第肆頁 日野富子……守銭奴にならざるを得なかった妻にして母

名前日野富子(ひのとみこ)
同上
生没年永享一二(1440)年〜明応五(1496)年五月二〇日
主な立場将軍御代所
日野重政
足利義政
足利義尚
悪女とされる要因応仁の乱の原因を作った、守銭奴
略歴 永享一二(1440)年、蔵人右少弁・贈内大臣日野重政(ひのしげまさ)を父に、北小路苗子を母に山城に誕生。

 日野家は、足利将軍家と累代の縁戚関係を持ち、後に夫になった足利義政の母・日野重子は富子の大叔母にあたる人物だった。
 康正元(1455)年八月二七日に一六歳で義政の正室となり、四年後の長禄三(1459)年一月九日に第一子が生まれたが、不幸にしてその子はその日の内に息を引き取った。
 それを義政は乳母・今参局(いままいりのつぼね)が呪ったせいだと激怒して、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、他の側室四人も追放した。

 義政富子の間には、二人の女の子が生まれたが、男子が出来ず、寛正五(1464)年、義政は仏門に入っていた弟・義尋を還俗させ(足利義視と改名)、将軍後継者とした。
 しかし翌寛正六(1465)年、富子は待望の男児・義尚を出産。夫・義政は義視には、「男児が生まれたらすぐに僧籍に入れる。」と約束していたが、富子にそんな約束は通じなかったし、義政も「何があっても約束を守る!」と云う様な硬骨漢では無かった(苦笑)。

 義視の後見に細川勝元がついていたので、富子義尚の後見に山名宗全を付け、実家・日野家も味方につけて義視と対立した。義尚VS義視に、勝元VS宗全、更には斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。

 富子は戦いの全時期を通じて、何故か義視後見人であった筈の細川勝元を総大将とする東軍側にいた。一応、建前は「勝元VS宗全」の戦いだったので、戦そのものには義政富子もだんまりだった(←無責任な奴等め)。
 それどころか、富子は東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして莫大な利益を挙げた(現在の価値にして六〇億円に匹敵したらしい)。

 戦が始まって七年目の文明五(1473)年、両軍の総大将であった宗全と勝元が相次いで死去。義政は隠居して九歳の義尚が元服するとともに第九代征夷大将軍に就任した。
 兄・日野勝光が新将軍代となり、元々政治に無関心かつ無責任だった義政は文明七(1475)年に小河御所(現:京都市上京区堀川)を建設して一人で移った。
 翌文明八(1476)年、兄・勝光が世を去り、富子が実質的な幕府の指導者となった。

 同年一一月、室町亭が火災で焼失したことで、富子義政が住む小河御所へ移ったが、文明一三(1481)年に義政は長谷聖護院の山荘に移り、再度別居状態となった。
 この間、一一年に渡って泥沼化していた応仁の乱は文明九(1477)年西軍の退却でようやく終結した。

 文明一二(1480)年、富子が以前から金儲けの手段にしていた京都七口関所が、激高した民衆による徳政一揆で破壊された。
 蓄財手段を奪われて激怒した富子は即座にこれを弾圧。一揆後、直ちに関所の再設置に取りかかったため、民衆だけでなく公家にまで嫌われた。
 そんな母に息子の義尚までが嫌気を差して伊勢貞宗邸に移転。追い打ちを掛ける様に、延徳元(1489)年、六角高頼討伐に遠征していた義尚が二五歳の若さで陣没した。
 息子の夭折に意気消沈した富子は、義尚の将軍後継者に足利義視の子・義材(後に改名して義稙)が就任することに同意した。義稙の母は富子の妹で、義稙は富子にとって、実の甥でもあった。

 延徳二(1490)年一月七日、夫・足利義政が没し、義材が第一〇代将軍に就任した。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と対立、富子の小河邸を破壊し、領地を差し押さえた。
 だが翌延徳三(1491)年一月七日、夫の丁度一年後に義視が世を去ると、親政を開始した義材と富子は引き続き対立。明応二(1493)年、反撃に出た。
 所謂、明応の政変で義材が河内に出征している間に富子は細川政元と兵を起こし、義材を廃して、義政の甥にあたる足利義澄(堀越公方足利政知の子)を一一代将軍に就けた。

 明応五(1496)年、日野富子逝去。享年五七歳。



第壱検証:「娘」として レールに敷かれたままの人生を歩んだと思われる。当時の女性は身分の上下を問わず、親が敷いたレールに沿った人生を歩むことが少なくなかったが、中でも藤原北家の流れを汲む日野家は別格だった。

 何せ、第三代足利義満から第一二代足利義晴まで、「将軍御代所」と云えば、日野家の女子であるのが半ば慣例化していた。当然、母親が日野氏の女性である将軍も多かった。
 ただ、日野富子の父・日野重政は六代将軍・足利義教の代に、そのまた父である日野義資(つまり富子の祖父)を義教に殺されていた。
 その影響で出家しいたが、義教の側室で、足利義政の生母であった日野重子が重政の子・勝光が告げるよう取り計らってくれた経緯があり、富子はその後に生まれたので、晩年の子として可愛がられつつ、いつかは大叔母・重子の恩に報いて足利家に嫁ぐことを云い聞かされてきたと思われる。

 いずれにせよ、日野重政は嘉吉三(1443)年一〇月二日、富子が四歳の時に没しているので、余り父の記憶は無いと思われる。


第弐検証:「妻」として 何とも奇妙な夫婦である。何せ似ているところと似ていないところが両極端なのだ。同時に夫婦として愛情の有るときと無いときも。

 何度も触れている様に、足利義政日野富子の婚姻は、「征夷大将軍&日野家の女子」という既定路線で、婚姻時、富子は一六歳、義政は二〇歳で、年齢的には当時としては少し適齢期より遅め遅めだが、それも既定路線故で、両者の愛情有無など一顧だにされなかったことだろう。もっとも、この時代、将軍家や藤原家の流れを汲む日野家で自由恋愛が成立することの方が稀だっただろうけれど。

 かかる夫婦は形だけの夫婦関係となって、取敢えず子供が出来たら、正室の子=嫡男となって、後はお役御免となって、夫は自らの手で物色した好みの側室に走る…………というケースが少なくないのだが、この夫婦の場合、良くも悪くも当てはまらなかった。
 まず、夫・義政は色事には早熟で、しかも年上好きという少年時の道場主と似た趣味……………ぐえええぇぇぇぇ(←道場主の袖車絞めを喰らっている)……ゲホッゲホッ……とにかくかつては乳母である今参局とも肉体関係にあって、娘がいたと云われていた。
 この説は現代では否定されているそうだが、そんな説が出るほど、義政は早熟で、好色だった。だが、意外にも側室の数は少なく、富子との間には全員で四人の子を為している。
 最初の子を生んだのが、富子二〇歳のときで、最後の義尚を産んだのが二六歳のときである。この間、最初の子が生まれた日に死んだのを「今参局」の呪いと思い込んだ義政が御今を流罪にして側室を善追放したり、義視に将軍譲位の約束をしながら子供を作ったりしていたのだから、富子に対する愛情は普通に有り、時として激情を伴ったものだったのだろう。

 ただ、応仁の乱の主因ともなった後継者問題で、義政が煮え切らない態度を取ってからは御世辞にも理想の夫婦とはいえなくなっている。
 義政は(八歳で将軍になった時から周囲には彼を抑圧するものばかりだったと云う不運もあったが)政治に頽廃的で、文弱に耽り、富子はせっせと金儲けに精を出していた。両者とも、自分が愛好することに掛ける情熱と才能は凄まじく義政は東山文化の大成に大きく貢献し、富子は弱者の足元を見るえげつない商売(高利貸し・通行税)で莫大な富を築き上げた。
 それゆえ、只でさえ逃げ癖の有る義政は御所を移っては富子と別居することを繰り返し、応仁の乱の最中、室町亭に避難していた後土御門天皇と富子が密通したとの噂が広まったこともあった。
 実際には、後土御門天皇が富子の侍女に手を付けたというものだった(←おい、天皇……)が、そんな噂が流れる様では順風満帆な夫婦関係とはいえなかっただろう。

 ちなみに商行為で莫大な利益を挙げた富子は対朝廷関係で生きた金の使い方をしていたが、夫の趣味には一銭の金も出さなかった。
 そんな夫婦の最後の対立と、最後の合意が最愛の息子・義尚を巡るものだったとは皮肉である。
 義尚陣没を受けて、幕府は将軍不在となり、さすがの無責任男・義政も再度政治の場に就こうとしたが、富子が反対した。もめた結果、義視の子で、富子の妹を母とする義材(義稙)が義政 (または義尚)の養子となることが合意された。
 その詳しい経緯は不明だが、義政没後に義視・義材親子は富子と対立し、暴力沙汰まで起きているので、合意も円滑なものでは無かったのかもしれない。

 ともあれ、「妻」としての富子は、義政とは概ね形骸化した夫婦関係でありながら、愛し合うときはとことん愛し合い、対立するときはとことん対立し、互いの趣味・嗜好に関しては相互不干渉の関係にあったと思われる。


第参検証:「母」として 前頁の北条政子同様、「情が強過ぎる」の一言である。
 腹を痛めて産んだ子供達に対して、日野富子は間違いなく深い愛情を持っているのだが、かなり傍迷惑な暴走を度々しでかしていた。
 最初の子が生まれたその日の内に死んでしまったことを嘆き悲しむあまり、(証拠も無しに)今参局が呪った、と決めつけ、局は流罪→自害強要される羽目に遭った(云われるままに応じる義政義政だが)。
 同時に四人の側室も追放されたと云うから相当感情的になるほど悲しんだのだろう。

 また義尚を産んだことで将軍後継問題が拗れたのも、何としても愛息を将軍位につけようとしたものだが、当時の女性の立場の低さを考えると、勝気な性格と母としての愛情の双方が強くなければ、応仁の乱にまでは至らなかっただろう(義政は子供が生まれても養子の話を覆さない旨を起請文にまで認めていた)。
 まあ将軍後継問題は乱の口実的な面の方が強いのだが………。

 ともあれ、純粋な愛情か、はてまた脆弱な将軍継承権を危惧してか、富子義尚の些細なことまで干渉したため、義尚は母を憎まずとも、疎ましく想い、母と一緒に住もうとしなかった。勿論義尚の若死にを富子は深く悲しみ、近江で陣没した義尚の遺体は富子と管領・細川政元に護られる様にして京に戻ったと云う(←義政は?)。
 つまるところ、「母」としては、愛情による押しつけの強過ぎるタイプだったのだろう。


第肆検証:「悪女」とされる要因 日野富子『日本三大悪女の一人』にカウントされている(後の二人は藤原薬子と築山殿)。特に日本史上の「守銭奴」と云えば彼女を連想する人間も少なくない。

 箇条書きにすると、

かくの如き手段をもって富子が稼いだ遺産は七万貫(約七〇億円)に達していたと云う。その資産は朝廷関連では有効活用もされたが、応仁の乱を初めとする有力大名の醜い争いに巻き込まれていた庶民にとっては怨嗟の的でしかなかった。

 ただ、世に守銭奴的君主は少なくなく、それらの人物は圧政者となって重税を課すパターンが多いが、日野富子の場合、それが「商行為」と云うのが独特であった。
 重税を課した訳でもないのに、怨まれ、嫌われたのは、その「商行為」が強権に裏打ちされ、夫婦して世に混乱を招いたのを尻目に、要領良く稼いだことに対する妬みもあれば、しこたま稼ぎながら万民を助けるのに使ってくれないことも怨まれ、嫌われる要因としてあっただろう。
 諸大名にしても、金に困ったときに頼っても、高い利息を取られたら、やはり最後には富子を好きにはなれなかっただろう。薩摩守も過去に高額の借金を背負ったことがあるから分かるが、金を借りるときは相手が仏に見えるが、高い利息とともに返すときは相手が鬼に見えるのだから、人間は勝手である(苦笑)。

 ときに感情を暴走させ、我を通し、人の不幸を尻目に金を儲けていれば、好かれる方が無理と云うものである。
 勿論、富子がこうなったのは富子だけのせいではなく、その詳細は「弁護論」に譲るが、とかくこれほど嫌われる理由の分かり易い女性も珍しい。



弁護論 一言で云うと「悪い夫を持った。」である。
 過去作で、薩摩守は何度か、「日本が戦国時代と云う暗黒時代に入ってしまったA級戦犯は足利義政である。」と述べた。
 勿論、義政だけのせいではないし、義政がそうなったことにも同情すべき点はあるのだが、それでも諸要因を差っ引いても、義政が政治や後継者問題に無責任で、苦しむ人々を尻目に個人の趣味に耽った頽廃振りは最大級の非難に値すると思っている。

 そして、この様な夫を持ったために、日野富子は様々な意味で「自ら動く女」にならざるを得なかった。
 評判の悪い守銭奴振りもそうである。大体が余程の名君でもない限り政治家なんて金に困っている者だが、義政は自分の趣味には呆れるほど安直に金をつぎ込んだ。
 それゆえ富子は自分が稼がなくてはならなくなり、実際、悪名の陰で富子が稼いだ金銭は火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは使われたりした。普通は夫が捻出するものである
 早い話、夫がしっかりしていれば富子は守銭奴にならずに済んだ可能性は高い。そしてその様な事情があって稼がれた金銭だったこともあってか、前述した様に富子は夫の趣味にはびた一文供出しなかった。
 単純に金儲けにあざとい訳ではなく、使うべきには莫大な金子を惜しげも無く使った。

 とかく日野富子は努力家だった。
 金儲けもそうだが、学問にも熱心で、関白一条兼良に源氏物語の講義を受け、そのために富子は莫大な献金を行った。
 義尚の将軍後継問題に尽力したのも、義尚にとっては有難迷惑だったが、これも愛情の強さと、義政の無責任さにあった。
 義政が義視に将軍職を譲ろうとした当初、義視は後から義政に子が出来て、継承問題が拗れるのを懸念して再三譲位を辞退した(正にその通りになった訳だが)。それに対し、義政は「子が出来たらすぐに僧にする。」と約束(実際、足利家の男子は将軍になる者以外は基本僧侶になった)し、起請文まで認めた。
 故に義政が強い意志を持って義視将軍就任の約束を履行するか、最悪でも将軍の強権発動で約束を反故にすることをはっきり示せば富子義尚の養育や擁立にムキになる必要も無かった。

 加えて、「応仁の乱の原因を為した」との弾劾にもある程度の弁護が必要である。
 そもそも室町幕府は、有力大名の力が強過ぎたことで安定政権を築くのに四苦八苦した組織で、第三代足利義満の後期を除けば、ほぼ全員が将軍として思うままの権力を充分に震えたとは云えなかった。
 山名宗全にしても、細川政元にしても、畠山・斯波・一色・赤松・京極等の守護大名にしても、己が権力を拡大する為に政敵を倒す機会を虎視眈々と伺い、ある意味、きっかけを期待していたと云っていい。
 それゆえ応仁の乱は双方の総大将が死んでもだらだら続き、どちらが勝者とも云えずにだらだら終わり、その余波が全国に及んで戦国時代に突入した。
 つまりは室町幕府征夷大将軍がその地位に相応しい大権を盤石化出来ていなかったことによる構造上の欠陥問題で、義政富子もその犠牲になった面は否めない。

 いずれにせよ、富子は自分で動く女性であったために、義尚の若死に、それに続く義政の逝去の後も「御台」として幕府内部関わらざるを得ず、明応の政変にまで関わる羽目になった。
 彼女にしてみれば、「周りの男ども、もっとしっかりしてよ!!」と叫びたい気持ちもあっただろう。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新