第玖頁 春日局……露骨な愛憎行動

名前春日局(かすがのつぼね)
お福
生没年天正七(1579)年〜寛永二〇(1643)年九月一四日
主な立場将軍世子乳母、大奥総取締役
斎藤利三
稲葉正成
稲葉正勝、稲葉正利、他多数
悪女とされる要因側室への刃傷、主家の後継者問題への介入、大奥での辣腕振り
略歴 天正七(1579)年、斎藤利三を父に、安(稲葉一鉄の娘)を母に丹波の黒井城下館(興禅寺)で生まれた。父の斎藤利三は明智光秀の重臣で、美濃の名族でもあり、領地も与えられた存在だった。

 天正一〇(1582)年六月二日、明智光秀は織田信長に反旗を翻して本能寺にこれを攻め、利三もこれに従軍し、主要な役割を果たした(本能寺の変)。
 だが、僅か一三日で、光秀・利三山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、利三は坂本城下の近江堅田で捕らえられて処刑された。

 お福、その他の兄弟は「賊将の一族」として追われる身に落ち、各地を流浪。程なく、母方の実家である稲葉家に引取られ、更には母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。

 その後、伯父・稲葉重通(一鉄の庶長子)の養女となり、重通の娘婿で、前妻(つまり重通娘)に死なれていた稲葉正成の後妻となった。
正成は、豊臣秀吉の要請で、秀吉の妻の甥で、元養子でもあった小早川秀秋の重臣となった。
 そして正成関ヶ原の戦いにて、東西どちらに味方するか迷いまくる秀秋を平岡頼勝と共に説得して東軍に寝返らせ、東軍大勝利に貢献した。
 だが、裏切りによって小早川家に向けられた世間の目は冷たく、若き主君・秀秋は心を病み、同僚の杉原重政が上意討ちとなったのを見るに及んで、正成は小早川家から逐電した。

 その後、なかなか正成は仕官出来ず、浪人暮らしが続く最中、慶長九(1604)年に徳川家康に嫡孫・竹千代が生まれ、その乳母が募集されるとお福はこれに応じて稲葉家を出て、江戸に登った。この時、正成と離縁したと云われているが、諸説あるので、これに関しては第弐検証で後述したい。少なくとも完全に絶縁した訳ではなかった。

 数多い候補者がいる中、お福の家柄、三条西家で身に付けた公家の教養、関ヶ原の戦いにおける夫・正成の戦功、幼少時に疱瘡(天然痘)を患って快癒していたこと等が評価され、乳母に選ばれた。
 同時に次男・千熊(正勝)も竹千代の小姓に取り立てられた(正勝は、老中・相模小田原藩主へと出世した)。

 竹千代は性来病弱で、生涯に麻疹、瘧(おこり。マラリアのこと)、眼疾、脚気、中風、疱瘡、霍乱(日射病)、癰(よう。皮膚が赤く腫れて、疼痛を伴う細菌感染症)等を患い、その都度、お福は献身的に看病に務め、快癒・延命を勝ち取り続けた(特に疱瘡発病時に「薬断ち」をしたのは有名である)。
 竹千代の弟・国千代は直接母・江に育てられ、生来風邪一つ引かず、快濶で文武に優れていたため、一時は竹千代廃嫡の危機も囁かれたが、大御所・徳川家康に直訴してこれを回避した。尚、国千代の小姓にはお福の末子・稲葉正利が選らばれ、仕えていたからお福としても複雑だった。

 元和九(1623)年、竹千代が徳川家光として無事に征夷大将軍に就任にすると、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになった。
 寛永三年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万、楽、夏などの女性達を次々と奥入りさせた。

 寛永六(1629)年、家光が疱瘡を患い、その治癒祈願のため伊勢神宮に参拝。そのまま一〇月に上洛して御所への昇殿した。勿論武家・斎藤家の娘の身分のままでは昇殿出来ないので、育ての親・三条西公国の息子・三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得て同年一〇月一〇日、後水尾天皇、中宮和子(家光の妹)に拝謁した。
 このとき、従三位の位、天酌御盃、そして「春日局」の名号を賜った。つまりは昇殿に際した名号だったので、日常においてはお福、または「御局様」と呼ばれ続けた。

 寛永九(1632)年七月二〇日の再上洛した際には従二位、緋袴着用の許し、再度天酌御盃も賜わった。
 寛永一一(1634)年、息子・正勝が若くして急死。幼少の孫・正則の養育に務めた。
 寛永一二(1635)年、家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。

 寛永二〇(1643)年九月一四日に逝去、春日局享年六四歳。病に倒れたお福は、家光の疱瘡治癒祈願の際に伊勢神宮に誓った「薬断ち」を守って薬を服用せず、家光が「構わないから飲め」と云って勧めた薬湯もこっそり袖口に流して、誓いを守り続けた。
 そんなお福の死に、実母・江の死に涙を流さなかった家光が号泣したと云う。



第壱検証:「娘」として お福と父・斎藤利三との関係については何とも云えない。何分利三の死はお福が四歳のとき(数え年なので実質は三歳)のことであるからして、父の記憶が残っていたかも難しいところだ。
 ただ父の(正確には父の主君)の行動によって、一家が苦しい流浪生活を強いられても、一家がそれを恨みに思った節はなく(記録に残っていないだけかもしれないし、親権の強い時代なので異を唱えることを知らなかっただけかも知れないが)母方の一族と強く結び付いていた少女時代を考えても、「娘」としては親に忠実で、素直な少女だったと考えられる。家光の乳母になって以降の行動力はその反動かもしれないが。


第弐検証:「妻」として お福稲葉正成との仲はどうもはっきりしない。一時的な仲違いがあり、正式には離縁したのは間違いないが、何がしかの関係が終生続いたのも間違いない。
 夫婦関係が単純な「Yes or No」や「All or Nothing」で語れないのは、稲葉正成の人生にかなりの浮き沈みが見られるからである。時には本人も荒れただろうし、お福も「妻」として辛い想いもしただろう。
 正成の経歴をごく簡単に見ると、正確な年代は不詳だが、

 天正年間 稲葉重通の養子となり、重通の娘を娶る。
 文禄二(1593)年頃、妻に先立たれ、重通の養女となっていたお福と再婚。
 文禄三(1594) 年頃 豊臣秀吉の命で、小早川秀秋の重臣となる。
 慶長五(1600)年 関ヶ原の戦いで小早川軍の東軍合力に尽力。
 慶長六(1601)年頃、小早川家を出奔。
 慶長九(1604)年 お福が家光の乳母となって家を出る。
 慶長一二(1607)年 美濃十七条藩一万石の大名に取り立てられる(同時に松平忠昌の家老となった)。
 寛永元(1624)年 主君・松平忠昌の福井藩相続に伴う異動に従わず、出奔し再度浪人。
 寛永四(1624)年 家光により、下野真岡藩二万石の大名に取り立てられる。

 と、いった経歴を辿った。

 小早川家出奔後の二度の取り立てには、お福の存在が幾分なりとも影響しているのは想像に難くない。特に二度目に関しては家光の時代で、正勝が家光側近だったことも大きいだろう(大河ドラマ『春日局』では家光と正勝が乱痴気騒ぎをしていたところを正成に咎められたのを感心した家光が、半ば強引に取り立てていた)。

 つまり、正成の出世への貢献を見れば、「妻」としてのお福は立派な女性でこそあれ、決して「悪女」ではない。「妻」としてのお福を「悪女」たらしめている要因は恐らく「離縁」と関係しているだろう。
 そしてその「離縁」の理由と時期に関しては諸説ある。

お福正成の離縁時期と理由
離縁時期離縁理由
小早川家出奔後の浪人中 浪人中にも関わらず、愛人を囲っていた正成お福が激怒して、実子を連れて家を去った。
家光乳母就任時 お福が勝手に乳母に応募したことを激怒した正成が離縁した。
 お福が乳母に採用されたことを知って「女房の御蔭で出世した」といわれるのを恥じた正成が離縁状を出した。
正成大名登用時 江戸城中で権勢を増す妻に対して、自らの身分を不釣り合いと考え、お福に夫を気にせず忠勤させる為に正成が身を退いた。

 いずれが本当かは判然としないし、いずれも伝承に過ぎないかもしれない。そして伝承は伝承を呼び、お福には、「夫の浮気に怒って相手を殺した。」との説まで飛び出し、乳母就任に際しても、「落ち目の夫を見限って、自分と自分の実子だけ出世する道を選んだ。」という見方が、「正成の妻」という意味において良くないイメージを与えた。

 ただ、お福にとって、正成は夫であると同時に、愛息達の父でもあった訳で、前述の表で見ても、離縁は互いの様々な立場を慮った偽装の匂いがする。
 お福が血の繋がらない正成の子(前妻の連れ子。但し前妻はお福の従妹でもあるので、厳密には血は繋がっている)の行く末にも尽力していたので、たがいに想いは終生あったと思われる。


第参検証:「母」として これも複雑だ。同じ「母」という字が含まれる「乳母」としてなら、お福の賢母振りに疑問の余地はなく、「何故そこまで?」と思わされるぐらいである。
 お福は家光を決して甘やかさず、時にはビンタを食らわすことも辞さず、一方で両親の愛を得られない(と思い込んだ)家光が自害しようとしたのを諌め、墓参の振りをして江戸城を出ると駿府にいた大御所・家康に直訴(←下手をしたら自分の首が飛ぶ)し、家光が疱瘡に倒れたときは生涯薬、鍼、灸を使わないことを誓って、その快癒を祈り、誓いを守り続けた。
 「親子の情よりも忠義の方が大切だった時代」といえば分からなくもないが、実子に対してそこまでの行動をした記録は見られない(身分的に残っていないだけかもしれないが)。

 何せ、「家光乳母としての春日局」が強烈過ぎるので、「実母としてのお福」が目立たない。「母」としてのお福を見るのに参考になるのが、長子で家光の小姓となった正勝と、末子で忠長の小姓となった正利(この正利を産んだときの母乳が家光に与えられた)だが、目立った事績は残っていない。
 ただ、正勝とともに家光小姓として仕えた松平信綱達がお福を母の如く慕っていたと云うから、常に母性全開で生きていたのではないかと思われる。
 大河ドラマ『春日局』では、忠長(雨笠利幸)が自害した後に、正利 (中野慎)が殉死しようとして周囲の者に止められた際に、お福は「正利はまだ生きているのか!?」と怒りをあらわにするシーンがあった。心の底から正利の死を望んでいたとまでは思わないとしても、「母」の台詞としては随分ひどい台詞である。
 勿論、「忠義ある息子に育てんとした」という春日局の想いを見せたいが為のフィクション上のワンシーンだとは思うが、これが実像とは思いたくないものである。

 前述したが、お福の長男・正勝は老中職の激務が祟って早死にしている。その死はさすがに多くの文献、ドラマがお福の慟哭を語っているし、死期を悟った正勝は、忠長に連座して配流となた正利の身を案じて、その配流先を肥後・細川忠利(←稲葉家と縁あり)の元にして欲しいと懇願している。
 ただ、配流後の甘い処置に正利は増長したらしく、その増長に対してお福は自害を示唆したと伝わっている。結局正利は熊本藩の預かり人のまま生涯を終えたが、お福臨終に際して、投薬を拒む彼女を元気づけんとした家光は正利赦免を仄めかしたりしていたから、正利への想いはちゃんと存在したのだろう。
 お福が我が子に冷たい態度を取っていたとしても、それは忠義を重んじる姿勢を見せるのが目的で、本意は普通の母と同じだったと思われる。


第肆検証:「大奥総取締役」として まあいつの世でも「偉い奴」は嫌われるものである。「自分の都合で大権を振るえる」と目された人間が好かれる事は少ない(尊敬はされるが)。

 お福が大奥で権勢を振るう様になったのは、元和九(1623)年の徳川家光将軍就任時のことだが、この時はまだ上に大御代所・江がいた。
 だが江は三年後の寛永三(1626)年に没し、そこからは大奥はお福の天下となった。

 「大奥総取締役」と聞くと、漠然と想像するだけでも物凄い女帝振りを想像してしまう。何せ何千もの女性ばかりの空間に男は征夷大将軍しか訪れない。
 女の園におけるいじめは相当にえげつなく、大奥の井戸にはいつしか身投げ防止の為の金網が張られるようになったという異質な空間で、かつて楽曲房ダンエモンが姫路城で買った「大奥」と大書されたリストバンドに周囲に人間がズッコケたほど、大奥とはインパクトのある存在である(←何の話だそれは?)。

 そんな女帝・春日局がやりたい放題やった逸話が二つある。
 一つは門限に関する話である。ある日、外出から戻った春日局一行は門限時間を過ぎていたため、門番に入城を拒まれたことがあった。
 入城を強要する春日局の侍女達に、門番の若侍は「例え、御局様といえども御定法は御守頂きたい!」と云って譲らず、侍女は侍女で「御局様にその様なお決まりは関係無い!」と云い張ったが、正論が通り、春日局は後日若侍を呼び、職務熱心に対する褒美を与えたと云う。ちなみに若侍は侍女達の云うことをはったりと思っていたので、相手が本当に御局様の一行と知って後から震え上がったらしい(笑)。

 もう一つは後水尾天皇の退位問題である。
 後水尾天皇の后は家光の妹・和子で、勿論これは秀忠による政略結婚だった。幕府サイドとしては一日も早く和子の産んだ皇女を即位させたかったが、これに際して春日局が直に意見し、さほど身分も高くない彼女が出しゃばったことに怒った後水尾天皇が怒り、あて付けに譲位を強行したと云われているが、一言で云って、『ドラえもん』に登場する万能ハンサム少年…………じゃなかった、「出来過ぎ」と思っている。

 確かに、女性に興味を示さない家光に世継ぎを儲けさせるために側室を集めようとして後に家光の側室となった女性達を強引に大奥に引きずり込んだ辣腕は凄まじいものがあったが。


第伍検証:「悪女」とされる要因 殆ど前述してしまったな(苦笑)。簡単にまとめると、

 「夫に従順ならず、忠義を優先して息子達に冷たく、家光の寵愛をかさにきて徳川家の内情にも首を突っ込み、最後には大奥の権勢でやりたい放題やった。」

 と、いうのが一般に彼女に抱かれている悪しき印象ではないだろうか?
 それぞれの事柄に対しては、確かにそう云われる(或いは陰口を叩かれる)だけの要因はある。「誇張」はあるが、「事実無根」とはまでは云えないだろう。

 確かに彼女は恩讐共に感情が強い。『江〜姫たちの戦国〜』では父・斎藤利三を死に追いやった豊臣家への敵意を露骨に見せ、豊臣家滅亡の宴会で(淀殿を姉とする)江にひっぱたかれていた。
 ただ、お福の兄は、仇である豊臣秀吉の重臣加藤清正に仕えた。身内同士で争ったり、仇同士で血縁になったりすることも珍しくなかった時代、彼女がそこまで豊臣を恨んでいたとは思えないが、敵と見た者に容赦がなく、贔屓するものを続々と取り立てたのは間違いない。

 正勝を含む家光小姓達がいい例で、余りに人事的影響力が強過ぎるので、以後、大奥では乳母は黒子のように覆面をして授乳するようになったと云う説がある。将来の将軍と乳母の繋がりを深めさせず、政治への介入を防ぐためだったらしい。

 そして、老中・井上正就の嫡子の正利の縁談に春日局が介入し、正就の前約を破談に追い込んだことがあった。破談で面子を潰された豊島信満という旗本が正就を恨み、正就は江戸城内で殺害された。
 このとき、殺害を止めんとした番士の青木義精に羽交い絞めにされた信満は自分諸共青木を刺したので、三人がその場で命を落とす結果になった。
 更に信満の嫡男が連座して切腹となり、縁談相手の父・島田直時が責任を感じて自害した。勿論すべてを春日局のせいに出来るものではないが、結果として五人の人間が死に、彼女が味方した井上氏には何の御咎めも無し、と来てはその権勢、介入振りを恐れるものは多かったことだろうし、彼女を悪く見るものもそれに比例して多かったことだろう。
 この事件は江戸城内における刃傷事件の初例となったが、その背景に春日局の権勢による圧力があり、後の世、二例目の刃傷沙汰が稲葉正休による大老・堀田正俊の刺殺が被害者・加害者ともに春日局の義理の孫だったことに彼女は草葉の陰で何を想っただろう。

 些か、話が拡大したが、権勢の大きさが「悪女」としての彼女をクローズアップさせたと云えよう。増して男尊女卑の世となれば、「女だてらに…。」とやっかみを含めて快く思わない者も多かったことだろう。



弁護論 まずお福の言動が、善し悪し関係なくすべてが「徳川家光への忠義」に立脚するなら、文句のつけようはない。
 余りの忠義振りと、家光の家康への傾倒ぶりから、家光の実の両親を「徳川家康とお福」とする説を唱える者までいるぐらいだ(何ぼなんでも無理があると思うが)。

 ともあれ、彼女の悪しきイメージを弁護するキーワードは「家光への献身」の一言である。後は、素顔のお福がどんな女性であったかであろう。

 平成二五(2012)年、西本願寺で春日局の直筆の手紙が見つかった。自分の奉公人の母が西本願寺にいると知り、その奉公人のために自ら筆を執り、本願寺良如に「母親に会わせ、西本願寺で奉公させてもらえたら大変ありがたい」と頼んだものだった。
 身分から云って、奉公人のために手紙を書くことは異例で、彼女の優しさや母性が垣間見える貴重な史料とされている。

 各「検証」の背景説明で弁護にも触れているので、これ以上の蛇足的な解説は「野暮」というものだろう。「権力者・春日局」は怖い存在だが、「母性のお福」は女性として薩摩守も決して嫌いではない。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新