第拾弐頁 「悪女」が求められるときとは?

 歴史上の「悪女」、または「悪女」とされている人物を一一名取り上げ、検証してみた。検証してみて気付いたのだが、やはり「悪人」は恣意的に作られる傾向がある。  同時に女性に関しては男性とはまた違った喧伝要因があるように思われた。今後、歴史を正しく見る為にも、今現在に生きる人間を正しく見る為にも、「歴史」に置いて「悪女」が誕生する要因を紹介して本作を締めたい。
要因壱:記録の少なさ 実は「女性」に注目した拙作はこれが最初ではない。本作を制作する一年前(平成二六(2014)年五月)に『戦国長女』を制作したのが、男性に比べて記録の少なさには悲鳴を挙げた。

 本作で取り上げた女性の中にも、かなりの地位に登り詰めながら、「妻」となる前の経歴が不詳だったり、隠されている可能性の高い者もいたり、本名さえ明らかでない者も少なくなかった。

 そして「不詳」の部分とは、歴史家や、作家にとって、自らの腕を振るう格好の材料だったりもする。それゆえ、不詳部分は研究書・ドラマ・小説において作者達によって十人十色に書き立てられた。
 勿論、作者が彼女達に悪意的であれば、不詳部分ほど悪く書かれるのである。勿論好意的であればよく書かれる。
 「悪女」達の「悪」の部分には「記録の少なさ」に後世の者が好き勝手に書き殴った可能性を考慮する必要があるだろう。
 実際、この様な傾向を良しとしないにもかかわらず、薩摩守自身、書かれ様が異なるのを承知の上で、大河ドラマを初めとする様々な作品のふぃく遺書ん部分もかなり流用した。

要因弐:根強い「男尊女卑」 現代社会でも、仕事の出来る女性、男性顔負けの能力発揮する女性に対して、妬みやっかみから「女のくせに…」、「女だてらに…」と陰口を叩く情けない野郎どもは少なくない。「女のくせに…。」という台詞は、「の●太のくせに…」と同じぐらいみっともない(苦笑)。

 男女平等が叫ばれて久しい現代でさえ、まだまだこんな状態である。しかも日本の男尊女卑はイスラム社会や発展途上国に比べてこれでもまだマシなのである。
 女性が参政権を得てからまだ七〇年程しか経たず、まして江戸時代以前ではもっと男尊女卑傾向は強かったから、目立つ女性や、権勢を握った女性はそれだけで悪く見られることも少なくなかった。
 まあ、古今東西、大権力者の寵愛を得た女性が良く云われた例の方が少ないかも知れず、権力者がその美貌に勝手に惚れ込んだだけなのに、「御主君を惑わした妖婦」と叩かれる、楊貴妃の様なケースさえある。同じ「悪女」でも楊貴妃と西太后では悪質さは段違いだろう。

 誤解を恐れず云えば、確かに女性の場合、身分が卑しかったり、これといった能力が無かったりしても、権力者に見初められれば、大権を握り、贅沢な暮しを送れることがあった。これまた現代でも起こり得ることで、そうなると、「ちょっと可愛いだけで…。」という陰口は容易に叩かれる。
 逆に容貌に優れなくても、父や兄が大権力者・大金持ちであるが故に良縁に恵まれ、「ブスのくせに…。」、「性悪女のくせに…。」と陰口を叩かれることもある。実際、この傾向も男尊女卑だろう。本来なら陰口を叩かれるべきは女性ではなく、権力・財力をたてに娘を押し付ける父親で、権力・財力に目が眩んで女性よりもそちらを重んじる腹黒男である筈なのだから。

 「男尊女卑」の世の中で、女性は弱い立場におかれた故に「非」を押し付けられたケースを失念してはならない。同時に、現代でも尚「男尊女卑」は根強く残り、そのことが女性を(場合によっては男性も)正しく評価することを妨げているケースは枚挙に暇がないのだから。
 同時に、一部の「女尊男卑」や、都合のいい時だけ「女性」の立場をたてに不当に我を通そうとする女性にもご勘弁願いたいのだが(苦笑)。


要因参:「醜聞好き」と「下衆の勘繰り」 謂わば野郎共がスケベな目で女性を見て、好き勝手な想像を膨らませ、それが歴史に影響を与えたというものの見方である。

 いつの時代でも人間は「」が好きである。「」という感じは「偏」に「ぶ」と書くが、「」に人を尊ぶものが極少なのは薩摩守が説明するまでも無いだろう(苦笑)。「」という字が、「人の為」と書いていても、それこそが「偽り」であるのと同様に(苦笑)。

 本作で取り上げた女性の中でも、「美しい」ということが明記された、或いは周辺状況から容易に想像された女性は少なくない。古今東西、美しい女性はちやほやされもするが、一歩踏み外せば、「可愛さ余って憎さ百倍」的に悪し様に云われることも少なくない。
 それも「美しい」物が良くを悪くも衆目を集めるからだろう。
 同時にそれを愛でるからこそ、思い通りにならないことに対して容易に逆恨みもする。世に「悪女」とされた女性の中には、世に出た当初はちやほやされていた者が少なくない。
 そこに加えて、無責任な「」が横行する。正しい見識や調査に基づかない「下衆の勘繰り」を伴って……………。

 人間は一度自らに都合のいい様に思い込んだり、その人なりに考えに考え抜いて得た結論を抱いたりした場合には、まず反対意見に耳を傾けない(傾けている素振りは見せても意識の表面で弾いてしまい、結局は聞いていない)。
 しかも近代以前は権力のある女性でもそれらの醜聞や悪口に直接反論する機会など無きに等しかった。ましてそれが後世から好き勝手に書き立てられたものでは手も足も出なかったことだろう。

 いい例が、現代のゴシップ記事である。
 注目度の高い女性アイドル、グラビアアイドル、女優が映画・ドラマの競演を通じて少し男性有名人と仲好くなれば、半ば付き合っている、肉体関係があると決めてかかった記事を平気で書きなぐりながら、結婚後に少しでも距離感が生じると、「離婚秒読みか!?」等書き出す。
 扱う事柄が政治や思想に比べて世に与える影響が少ないためか、興味本位が強いためか、物凄く容易に変節する

 そして薩摩守自身人の事は云えない。
 出来るだけ公正・公平に見て、書き綴ったつもりだが、人選段階で「独断と偏見」が無かったと云えば嘘になるだろうし、何せ「女性」に関することなので、少しでも気を抜くと「オスがメスを見る目」になっていたことも頻発した。
 ただ、史上における女性がその様な目で見られて歪められたケースが多々あるとも思っているので、敢えて、本作では「オス」としての薩摩守、道場主を隠さなかった。薩摩守がその様な物の見方も持っていることを隠すのは卑怯と思ったからである。

 ともあれ、下品な論述に眉を潜めた歴女の皆々様にはこの場を借りて深くお詫び申し上げます

 ともあれ、厄介なのは興味本位に暴走した史観・人物評に対して、暴走した者が責任を取ることはまずない、というのが一番の問題ではないだろうか?
 芸能人が誤解受けてブログなどが炎上するときも、本人が釈明したとしてもそれだけで治まることはまずない。そして完全な誤解だったことが誰の目にも明らかになった場合でも、書き殴った者が責任を取ったケースはおろか、謝罪したケースさえ寡聞にして聞かない。

 人間が異性に興味を持つのは当たり前だが、当たり前ゆえにその観察眼に常に暴走の危機が孕まれていることを危惧して欲しい。勿論、薩摩守にも必要なことである。


総論 本作で取り上げた一一名の女性やその他の女性が「歴史」または歴史を基にした様々な作品において、程度の差こそあれ「悪女」とされたのを「彼女達が悪事を為したから。」と考えるのは簡単である。
 が、同時に早計でもある。男女に限らず、「悪人」だって善業を為すことはあり、「善人」だって悪行を為すこともある。

 そもそも歴史上にAという人物がいて、Aを「善人」という人間もいれば、「悪人」という人間も必ずいる。同一人物でも見方、見る立場を変えれば善悪は容易に逆転することは珍しい事ではない。
 特に本作で取り上げた女性達の中には「母」としての愛情が暴走したことで「悪女」とされた者も少なくない。

 それゆえ、多くの人間は「どっちでもない。」とされる。実際、それが一番「無難」且つ「一般的」な回答だろう。何故なら、どんな人間にも「良心」と「邪心」があるからである。前者だけの人間が存在しなければ、後者だけの人間も存在しない。勿論薩摩守も例外ではなく、少し前述したが、彼女達を検証する際に、「我が子を慈しむ母」、「夫に尽くす妻女」として敬意をもって見ていたときもあれば、完全に「オスがメスを見る目」で見ていたときもあった。
 かかる要因を余程徹頭徹尾、自分自身の中に見据えながら、公平・公正に見ないと正しい人物像はなかなか定められないし、一つの単語で終わらそうとする人物評など頭から信用するに値しない。

 つまるところ、多元的なものの見方と、自らの好き嫌いから来る独断・偏見傾向を承知の上で、検証の余地を残した人物評が、現時点で最も妥当な人物評になるのかも知れない。
 人間は好き嫌いや思想傾向があって当たり前なので、薩摩守は、自分と異なる価値観や史観を持つ作家・研究家が書いたものでも、好き嫌いや立場を明示し、鵜呑みにしないことを前置きした上で自説を読むことを勧めたものであれば読んでみようと思うが、従来の説を頭から「全部嘘」と決めてかかって論述するものは、自分と同じ価値観・史観を持つ物でも読む気が失せてしまう。
 同時に、善であれ、悪であれ、その個々人の根底にある真剣な想いだけは好き嫌いに関係なくしっかり注目していきたいものである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新