を初め、一四〇〇名が処罰されており、その規模故に噂が噂を呼び、月光院のイメージに暗い影を落とした。

 事件についてもう少し詳しく触れると、家継将軍期の正徳四(1714)年一月一二日、江島が月光院の名代として前将軍徳川家宣の墓参りのため、寛永寺、増上寺へ参詣した帰途に芝居小屋・山村座にて人気歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を見た。
 芝居の後、江島は生島等を茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答となり、事が城中に広まって評定所が審理することになった。
 評定所、江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付、稲生正武等による徹底調査の結果、大奥の規律の緩みが明らかにされた。
 江島は生島との密会を疑われ、遠島となった。
 連座で旗本・白井平右衛門(江島の兄)は斬首(←切腹が許されなかった)、豊島常慶(江島の弟)は重追放となった。

 月光院の嘆願で江島に罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなった(後に吉宗の代に赦免された際、江島はこれを断り、高遠に没した)。生島は三宅島への、山村座座元・山村長太夫は伊豆大島への遠島となった。
 山村座は廃座となり、巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は風紀を乱す存在と見做され、様々な制限を受けた。そしてほかにも様々なものが連座して罰せられた。

 この事件により、大奥における月光院派の勢力は落ち、天英院派は優勢となった。何せ醜聞事件なので、伏せられたことも多く、それをいいことに、当時も、後世も口さがない人々が云いたい様に云い立て、ドラマや小説にも(面白おかしく)引用された。
 平成七(1995)年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』では生島新五郎(堀内正美)は長持の中に隠れて大奥に入っており、生島と色事に耽ったのは月光院(名取裕子)ということになっていた。
 江島(あべ静江)は主人である月光院を庇って主人の罪を被ったもので、月光院は「良心の呵責に苦しむ」と云いながら泣いて江島の減刑を天英院(草笛光子)に訴え、事件の真相に驚いた天英院は、思わず月光院の元の名である喜世の名で呼んだほどだった。

 勿論これは創作だが、史実であってもおかしくないと思っている。家宣に死なれたとき、月光院は二八歳。孤閨に耐えるには辛い年齢だったことだろう。彼女は間部詮房との仲を噂されたこともあり、家継は詮房を「丸で将軍の様だ。」と評した台詞からも、月光院家宣没後に不貞(?)を働いたと見る人は今も昔も多い(真剣に疑っている人もいるだろうし、面白がって疑っている輩もいるだろう)。
 『八代将軍吉宗』の脚本を務めたジェームス三木氏は、夫の死を弔う為に落飾したにしては「月光院」という陰号を「艶やか過ぎる」と評し、ストーリーには描かなかったが、彼女が吉宗と肉体関係があったと見ているとの見解も提示していた。

 真実を知るには大奥は深過ぎるし、真実を突き止めたとて、興味本位で面白いようにしか話を信用しない者の中では、事の正否に関係なく月光院は妖艶で不貞な女性と見られ続けるのは些か可哀想な気がする。


第参検証:「母」として 「母」としての彼女の評判が悪いのは息子である徳川家継の夭折にある。
 家継のみならず、徳川家宣の子は不幸にして全員が夭折した。天英院との間に生まれた男児に至っては生まれたその日に亡くなった。家宣自身も享年は五一歳で、決して長生きした方ではない。
 当然、家継も兄弟の例から成長が不安視され、征夷大将軍という身分からも、その健康状態には細心の注意が払われるべき存在だった。

 その家継の死は、母である月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞させたためとも云われている。

 後は弱冠、前述の「江島生島事件」と被る。「将軍生母」という立場が、不貞疑惑に対する弾劾の声を強いものとするのだろう。まさに「偉きゃ白でも黒になる。」である。


第肆検証:「悪女」とされる要因 まとめると、「聡明で幕府に尽くした天英院の敵対者」「生島新五郎、間部詮房との不貞疑惑」「能に夢中になっての家継見殺し」といったところだろう。

 大体が第弐検証、第参検証で触れたことで、根幹に「家継生母」の地位に胡坐をかき、聡明さ、人格で評判の良い天英院の眉を顰ませる様な権勢に驕った姿勢が見て取れる。

 ただ、権勢を傘に着たとはいえ、それをもって夫・家宣や、義理の孫・吉宗に何か無茶な要求をした記録は見られない。江島の赦免を初め、数々の要請はしたことだろうけれど、ゴリ押しまでしたとは思えない。
 歴代の将軍生母や、藩主生母には、「若様の母君」の立場をいいことに御代所や正室を蔑ろにしたものは枚挙に暇がない。そんな中で月光院に目立つのは江島生島事件の大きさで、この真相にこそ、月光院の実態が隠されている気がするが、事件の大きさが既に彼女を「悪女」と決めてかかっている姿勢には注意を要すると薩摩守は考える。



弁護論 何と云っても、立場の大きさのためにかなり大袈裟に喧伝されていることが挙げられる。
 前述した「悪女」とされる要因の、「聡明で幕府に尽くした天英院の敵対者」「生島新五郎、間部詮房との不貞疑惑」「能に夢中になっての家継見殺し」にしたところで、月光院一人に責を求めるのが酷なものもあれば、醜聞・推測・面白おかしく話したがる輩によって実態の有無・スケールを度外視して悪し様に云われた傾向は無視出来ない。

 一応、一つ一つ簡単に弁護したい。
 まず「聡明で幕府に尽くした天英院の敵対者」だが、恐らくは「将軍生母」になったことで一時的に思い上がった、といった程度に思われる。月光院の権勢は決して天英院を上回ってはいない(家継が無事成人したらあり得たかもしれないが)し、彼女が誰かを傷付ける行動を取ってはいないこと、最終的には和解し、同じ目的の為に一致協力した事実を想えば、両者の敵対を必要以上に重要視するのは適切ではない、と薩摩守は考える。

 続いて「生島新五郎、間部詮房との不貞疑惑」だが、これに関して薩摩守は三流女性週刊誌を観る様な眼で見ている。順番が前後するが、間部との不貞は、間部の立身出世に対する妬みやっかみからきた「下衆の勘繰り」だろう。
 過去作『「君側の奸」なのか?』でも間部詮房については調べてみたが、彼は生真面目を絵に描いた様な男で、そんな人物だったからこそ、家継将軍時代に多くに入る例外を認められたと云っていい。
 それこそ勝手な推測だが、もし月光院が大奥にて間部にしなだれかかるという羨ましい状況が発生していたとしても、堅物・間部は拒絶していたことだろう。
 となると問題且つ謎なのが、江島生島事件である。
 事件の張本人である江島や生島新五郎が遠流となったこともかなりの重罰だったが、江島の兄弟に対する苛斂誅求や、一四〇〇名に及ぶ連座は単純な醜聞事件を遥かに超えている。その事件規模故に「生島を引っ張り込んでやっていたのは月光院なのでは?」と見る向きがあるのだろう。
 月光院は事件直後も、事件後も天英院や吉宗に江島の減刑・赦免を懇願したが、このことが余計に、「江島は月光院の身代わりになった。」と見る風潮を生んでしまっている。単純に苛斂誅求が兄弟にまで及んだ部下を哀れに思った主人の情け深い行動だったとしてもおかしくないのだが。

 付け加えるなら、この事件に対する苛斂誅求の要因として、当時の幕閣が大奥の存在に頭を痛めていたことを考慮する必要がある。
 当時の大奥は家継が幼年だったこともあって、頽廃の極みに在ったと見られている。
 陰湿ないじめに耐えかねて井戸に飛び込む女官が後を絶たず、女官同士の同性愛という見てみたいものも横行し、この事件ならずとも機会があれば「男」を引きずりこみたいと考える女性は多かっただろうし、女装した男が出入りしていたとしても全くおかしくない。風紀の乱れは充分過ぎるほどあった。
 また、贅沢が横行する大奥の維持費は経済的にも幕閣の頭痛の種だった。それゆえ、この事件を好機として、大奥の後々の行動を抑制する為にも幕閣が必要以上に事件を大きくした可能性は充分に考えられる。実際、吉宗の代に多くはかなり緊縮された。
 となると、この事件の為に悪し様に云われる月光院の悪女度にも軽減の必要性は少なからず出て来るだろう。

 最後に「能に夢中になっての家継見殺し」だが、これは事故みたいなものである。家継の体調に気付かなかった月光院に落ち度はあったが、「過失」を「悪」とすることに薩摩守は異を唱える。
 更に云えば、将軍の体調管理は奥医師が責任者である。徳川将軍は朝起きて朝食を取る際に、整髪と健康診断が同時に行われる生活を送っていた。特に家継の場合、すべての兄弟が早世しているので、奥医師達は細心の注意を払っていた筈で、能見物させるのが危険と見られていれば月光院に注進しなかった筈はなく、故に家継の発病は突発的なものだったと推測される。
 まして家継の発病は三月。旧暦だから春の終わりで、寒さで体調を崩す季節でもない。更に逝去は四月三〇日だから、一夜の不注意が致命的なら一ヶ月以上も病床に伏す前に死去する気がする。勿論薩摩守は医学に関しては素人なので、この推測が的を得ているかどうかは怪しいが、一応真剣に推測している。
 最終的な家継の死因は急性肺炎と見られている。かつて肺炎は日本人の死因の中で五本の指に入るものだった。今でも急性は乳幼児や老人にとって恐ろしいもので、道場主の父上と妹はこれで死に掛けたことがある。
 他の病気からの併発とはいえ、最終的に肺炎のために命を落とす人間は現代の新聞やニュースの訃報にもしばしばみられる。
 以上を考えれば最大限の注意を払っていても肺炎という死の病に襲われることは充分にあり、これをもって月光院を「悪女」としては何ぼ何でも彼女が可哀想である。

 以上を考察して思うに、月光院家宣家継―吉宗の激動期に在って、大奥の最上部で若く艶やか過ぎたのが数々の「下衆の勘繰り」を生み、その餌食にされた度合いが大きいと思われる。増上寺墓地改葬時に彼女の遺骨が調査され、四肢骨から月光院は身長一四四.四センチ、当時としては目元がかなりぱっちりとしていたと推定されている。
 いつの世も、美しきものはちやほやされることと、妬まれて面白おかしく喧伝されることの狭間にいるのかも知れない。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新