第参頁 北条政子……夫婦喧嘩に他人を巻き込むな!!

名前北条政子(ほうじょうまさこ)
不明
生没年保元二(1157)年〜嘉禄元(1225)年七月一一日
主な立場第四一代天皇
将軍御代所
源頼朝
源頼家、源実朝、大姫、三幡
悪女とされる要因夫浮気時の過剰な報復、息子・孫への薄情さ、強権発動
略歴 鎌倉幕府創設者・源頼朝の妻である。何ですと?薩摩守が頼朝を異常に嫌っているから、その妻・北条政子も加えたのではないか、と?
 否定はしません。薩摩守が北条政子を「悪女」と見るには、頼朝の悪行に毒せられた面もあると思っていますので。

 保元の乱が起きた翌年である保元二(1157)年、伊豆国の豪族、北条時政の長女に生まれた。
 北条家の氏は平氏で、時政平治の乱で敗れて伊豆に流されて来た源頼朝の監視役を担っていた。
 政子は父の立場を知ってか知らずか、頼朝と恋仲になってしまった。大番役の務めを終えて京の都から帰ってきて娘と頼朝の仲を知った時政は激怒するとともに、一族の身を案じた。
 何せ、頼朝は罪人で、娘を頼朝に嫁がせることは平家本家から睨まれることになりかねない。実際、政子の前に頼朝と恋仲になった伊東祐親の娘は頼朝の子を産んだが、その子は祐親の手で殺されている…………(つまり、祐親は御家の為に、孫を殺したのである)。
 時政は平家本家に睨まれない為にも、政子を伊豆の代官・山木兼隆に嫁がせることにし、政子はそれを了承したかに見せかけたが、すぐに頼朝の下に逃げた(笑)。

 やがて、時政頼朝を支援する腹を決め、治承四(1180)年、頼朝は挙兵し、まずは前述の山木兼隆が血祭りにあげられた。
 その後、政子は伊豆山にて夫・頼朝、父・時政、弟・義時の身を案じる日々を送っていたが、富士川の戦い後に源義経と再会した頼朝は、平氏追討を弟達に任せて、自信は鎌倉にて東国の地固めを行うことに決め、帰って来た。
 政子も鎌倉に移り住み、このときから、頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれ、その夫人である政子は「御台所」と呼ばれるようになった。

 対平家との戦いが続く中、夫共に鎌倉にいて、子宝にも恵まれた政子は、頼朝が東国経営を進める傍らで、参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席したりした。

 そして、元暦二(1185)年、遂に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。その後、頼朝は義経と不和となり、自らに逆らう身内(義経・行家)や奥州藤原氏との戦いが続いた。
 政子が次男・千幡(実朝)を出産した建久三(1192)年、頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、建久六(1195)年には夫婦で上洛した(娘・大姫の後鳥羽天皇への入内を協議する為)。
 だが、建久八(1197)年大姫は夭折。二年後の建久一〇(1199)年一月一三日、夫の頼朝がこの世を去った。
 家督は長男の頼家が家督を継ぎ、政子は落飾し、「尼御台」と呼ばれるようになった。

 だが、政子の悲劇は終わらなかった。
 頼朝の死から半年も経たない同年六月に、次女・三幡が一四歳で死去。
 新将軍となった頼家は御家人達と対立。結果、息子(頼家)と父(時政)との対立に発展した。そしてその頼家が建仁三(1203)年に重病に伏し、危篤となった。
 政子時政は一幡(頼家長男)と実朝で日本を分割することを決めた。母と祖父の専横を怒った頼家は、妻の父である比企能員(ひきよしかず)に北条氏討伐を命じんとしたが、逆に比企氏は時政の先制攻撃で滅ぼされ、そのどさくさで孫・一幡まで殺された(比企能員の変)。

 程なく、奇跡的に危篤状態から回復した頼家は、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒。討伐を命じても御家人が従わないので、頼家は自ら時政を殺さんとしたが、政子は側近に命じて頼家を取り押さえさせ、彼は強制出家させて伊豆の修善寺に幽閉させた(後に頼家時政の手の者に暗殺された)。
 頼家が退位したことで、もう一人の息子・実朝が征夷大将軍となり、時政が初代執権に就任した。
 ところが、その時政が後妻・牧の方の色香に迷い、実朝を退位させて、牧の方の女婿・平賀朝雅を新将軍に擁立しようと画策した。激怒した政子は、頼家を強制隠居させたのと同じ方法で時政を強制隠居させ、出家させて伊豆へ追放した。

 新将軍となった実朝は、教養に富んだ文人肌な性格で、朝廷・公家との良好な関係に務めたが、武士達には面白くない話だった。
 実朝の官位は次々に昇進し、北条義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれることを懸念し、朝廷と接近し過ぎない様に諫言したが、子が無く、政治的実権も持てず、朝廷との交流を生きがいと考える実朝は諫言に従わなかった。
 そして、建保七(1219)年、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は、彼を「父の仇」と思い込んでいた甥(つまり政子の孫である)公暁に斬り殺された。

 最後の子・実朝の横死を嘆き悲しんだ政子は、実朝の葬儀を終えると、「鎌倉殿の代行」として使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。
 上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否。最終的には摂関家から三寅(藤原頼経)が迎えられることとなったが、三寅は二歳の幼児で、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになった。
 後の世、北条政子が「尼将軍」の名で有名になったのは、このことが由来となっていた。

 そして承久三(1221)年、幕府を嫌い、これを倒さんとした後鳥羽上皇が挙兵(承久の変)。上皇は北条義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下し、御家人達は、「朝敵」となることを恐れて動揺した。  そのとき、政子「いざ、鎌倉」と駆け付けた御家人達を前に「最期の詞(ことば)」として、

 「故右大将頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い。
 逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。
 秀康、胤義
(←上皇の近臣)を討って、三代将軍実朝の遺跡を全うせよ。
 但し、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい。」


 と云う有名な演説を敢行。
 御家人達は涙して幕府を守る為に戦うことを誓い、京に向けて一九万騎という大軍が進軍した。
 これには後鳥羽上皇もひとたまりも無く、義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏。蘭は終結し、後鳥羽上皇は隠岐島へ流された。

 戦後、政子義時とともに戦後処理も従事。貞応三(1224)年に義時が急死すると、その後継者争い(伊賀氏の変)を未然に防ぎ、義時長男の北条泰時を第三代執権に据えた。
 翌嘉禄元(1225)年七月一一日、病の床についた政子は逝去した。北条政子享年六九歳。神奈川県鎌倉市の寿福寺に実朝の胴墓の隣に葬られた。


第壱検証:「娘」として そもそも、北条政子の、「政子」の名は、彼女が建保六(1218)年に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであった(それ以前の名前はいくら調べても出て来ませんでした……何て呼ばれていたのだろう?)。

 ともあれ、政子時政の関係は単純ではない。二人は父娘として協力もしたが、対立もした。
 源頼朝との恋仲を時政が反対したのは有名だが、父親として、一族の頭領として無理もないことと思う。相手は天下を収めている平家に睨まれている罪人で、自分はその監視役なのだから、娘が当の罪人と恋仲なんて、平家に詰問されたら云い訳が効かない。現代社会にあてはめるなら、刑務官をやっていて、自分の娘が罪人と恋仲になったらどう思うか?更にその罪人が国家権力の中枢から睨まれている様な人物だったら?
 逆の云い方をすれば、それを承知の上で、父の決めた婚約に従う振りをしてそれをブッチして頼朝の妻となった政子は父の心を、一族の立場よりも自分の愛情を優先するエゴイストなのだろうか?

 断言は出来ないが、結果としてこの後北条時政は一族を挙げて頼朝に随身したのだから、もしかしたら政子は娘として、父の野心家振りや、行動力を把握していたのかも知れない。
 実際、いざ頼朝に協力するとなると時政は一族ともども、とことん頼朝に随身した。石橋山の戦いでは政子の長兄・北条宗時が討死し、頼朝が戦地を脱出して安房に逃れた際も、時政義時は行動を共にしており、政子は伊豆山にて夫、父、弟の武運を祈るしか出来なかった。

 だが、政子時政頼朝死後に複雑な父娘関係を再度見せ始めた。
 第二代将軍となった政子の長男・源頼家は将軍親政を志し、まだ若い彼を認めない合議制と対立した。合議制は時政を筆頭とする一三人の有力御家人によるもので、政治的なこの対立において政子は父に味方した。まあ、頼家の若さを考えれば分からなくもない。
 だが、建仁三(1203)年、頼家が病で危篤となると、政子時政とともに日本を一幡と実朝で分割すること協議。これを知った比企能員(頼家岳父)は病床の頼家に北条氏の専断である、と密訴し、怒った頼家は北条氏討伐を命じた。
 これを障子越しに立ち聞き(座り聞き?)した政子は、これを時政に知らせ、先手を打たせて比企氏を滅亡に追いやった。

 危篤から回復した頼家は、岳父と息子・一幡の死を知って激怒し、時政を殺さんとしたが、このときも政子時政に味方し、側近達に頼家を取り押さえさせ、強制出家・伊豆修善寺への幽閉を敢行した。
 父と息子の対立に政子がどう想っていたかは容易に推測出来ないが、どうやら時政には孫・頼家、曾孫・一幡を死に追いやり、もう一人の孫・実朝を蔑ろにすることに罪悪感は欠片も無かった様である。

 初代執権に就任した時政は、後妻(つまり政子にとっては継母)の牧の方と組んで政権を独占しようと図った。
 三代将軍には源実朝が就任したが、元久二(1205)年に時政と牧の方は実朝を廃して、二人の間に生まれた長女の婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に擁立しようと画策。政子時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻し、義時と組んでこの陰謀を阻止。頼家にしたのと同じ方法で時政を出家させて伊豆へ追放した(牧の方も伊豆に生涯幽閉され、平賀朝雅は殺された)。

 婚姻と、政治問題で二度、父に刃向かい、幽閉までした北条政子だが、最終的な父娘対立においては、薩摩守は時政の非の方が大きいと見ている。
 いくら当初は結婚に反対したとはいえ、その後徹底的な随身で頼朝側近として出世した人間でありながら、時政はその子・孫(自分にとっての孫・曾孫でもある)を手に掛け、後妻の色香に迷って、幕府に尽くした娘(政子)・息子(義時)よりも、後妻との間に生まれた娘婿を将軍に付けようとしたのだから、政子義時が怒ったのも無理は無い。
 そして晩年のこの愚挙が祟ってか、北条時政は幕府史上においては「初代執権」と認められながら、北条家においては初代と認められず、祭祀からも外されている。良くも悪くもとんだ父を持ったものであった。


第弐検証:「妻」として 異常な嫉妬深さが北条政子を「悪女」たらしめている要因は非常に大きい。
 嫉妬深さでは内の道場主も人後に落ちな………あわわわわわわわわ……(←道場主の怒りの視線に気付いた)……コホン、つまり嫉妬深いだけならまだ気持ち的に分からなくは無いのだが、北条政子の場合は必ず報復し、他者を巻き込むと云う意味において夫・頼朝共々性質が悪過ぎる!!

 実例を挙げたい。
 養和二(1182)年初め、政子は身籠り、八月に男子(頼家)を出産した。その政子の妊娠中、頼朝は浮気に走った。
 まあ、「浮気」と云うのは適切ではないかも知れない。当時は一夫多妻で、政子の父・時政も何人も妻を娶っていたし、頼朝の父・義朝も数多くの妻がいた。まして妻が身重でやりたいことやれないときに、側室(?)に情が移ったとしても感情的には全くおかしくない。だが政子はこれを許さなかった。

 頼朝に寵愛されたのは亀の前と云う女性で、頼朝は彼女を伏見広綱邸に隠す様にして寵愛した。
 政子頼朝の間に浮気禁止の約定があったかどうかは定かではないが、政子の嫉妬を恐れていたのは間違いない。
 だが、時政の後妻・牧の方がこれを政子に知らせた(←牧の方も大概な女やな……)。当然、政子は激怒した。

 同年一一月、政子は、牧の方の父・牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。(←亀の前に罪は無い)

 頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻 (もとどり)を切り落とすと云う恥辱を与えた。(←否、命じたのは政子やし、そもそも浮気したのはお前やから………)

 そして怒りの収まらない政子は伏見広綱を遠江国へ流罪にさせた

 正直、亀の前がここまでされなければならない謂われが無い上に、伏見広綱に至っては頼朝の頼みを聞いただけで、家を壊された上に、流罪にまでされているのである………………頼朝政子夫婦に云ってやりたい………夫婦喧嘩するなら、自分達だけでやれやぁ!!!

 とかく、政子の嫉妬深さは異常である。そしてそれを承知の上で半ば隠れるようにその後も浮気を続けた頼朝も懲りない男である。
 政子の父・時政にしてか複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませていた。まして「源氏の棟梁」であった頼朝にとって、多くの妻妾を持ち、一人でも多くの子を残すのは義務とさえ云えた。
 だが、そんな慣例や時代の常識を無視して政子は夫が他の女性に触れるのを許さなかった。
 許さないだけならまだいいが、過剰報復を辞さない政子の嫉妬振りは周囲を震え上がらせた。
 頼朝が寿永元(1182)年七月に、新田義重の娘・祥寿姫(兄・源義平の未亡人でもあった)を妻に迎えようとしたとき、父である義重が、政子の怒りを恐れて、慌てて娘を他家に嫁がせたと云う。政子による亀の前邸襲撃はその四ヶ月後であった。

 かかるまでの嫉妬深さの原因として、政子が「伊豆の小土豪の娘」という自らの出自に対して、「源氏棟梁の正室」として安心出来ない出自と考えていたためとの論もある。

 ただ、夫・頼朝と関係しない分においては、北条政子と云う女性は「妻」の気持ちが分かる女性だった。  有名な話として、静御前にまつわるエピソードがある。
 文治二(1186)年、頼朝と対立した源義経の愛妾・静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られて来た。政子は白拍子の名手である静御前に舞を所望し、静御前も渋々応じた。
 そして鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露した際に、頼朝の目の前で義経を慕う歌を詠い、これに頼朝が激怒した。自分が「謀反人」として行方を追っている義経を称えるのが気に食わなかったのである(←さすがは道場主が忌み嫌う程の狭量漢だ……)。
 だがこれを政子が庇った。
 単に同じ女性として同情しただけではなく、流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を例に出し、

 「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経殿の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません!」

 ととりなした。
 衆人環視の中、ここまで政子に云われては、頼朝も(内心はともかく)怒りを鎮めて静御前に褒美を与えた。

 これには静御前も政子に感謝し、当時心に大きな傷を負っていた政子の長女・大姫 (詳細後述)を慰めるために南御堂に参詣し、政子大姫のために南御堂に舞を納めた。
 ただ、一見夫に対して文句を云わさない様に見えた政子にも庇い切れないことはあった。それは静御前のお腹にいた義経の子のことだった。
 頼朝は、静御前の腹の子が、「女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺す。」と告げていた。そして生まれた子は男で、政子はその子の助命を頼朝に願ったが許されず、子は由比ヶ浜に沈められた………………。
 政子大姫は静御前を憐れみ、京へ帰る彼女と彼女の母・磯禅師に多くの贈り物を渡したと云う。

 だが、呆れたことに、こんなことがありながらもこの夫婦、阿呆な嫉妬合戦をその後も繰り広げた。
 建久三(1192)年、政子は男子(実朝)を生んだ。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられており、正に源氏絶頂の時だったのだが、この時も政子妊娠中に頼朝は大進局という妾のもとへ通っていた。
 大進局は頼朝の男子を産んだが、政子の嫉妬を憚って出産の儀式は省略され、母子は身を隠した。何せ政子を恐れて乳母のなり手がなかったと云うのだから、周囲に認識されていた政子の嫉妬振りは尋常ではない。
 結局、その子は人目を憚るようにして育てられ、七歳で出家させるために京の仁和寺へ送られたのだが、出発の日に頼朝は密かに会いに来た。子供が可愛いならちゃんと安全な環境ぐらい整えてやれよな…………(←薩摩守は頼朝が嫌いだが、彼が子煩悩な人間であることは認めている)

 ちなみに、政子の嫉妬振りが異常な一方で、頼朝も相当なやきもち焼きであったことを紹介しておこう。
 富士の巻狩りにて、有名な「曾我兄弟の仇討ち」が行われた際、鎌倉には頼朝が殺されたとの流言があった。頼朝の身を案じて動揺する政子を励まさんとして、頼朝の弟・範頼が、「源氏には私がおりますから御安心下さい」と政子に云ったのだが、鎌倉に帰った頼朝がその言葉を聞くや、彼特有の強烈な猜疑心にかられた。
 その猜疑心対象は、「源氏の棟梁の地位を奪われることを疑った。」とも云われ、「妻・政子を奪われることを疑った。」とも云われ、「その両方を奪われることを疑った。」とも云われている。
 いずれにせよ、範頼はこの一言のために伊豆に幽閉され、殺された……。正に様々な意味で「似た者夫婦」だよ、この二人は(←勿論呆れている)。

 ただ、これ程の嫉妬を抱くまで政子頼朝を愛していたのは間違いあるまい。
 頼朝の死に際して、『承久記』によれば、政子は、

 「大姫頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」

 と述懐したと記されている。
 想いが強過ぎ、無駄に行動力があったのが万人の悲劇だったと云えようか?


第参検証:「母」として これは複雑だ………史実だけを書いてしまうと、北条政子頼家実朝と云う二人の息子を間接的に死に追いやり、孫の一幡・公暁もその渦中に幼い命を落とすこととなった………。
 「実家を重んじて、今夏を蔑ろにした悪女。」と揶揄される元になっている訳だが、では、政子に子供を可愛がり、その死を悲しむ心が無かったのか?と云うとそんなことは無い。

 北条政子には二男二女がいて、不幸にして全員に先立たれた。少し、「母」としての彼女の事績を見てみよう。
 最初の子は長女・大姫で、出産の直前に政子頼朝との婚姻を時政に認められた。
 その大姫は寿永二(1183)年、源義高と婚約した。義高は源義仲の嫡男で、頼朝と義仲は従兄弟同士でありながら、旧敵でもあった(頼朝の兄・義平が、義仲の父・義賢を殺している)。
 そんな両者の和睦の証として為された婚姻だったが、立場は頼朝の方が上で、義高は「大姫の婿」という名目の人質として鎌倉へ下った。
 時に義高は一一歳、大姫は六歳だったが、幼いながらも大姫は義高を慕った(←この辺り、想いの強いところは政子に似ている)。
 だが、翌元暦元(1184)年には、頼朝は後白河法皇から義仲追討の院宣を受け、弟の範頼、義経に義仲を討たせた。のみならず、禍根を断つべく義高の殺害も決め、これを侍女達から聞いた大姫は義高を鎌倉から脱出させた。
 だが義高は堀親家の部下、藤内光澄に捕えられて殺され、愛する婚約者の死と父の裏切りを深く悲しんだ大姫は病床に伏した。
 この事態に政子は憤り、「親家の郎党の不始末のせいだ!」と頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしていた(←おいっ!藤内に罪は無いだろっ!!)。
 だが大姫の病んだ心は戻らず、政子は娘の快癒を願ってしばしば寺社に参詣したが、大姫が立ち直ることはなかった。

 とはいえ、頼朝政子も、その後も大姫の悲しみを何とか癒そうとはした。建久五(1194)年、政子大姫に、頼朝の甥にあたる一条高能との縁談を勧めたが、義高を慕う大姫は頑なに拒否。政子大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。
 ついで建久六(1195)年には、大姫の後鳥羽天皇への入内を協議せんとして、政子頼朝と共に上洛までした。
 この話は、政治的意義の大きさからも、頼朝の方が強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、娘の悲しみは癒えず、大姫は重病の床についた。
 政子頼朝は必死に加持祈祷をさせたが、建久八(1197)年、大姫は享年二〇歳で逝去。『承久記』によれば、政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が「母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いから」と諌めたと云う。


 二人目は養和二(1182)年に産んだ頼家である。二度目の妊娠中、頼朝は浮気に精を出し・………あ、これは前の項目だった……政子の安産祈願として、平氏方の豪族で捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。
 祐親はかつて(頼朝政子と恋仲になる前)に娘・八重姫と頼朝の間に生まれた孫を、平氏の怒りを憚って殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き裂いたことがあった。また、政子にとっても、石橋山の戦いで長兄・宗時が祐親軍に討たれたという苦い記憶があった。
 夫婦ともに過去に想うところがあったのかも知れないが、二人は恩赦を命じた。だが、過去の所業と赦免を恥じた祐親は自害した。

 かくして生まれた頼家頼朝は甘やかしたが、政子はそうでもなかった。  そのことに関しては、「頼家が初めて鹿を射たときの話」が有名だろう。
 建久四(1193)年、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催し、頼家が鹿を射ると大喜びして、わざわざ使者を立てて政子へ知らせたが、政子は、
 「武家の跡取りが鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」
 と使者を追い返した。(←この使者も可哀想やな……本当に何とかしてくれ、この夫婦……)
 ただこのエピソードに関しては、頼家の鹿狩りが、神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせるデモンストレーションでもあり、頼朝の狂喜と、政子への音信もその一環だったとの論もある。いずれにせよ、政子には通じなかった訳だが。

 しかし、頼朝死後、この長男は政子の頭痛の種となった。
 前述した様に、頼家は政治を巡って、父・時政を初めとする御家人達と対立したからである。頼家が全くの馬鹿息子なら逆に時政が上手くコントロールしたのだろうけれど、頼家には梶原景時や比企能員を引き込む行動力と、自分が政権を握らずにはおれないという我を通す意志力が有り余っていた(←さすがは頼朝政子の子である)
 そんな中、頼家が安達景盛の愛妾を奪うという不祥事が起きた(←さすがは頼朝の……………何?いい加減しつこいって?ごもっとも………)。
 景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとし、それを知った政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて、

 「景盛を討つならば、まず私に矢を射ろ」

 と申し送った。
 一方で、政子は景盛を宥めて、謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。
 このときの政子の、母としての言動は全くの正論に則ったものであった。自らの妻としての嫉妬振りが無ければもっと説得力があっただろうに(笑)。

 だが、頼家は母に従いつつも、素行は改まらず、遊興、特に蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かず、訴訟での失政も続き、御家人の不満が高まっていた。
 前述しているので省略するが、この後、政子頼家が重病に伏したのを機に、時政に協力して比企一族を滅ぼした(比企討伐は政子の名で行われた)。
 更に病の癒えた頼家が、病中に殺された岳父と息子・一幡の仇を取らんとして時政を殺そうとしたときにも時政に味方して、頼家は修禅寺に幽閉されることになった。
 後に頼家時政の手の者に殺されたが、さすがに政子がこれに関与したとは思わない。ただ、一幡が殺された時点で時政が孫や曾孫でも平気で殺す人間であることは推測出来た筈なので、頼家の安全を「母」として政子が真剣に考えていたかは疑問である。


 政子が三人目の子を産んだのは、平家滅亡の翌年となる文治二(1186)年で、産んだのは次女・三幡(さんまん)だった。姉・大姫が夭折したのを受けて、後鳥羽上皇の后候補となったが、建久一〇(1199)年一月一三日の頼朝逝去から二ヶ月も経たない三月五日に三幡は重病に陥った。
 慌てた政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せた
 だが、名医の処方した薬で一時保ち直したように見えた様に見えた三幡だったが、容態が急変により、六月三〇日に一四歳で死去した。
 短命に終わり、大姫の陰に隠れたので、影の薄い人生だが、彼女の病を治さんとして、後鳥羽上皇に名医派遣の院宣まで出させた北条政子行動力母性は、純粋に人として尊敬する


政子が最後に子を産んだのは建久三(1192)年、で次男・千幡(勿論源実朝)であった。
 頼家強制隠居後に三代将軍となった際に、政子は政権独占を狙う父・時政実朝をも邪魔者としているのを察知し、彼を時政邸から連れ出し、後妻の色香に迷った父を強制隠居・強制出家させて守った。
 だが将軍に就任した実朝は、人として大人しい様に見えて朝廷・公家との交流を重んじ、御家人達の評判は芳しくなかった。
 このことが妙な政権争いを呼ぶことを懸念した政子頼家の遺児達を仏門に入れたが、その一人である公暁に実朝が殺されたのは大いなる歴史の皮肉だった。
 一方で、建保六(1218)年には病気がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子と会談を重ねた。『愚管抄』(ぐかんしょう)によれば、このとき既に政子は、病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を貰い受けることを相談してたと云う。
 だが、建保七(1219)年、その実朝も公暁に殺され、これに前後して、公暁を含む頼家の遺児達も全員が非業の最期を遂げ、政子の血を引く者達は全滅した。
 『承久記』によると、政子実朝の死を深く嘆き、

 「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」

 と述懐したと云う。

 「母」としての北条政子を、歴史的に有名な事件を基に上っ面だけで見ると、「息子に厳しく、娘に優しい母」と見えてしまう。
 特に、息子・頼家と父・時政の対立において、時政の味方に就いたのは、間違った判断とは思えないが、結果的に頼家を死に追いやったことで、彼女の重大なマイナスイメージとなっている。

 ただ、薩摩守は政子頼家を愛していなかったとは見ていない。「武家の棟梁」に育てる為、失政や遊興癖、更には痴情のトラブルに関して、厳しく接したのは正しい行動だったし、時政頼家を殺したのは彼女の預かり知らないところだったのだろう。
 逆に父によって、子を殺されたことに愕然としたからこそ、実朝を救出し、頼家の遺児達を寺に匿い、時政に対しても、頼家に行ったのと同じ仕打ちを施したのだろう。

 「母」としての政子が息子や娘を失った際の嘆きぶりは前述した。頼家に対しても、伊豆修善寺に指月殿(しげつでん)という供養堂を建立している(指月殿は伊豆最古の木造建築物である)。『承久記』には、

 「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」

 との述懐が記されている。


第肆検証:「悪女」とされる要因 想いが強過ぎたことと、「悪い父」を持ったことだろう。
 サブタイトルにも書いたが、北条政子源頼朝の浮気(?)を許さず、その報復が過剰を極めたことと、子や孫を間接的とはいえ、死に追いやったことが彼女を「悪女」と云うか、「鬼女」たらしめている。

 加えて、無駄に行動力があるから、チョット関わっただけの人間が何人も理不尽にひどい目に遭っている。
 浮気騒動では、伏見広綱が家を壊され、流罪にまでなったが、彼は頼朝の指示に従っただけで、しかも当時妻妾を持つことは違法でも不義でも無かった。当然、伏見の家族も堪ったものではなかっただろうから、大進局が頼朝の子を産んだ際に、誰も乳母になりたがらなかったのも無理は無い。
 本来なら、これらのとばっちりに対しては頼朝が責任を取るべきなのだが、義高殺害に際しても、命令に従っただけの藤内光澄が政子の圧力を受けた頼朝に殺されている始末だから、話にならない。

 犯罪でもそうだが、重大な怨恨による殺人・傷害や、生活に困っての窃盗・強盗にはまだ情状酌量の余地があるが、無関係な他人を巻き込む通り魔的殺人、無差別テロは甚大な非難に値する。しかもこの夫婦の為したことには誰も文句が云えないから余計に性質が悪い

 更には、父・時政によって、子・頼家が殺されたことも大きい。これが無いだけで政子のダークイメージはかなり軽減されただろう。ついでを云えば、彼女にとって、可愛い初孫であった筈の一幡が比企能員の変で殺されたのも、比企邸への過剰な攻撃で比企一族が館に火を放ったのに巻き込まれたから、と『吾妻鏡』は記している。もっとも、『愚管抄』では一幡は母に連れられて館を脱出したにもかかわらず、北条義時の手勢に刺殺されたと記されているのだが。

 結果論だけで物事を語るのはナンセンスなのだが、実家である北条家の手で、子や孫が死に至らしめられたとあっては、政子が呂后みたいに見られるのも無理も無い話である。



弁護論 少し前項と被るが、「悪い父」・北条時政を持ったことが大きい。
 また、夫・源頼朝も、決して妻の云いなりになるだけの男では無いにもかかわらず、しょーもないところで政子や他の妻妾の前でいい顔しようとするから、セコイ行動や、苛烈な懲罰に走った。

 少なくとも平安末期から、鎌倉初期における関東地方での醜い争いを政子だけのせいにするのは著しく不当で、特に時政頼朝の横暴に巻き込まれた点を見落としてはならないだろう。

 また、政子の暴走には、良く悪くも「女」としての性(さが)が強い面が見られる。二人の娘の病気に際してあらん限りの加持祈祷を行ったこともそうだが、静御前に対する同情や、その子供の助命を必死に願った姿には、「同じ女性」だからこそ、ここまで強い想いが発揮された様に思われる。勿論それが悪い面に出ると、「源頼朝」と云う同じ男を巡る相手への尋常ならざる攻撃となったのだろうけれど。

 北条政子への最後の弁護の前段階として、史書によって彼女の扱いが異なることを挙げたい。
 鎌倉時代を調べる際に参考とされる史書は『吾妻鏡』『愚管抄』『承久記』が挙げられるが、編纂者の立場が異なり過ぎ、間違っても鵜呑みには出来ない
 『吾妻鏡』政子を、「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と称賛しているが、この書は北条得宗家を顕彰するもろプロパガンダ史書である。
 勿論、史書は多かれ少なかれ、編者や後援組織の主観が入ったり、都合の悪いことは伏せられたりするものだが、『吾妻鏡』にはそれらの傾向が特にひどく、源氏の子孫として、これを愛読書にしていた徳川家康でさえ、記述におかしいと思うところがあり、江戸時代には既に鵜呑みに出来ないと公言されていた。
 当然、頼家暗殺に関しても「北条時政に殺された」等と間違っても書かれず、「死んだとの方あり。」と記されるのみである。

 一方、政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した『愚管抄』は天台宗の僧侶・慈円が著した史書で、自らの過程の不都合さも隠さないゆえ、『吾妻鏡』よりも余程信用出来、『吾妻鏡』が伏せている点(例:頼家の最期)も詳細に記している。
 但し、この書は明らかに修正が後から加えられており、頼朝の政治を褒めつつ、北条家に辛口になっている一貫性からも鵜呑みは危険だろう。

 前述した政子の、「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」の台詞を記した『承久記』は後鳥羽上皇の王政復古の願望に批判的で、北条義時に好意的な内容であることを注意する必要がある。

 歴史が下ると、江戸時代になると儒学の影響が現れ出し、『大日本史』や新井白石、頼山陽は政子頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、婚家が滅ぼし、実家に取って代わらせたことを婦道不覚悟として批判している。

 これら様々な史観を総合的に見ると、政子への弁護に最後にやって来るのは、「彼女が背負わされたものの重さ」と云えるかもしれない。
 好意的に見ても、悪意的に見ても、北条政子が、情、行動力が強く、夫並びに夫が残した鎌倉幕府を守ることに人生を捧げた女性であることは衆人の一致するところだろう。
 政子は貞応四(1225)年に世を去っているが、その前年に弟・義時が急死した際も、義時後室の伊賀の方が、実子の北条政村の執権に擁立せんとして三浦義村と結ぼうとしたときも、自ら義村の邸を訪ねて、義時嫡男の泰時が後継者となるべき理を説いて、無用の争いを未然に防いだ。
 更には、泰時の、義時の遺領配分相談に乗り、泰時が弟達のために自分への配分が格段に少ない案を提示したことに感心したと云う。
 かように、死ぬ直前まで政子は幕府のために尽くした。それゆえ彼女は、形こそ違えど時に父と、時に夫と、時に息子と、時に孫と鬼になって戦わざるを得ず、自らが加減を知らない奴らばかりだったことが無駄な犠牲を生んでしまった面もあると云えよう。

 少なくとも、自らの政治活動で犠牲になった者達への罪悪感や供養の念はあったと思う。亡霊武者の夢を見て、夢を見た日付から、「(奥州)藤原秀衡の祟りでは……?」と怯えていたぐらいだから(ちなみにこの夢は、秀衡では無く泰衡の命日に見ているので、実際には頼朝が助命の約束を反故にして攻めた泰衡の霊ではないかと思われる)。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新