第伍頁 三条夫人……義信事件がなかったら

名前三条夫人(さんじょうふじん)
不明
生没年大永元(1521)年?〜元亀元(1570)年七月二八日
主な立場甲斐守護大名正室(継室)
三条公頼
武田信玄
武田義信、信親、信之、黄梅院、見性院
悪女とされる要因家柄誇示、側室虐待、義信事件加担疑惑
略歴 左大臣・三条公頼の次女に生まれた。姉は細川晴元に、妹は本願寺顕如に嫁いだ様に、父の公頼は幅広い交流を持っていた。

 天文五(1536)年七月、一六歳の時に駿河今川氏の仲介で武田晴信に嫁した。
 妻としての立場は継室だったが、先妻は晴信が一四歳の時に夭折していたので事実上の正室だった。
 義信黄梅院信親(龍宝)、信之見性院と、三男二女に恵まれた。

 だが家庭的には不遇で、次男・信親が幼年期に失明。
 天文二〇(1551)年、遠く山口の地で父・公頼大寧寺の変(陶隆房による大内義隆への謀反)に巻き込まれて殺された。
 二年後の天文二二(1553)年に三男・信之が夭折した。

 その間、信玄(晴信)は次々と若い側室を迎えたが、嫡男・義信は文武両道に逞しく成長していた。
 順当に行けば、義信の母として安定した余生を送る筈だったが、対今川同盟問題を巡って信玄義信が対立。永禄八(1565)年、義信は謀反を起こし、東光寺に幽閉された(義信事件)。
 幽閉された義信は永禄一〇(1567)年に切腹して果てた。そして義信の反対を押し切って進めた駿河侵攻のために北条家との同盟も壊れ、翌永禄一一(1568)年に北条家に嫁いでいた長女・黄梅院が離縁されて甲斐に帰された。そのショックによるものか、黄梅院も永禄一二(1569)年に若くして病死した。
 数々の不幸の連鎖は彼女自身に及び、元亀元(1570)年七月二八日に逝去した。三条夫人享年五〇歳。



第壱検証:「娘」として この時代の常として、身分が高い程、特に女性は自由恋愛等叶わなかった。三条夫人の実名が史書に残されていないことからも、「娘」としての三条夫人は詳らかではない。
 状況的に注目しておきたいのは、三条家が藤原北家の流れを汲む名家で、祖父は太政大臣、父・三条公頼も左大臣を務めた程だったが、応仁の乱以降の乱れた洛中にて、三条家は相当困窮していたらしい。まあこの当時、皇室でさえ典礼儀式の費用が捻出できず、征夷大将軍も安心して京に安住出来なかったぐらいだから無理も無いとは云える。

 ただ、「三条家」という名家の看板は決して軽いものではなく、前述したように三条夫人の姉妹も管領や本願寺に嫁ぎ、公頼も勢力盛り返しのために東奔西走した。三条夫人婚姻の四ヶ月前には自ら甲斐を訪れた(武田晴信元服に立ち合う為であった)。
 以上の背景から、三条夫人も京を出ることをある程度覚悟した養育を受けていたのではないかと思われる。


第弐検証:「妻」として 充分に武田信玄に愛され、正室としてまっとうな待遇を得ていたと考えられる。「弁護論」でも触れる予定だが、三条夫人は歴史小説・歴史ドラマの強い影響で、「京の名門の生まれを鼻にかけて、甲斐の田舎侍を睥睨し、嫉妬深く、辟易した信玄も側室の方を寵愛した。」というイメージが強い(薩摩守自身、長年そう思っていた)。

 だが、それらのイメージを匂わせるものは史書には見られず、信玄の数多い妻の中で、最も多くの子を産んだのは他ならぬ三条夫人であった。
 単純に子供の数だけで寵愛の度合いを測るのに異論のある方もいらっしゃると思うが、名ばかりの正室は嫡男さえ生めば、その後は胤を仕込まれないことも珍しくない。
 政略結婚と一夫多妻制の時代、正室は(様々な意味で)女性を知らない未熟な年頃に親の一存でくっ付けられる相手であることが殆どで、ある程度女性を知った上で自分の意志で捕まえた女性の方に寵が移るのはよくある話で、それでも正室の長男=嫡男は家督を継ぐのだから、寵愛する側室の子を後継者としたいと思うなら、正室は確たる後継者さえ生めば後は子を産まない方が助かる、ということになる。

 でありながら、五人も生んだということは、信玄が余程すべての妻を律儀に愛する性格でもない限り、三条夫人を愛していなかったとは云えないのである。
 晩年、信玄は足利義昭の御内緒を受けて、反信長包囲網に加わって、浅井、朝倉、長島一向一揆、本願寺とも結んだが、本願寺との同盟には三条夫人の縁が強く活かされた。このことからも、三条夫人は「可」は有っても、「不可」は無い「妻」だったと思われる。

 何より夫・信玄が彼女を愛していた証拠は臨終の際に表れていた。死の間際、信玄が自分の死を三年間伏せることを云い残したのは余りにも有名だが、同時に馬場信春に自分が日頃から信仰していた陣中守り本尊、刀八毘沙門・勝軍地蔵を三条夫人の眠る円光院に納めるよう遺言したと云う。


第参検証:「母」として すべては「義信事件」の前後において、三条夫人にどの様な言動があったかで「賢母」であったか、「愚母」であったかが決まる。
 まず、義信事件が起こらない限り、正室・三条夫人の長男=武田家嫡男たる義信の立場は信玄息子達の中でも特別なものであり続けた。
 義信の弟達は、三条夫人の子も、それ以外の側室の子も、全員が何らかの形で異姓を名乗らされた(例:海野信親西保信之、諏訪勝頼、仁科盛信、葛山信貞)。その目的は、先代信虎が滅ぼした様々な甲斐の名家を復活させ、その配下を懐柔するものだったが、同時に義信の立場を明確化し、要らざる後継者争いを防ぐという者もあったと思われる。
 実際、義信亡き後、信玄の後継者は明確には決められず、勝頼の下、武田家が一枚岩とならなかったことが武田家滅亡に繋がったと云っても過言ではない。

 ただ、義信事件には謎が多く、義信が本当に信玄に害意を持っていたかも詳らかでなければ、義信の死因も切腹説・病死説がある。
 そんな中、確かな史実として、信玄義信に対駿河関係を巡った対立があったこと、飯富虎昌(義信傅役)・穴山信邦(梅雪実弟)の刑死、義信直臣八〇名以上の処分があった。
 これ程の大量処分を出した御家の一大事に、三条夫人が少しでも加担していれば、何の処分も下らなかったとは考え難い。恐らく事件には何も関係なく、「母」としては普通に子供達と接し、愛したのと思われる。
 腹を痛めて産んだ子は五人中、三人に先立たれ、一人は盲目となり、武田家滅亡後まで生き延びたのは見性院だけだったのが、「母」としては何とも可哀想だったが。

 ちなみに、義信が死去する一年前の永禄九(1566)年一一月二五日、笛吹市にある二宮美和神社に赤皮具足が奉納された。この具足は信玄の物だという説もあるが、有名な赤備え義信の師傅・飯富虎昌が始めたもので、義信も赤皮具足を愛用していたことから、奉納されたものは義信のもので、三条夫人が愛息の為に奉納したと考えるのが筋だろう。


第肆検証:「悪女」とされる要因 一言で云うなら、「フィクションの犠牲者」ということになる。新田次郎氏の小説(またはそれを原作にした横山光輝氏の漫画)『武田信玄』を見ると、三条夫人は完全に「京の名門の生まれを鼻にかけて、甲斐の田舎侍を睥睨し、嫉妬深く、側室の暗殺も辞さない酷薄女」である。
 イラストも小太りの醜女に描かれ、嫡男・義信が弟に冷たく、鼻っ柱の強さから父にも従わない性格に育ったのも、半ば三条夫人の血を引いていたせいにされていた。
信玄が病に倒れてもろくに見舞いも来ず、京風の派手な着物を着て、嫉妬から側室にも刺客を放つ…………信玄三条夫人の余りの傲慢振りに嫌気が差して、側室べったりで、鵜呑みにすると五人も子供を作ったのが信じられなくなる程である。

 新田氏の原作を基にした昭和六三(1988)年の大河ドラマ『武田信玄』では、紺野美紗子氏演じる三条夫人が、「京の名門の生まれを鼻にかけて、甲斐を田舎と見下し、側室を嫉妬する」という部分では原作通りだったが、それでも信玄に反旗を翻した義信に何度も平手打ちを喰らわせたり、子供達が成長を遂げる度に信玄と水入らずに一夜を過ごしたり、子供達に先立たれたのを心の底から悲しんだり、川中島の戦いで戦死した義弟・武田信繁や山本勘助の為に涙を流したり、死の間際にようやく自分に優しさを見せてくれる様になった愛おしい信玄の為に必死に生き延びようとしたり、と気の強さや感情的な行き過ぎはあっても芯に愛情を持つが故に苦悩する女性となっていた。
 その分、原作の三条夫人の悪しき面の大部分は、侍女の八重(←ドラマに登場した架空の人物)に被せられたようで、今思えば八重役の小川真由美氏が可哀想だった気がする(苦笑)。ドラマでは半ば妖怪扱いだったもんなあ…………。

 いずれにせよ、昔に行くほど男尊女卑傾向の強かった日本社会において、女性に関する記録は男性のそれに比べて驚くほど少ない。作家や脚本家にとってはそれらの女性を、主人公を巡る人物としてどう描くかは腕の見せ所となるだろう。
 それゆえに作品がヒットすればするほど、その女性の実像は歪められてしまうことになるが、三条夫人の場合、特にそれが強い。
 とはいえ、新田氏を悪く云うつもりは無い。ドラマであれ、小説であれ、伝承であれ、正史であれ、個人の論文であれ、特定史観による「ノン・フィクション」であれ、「鵜呑み」にして自ら学び、考察しようとしない姿勢が一番良くないのだから。

 最後に付け加えるなら義信事件への関与が疑われることだろう。事件に彼女が関与した証拠は無いが、事件の大きさや、その後の武田家家督が側室系に移ったことが、後世の人々をして、「三条夫人が事件に関与していたのでは?」と邪推させしめることとなって点も見落としてはならないだろう。



弁護論 大体が前述の「第肆検証」と被る。そこで、ここでは実際の三条夫人に迫ってみたい。

 一つには、小説やドラマに見られるような三条夫人像は史書の上においては見られない、ということが挙げられる。それゆえか、Wikipediaで「三条の方」を見ても、ドラマや小説の様な描写は皆無である。
 勿論Wikipediaを鵜呑みにするつもりは無いが、史実を重んじつつ、エピソードも豊富なWikipediaが従来の根強い三条夫人観に全く触れていないのは興味深い。

 二つ目には、三条夫人が葬られた円光院に残された記録である。
 快川和尚(←「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な僧侶)は三条夫人の人柄を、

「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄様との夫婦仲も、睦まじいご様子でした」

 と記し、残している。
 快川和尚が武田信玄との誼から、多少三条夫人を実像より美化して記した可能性が全くないとは云わないが、和尚の硬骨漢振りを考えると大袈裟な誇張をしたとは考え辛い。
 また円光院を訪れた人の記録によると、墓の数がかなり多く、三条夫人の墓を見つけるのに一苦労したらしい。恐らくは三条夫人に何らかの形で縁を持ったり、慕ったりした人々が多かったのだろう。

 ともあれ円光院では、信仰心の篤かった三条夫人に格別の敬意を抱き、彼女が武田家に嫁ぐときにに持参した三条家伝来の木造釈迦如来坐像を所蔵し、前述の快川和尚が三条夫人を称えた言葉は、大河ドラマでの悪妻として描かれた三条夫人の姿に憤慨した住職様が、彼女の実像を伝える為に看板に記したとのことだった。

 戦国の乱世に翻弄され、山深い甲斐に在ってそれなりに夫・子供達と睦まじく、数々の悲劇に見舞われても、愛と信仰を持ち続けた……………それが三条夫人の実像なのだろう。
 恐らく義信が武田家を継ぐか、勝頼の代の妙な滅亡が無ければ、後世に描かれたヒステリックな虚像はフィクションの中にも存在しなかったことだろう。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新