第陸頁 築山殿……不義密通はどこまで真実か

名前築山殿(つきやまどの)
瀬名(が一般的だが、正確には不明)
生没年天文一一(1542)年〜天正七(1579)年八月二九日
主な立場守護大名正室
関口親永
徳川家康
徳川信康、亀姫(加納御前)
悪女とされる要因武田家との内通疑惑、複数の男との不義密通疑惑
略歴 天文一一(1542)年、今川家重臣・関口親永を父に、今川義元の妹を母に、駿河に生まれた。義元は実の姪でもある瀬名を、「鶴姫」、吉良義安の娘・椿姫を「亀姫」と呼んで可愛がった。

 弘治三(1557)年、義元の養女となり、今川家の人質として駿府にいた三河岡崎松平家当主・松平元信徳川家康)と結婚。彼女との結婚を機に、それまで元信を見下していた今川家中は「主君の甥」となった元信に慇懃になった(笑)。
 永禄二(1559)年に嫡男・竹千代 (信康)を、翌永禄三(1560)年に亀姫(後の加納御前)を産み、夫は人質とはいえ、それなりに幸せな日々が続く筈が、正にこの年、瓦解した。

 永禄三(1560)年五月一九日、上洛途上にあった伯父・今川義元が桶狭間の戦いでまさかの討ち死にを遂げ、数々の訃報が駿府に届き、城中が慟哭の坩堝と化す中、夫・元康(←出征前に改名)の安否はなかなか確認出来ず、瀬名竹千代亀姫とともに途方に暮れていた。
 やがて元康が故郷・岡崎に還っていたことが判明。「駿府に帰って来い。」という今川氏真の命令にも従わないため、瀬名は子供たちともども命の危機に曝された。

 程なく、元康が捕虜にした鵜殿氏の妻子との人質交換の形で瀬名も子供達とともに岡崎に移ったが、夫は今川と絶縁し、伯父の仇・織田信長と同盟を結んだため、これを怒った氏真によって、父・関口親永は切腹を命じられた…………。

 岡崎に移った瀬名はしかし、岡崎城に入ることは許されず、城の北外れにあった「築山」に御殿が築かれ、そこに住んだ。「築山殿」の名はこれに由来し、以後彼女はこの名で呼ばれる様になった。

 永禄一〇(1567)年、家康築山殿の息子・信康が織田信長の娘・徳姫と結婚。「息子の嫁」が「叔父の仇の娘」という事態に煮え湯を飲まされた上、依然として城外に住まわされたままであった。

 元亀元(1570)年四月下旬、移住から一〇年近く経ってようやく岡崎城に移ったが、同年、夫・徳川家康は遠江浜松に移った。
 岡崎には信康と共に住んだが、信康と徳姫の間に女の子は生まれても、男の子が生まれない為、これを心配した築山殿は元武田家の家臣の娘等を信康の側室に迎えさせた。

 天正七(1579)年、徳姫が、嫁姑関係や夫婦関係や武田家との内通疑惑を愚痴った手紙が徳姫の父・織田信長の元に届けられ、信長は家康信康の処刑を命じたとされる(が、これには謎が多い)。
 いずれにせよ、結果として家康の命で、築山殿は同年八月二九日に小藪村で野中重政によって殺害。信康も九月一五日に二俣城で切腹した。築山殿享年三八歳。
 真夏で、腐敗の早い季節ということもあって、遺体は家康信康と対面することも無く、即日西来院に葬られた。法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼



第壱検証:「娘」として 「娘」としての築山殿−否、瀬名を語るなら「今川一族」で在ったということが切り離せない。母は今川義元の妹で、父の関口親永もれっきとした今川家の支族で、義元が桶狭間の戦いに倒れず、天下に覇を唱えていたら、松平家も「今川一門下」の重臣家として栄達していたであろうし、それは「人質の妻」となった彼女が描いた大いなる理想でもあった。勿論、その理想の中には親永もいたことだろう。

 また、この時代良く行われたことだが、瀬名は義元の養女となり、形の上では義元を父として元信に嫁いでいる。普通に考えるなら政略結婚でも人質(しかも当時は最弱勢力の主)の元に嫁ぐのは格下の家へ嫁ぐものであり、「嫌」とは云わずとも「好ましくない」と思ったことだろう。
 それを承知で瀬名元信に嫁いだということは、後々の今川家勢力拡大と、それに伴う関口家・松平家の繁栄を狙い、その繁栄の中におけるファースト・レディとなることを夢見てのことだっただろう。
 逆を云えば、伯父にして養父であった義元の繁栄無しに「娘」としての瀬名の幸福は考えられなかったことだろう。

 桶狭間の戦いによる養父の死と、その後の急転化によって起きた実父の切腹が娘心に大きな傷跡を残したとしても不思議は無い。


第弐検証:「妻」として 弘治三(1557)年に一六歳で松平元信に嫁いだ嫁いだ瀬名だったが、桶狭間の戦いまでは「元康 (元信)の妻」というよりは、「義元の姪」としての存在感の方が大きかった。

 恐らく、「元康の妻」としての瀬名がクローズアップされるのは、竹千代亀姫を産んだ頃から岡崎移住までだろう。惨いことを書けば、それ以降の瀬名築山殿は「信康の母」としてのカラーは色濃くても、「家康の妻」としてのカラーはかなり薄くなってしまう。
 ともあれ、岡崎に帰った直後の松平元康は、氏真の側にいて人質にされていた瀬名竹千代亀姫を奪還するのに必死になった。当時今川家には多くの様々な人質がいた。その人質が国元次第でいつ命を失うか分からない危うい立場にいるのは元康自身の経験上からも嫌という程知っていただろう。
 元康は氏真からの駿河帰還命令に対して、「勢いに乗る織田勢を岡崎で食い止める」として離れず、一方で三河上之郷城(現:愛知県豊川市)の鵜殿長照(瀬名と同じく、義元の妹を母に持っていた)を討ち、その妻子を捕えるなど、向背定かならぬ言動を見せた。

 結局、鵜殿の妻子との人質交換の形で瀬名は子供達を連れて夫の元に行くことが出来たが、以後彼女が妻として顧みられることが激減したのにはそれなりの同情に値する。このとき瀬名は二九歳の女盛り………既に今川を離れる決心をしていた元康改め家康にとって「今川の娘」は、「松平元康の妻」としては救出されても、「徳川家康の妻」とは見て貰えなかった、と捉えるのは惨いと云えようか。

 そしてその様な立場が邪推を産んだ。ただ邪推が生じたのは築山殿かも知れないし、世の口さがない人々の方かも知れない。所謂不義密通疑惑である。
 浜松に行ったきり、妻として見て貰えない築山殿は浜松と岡崎の連絡役を務める代官・大賀弥四郎や、癪を治す為に呼ばれた唐人医師・減敬と密通し、しかも二人は武田勝頼と内通し、築山殿は武田軍を岡崎に導き入れ、家康の首を取った後、信康に家を継がせ、自分は武田の勇将の後妻となる腹積もりだったとすら云われた。

 これが真実ならとんでもない悪妻なのだが、この詳細は後々に譲りたい。


第参検証:「母」として 瀬名家康の嫡男・竹千代と、長女・亀姫を産み、三河では築山殿と呼ばれて竹千代改め信康とともに岡崎城に住んだ。
 瀬名の立場はれっきとした正室で、瀬名信康亡き後も羽柴秀吉の妹を(形ばかりの)継室に迎えたことはあったが、それ以外はどれほど寵愛した妻妾も正室の地位に付けることは無かった。
 それゆえ、正室・築山殿を母とした信康亀姫の発言権は絶大だった。また築山殿に似た気性の激しさもあった。

 最終的に切腹させられる羽目になったとはいえ、事が起きるまでは信康は徳川家の跡取りとして誰も異論を挟む者は無く(信康死後二〇年以上も経ってから後継者問題は紛糾した)、老臣といえども遠慮なく叱り付け、戦場では勇猛で、奇しくも信康の二一回目の命日に関ヶ原の戦いに臨んだ家康は「倅(信康)が生きていてくれればこんな苦労をせずに済んだのに……。」と呟いたのは有名である。

 また亀姫瀬名の旧友で、義元に供に可愛がられた椿姫=亀姫の名を貰うことを前もって約束していた)は、長篠の戦いに際して長篠城を守り通した奥平信昌に嫁いだが、家康の娘の中で最も長生きし、宇都宮釣天井事件では異母弟で将軍であった徳川秀忠に圧力を掛けて本多正純を失脚させた。偏に、本多が政敵である大久保家を弾圧し、亀姫の一人娘の旦那・大久保忠常の父・大久保忠隣を改易させていたことへの報復だった。

 そんな二人の子の母だった築山殿は気性の激しさや、今川を恨む松平時代からの宿将達から白眼視から、「武田と通じている」あるいは「武田と通じていてもおかしくない」と見做され、特に信康切腹を悲しむ諸将から、「あの母がいなければ…。」という目で見られた。

 例によって、信康切腹にも謎が多いのだが、信康が将来を嘱望されていた後継者であったことは確かで、一昔前は「信長が信康切腹を家康に命じたのは、自分の子・信忠に勝る信康の資質を恐れたからだ。」という説が良く囁かれた(昨今、信忠が見直されるようになり、その説は下火傾向にあるが)。
 そんな信康の人気が高ければ高い程、築山殿は「信康の側に在って、息子の人生を狂わせた愚母」との見方が強まる傾向にある。

 確かに、「姑」としては信康の正室・徳姫との仲はどうしてもぎくしゃくとしたものになっただろう。「今川の娘」であった築山殿にとって、「息子の嫁」が「伯父の仇の娘」で在ったことが面白くなかったのも想像に難くないし、徳姫が信長に宛てた手紙でも信康夫婦に冷え切った時期があったことや、築山殿の武田との内通が疑われていたのは事実だったが、この徳姫の手紙にも信長による(信康を罰する為の)加筆がなされたとの説がある。

 正直、薩摩守に謎を解く力は無い。仮に有ったとしてもそれを正しい史実として世の中を納得させる力はもっとない(苦笑)。ただ、「母」として、信康の行く末を考えるなら、「武田に通じている」と思われかねない言動(例:いつまでの今川義元の死や、織田との同盟を愚痴っていたこと)を慎むべきだったと思われてならない。


第肆検証:「悪女」とされる要因 築山殿『日本三大悪女の一人』にカウントされている(後の二人は藤原薬子と日野富子)。
 確かに武田勝頼と内通したこと、大賀弥四郎達との不義密通が史実なら、とんでもな悪妻愚母としか云いようがない。三大悪女にされている他の二人に比べれば、世に与えた影響は小さいかもしれないが、「敵に内通し、夫を殺そうとした。」という意味においては三大の中で一番の悪女となる。

徳川信康の切腹とその背景に謎が多いので、築山殿に関しても早計に断言するのは避けなければならないのだが、確かな史実として、彼女は徳川方の史料においてもボロクソに貶されている。

 例を挙げると、
『玉輿記』………「生得悪質、嫉妬深き御人也」
『柳営婦人伝』………「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」
『武徳編年集成』………「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」
『改正三河後風土記』………「凶悍にてもの妬み深くましまし」(※同書では唐人医師の減敬と密通についても触れており、その有様を道鏡・称徳天皇に例えている。)

 と記されている。
 様々な同情を加味しても、傲慢で嫉妬深い女性だったのは間違いなさそうだ。
 注意を要するのは、「徳川方の史料」も、上述した書物も、江戸時代に編纂されたものだということである。江戸時代においては、徳川家康は「東照大権現様」と呼ばれ、謂わば神様扱いだった。
 そんな偉人の正室だった人物がここまで貶められているのは異常で、考えられるとしたら二つである。

 一つは、「神君の正室」であることを加味して尚、ボロクソに描かざるを得ない程、築山殿が「極めつけの悪女」であった、ということ。
 もう一つは、誰がどう考えても納得の出来ない「嫡男を切腹させた」という家康の行動を、「それじゃあ、切腹させられても仕方ないな…。」と思わせる為にも、築山殿を「徹底した悪女に貶める必要があった」とうこと。

 果たして、どっちが正しいのであろうか?(どっちも違っていたりして………)。



弁護論 殆ど、同情論と、「信康切腹」への疑念になる。築山殿を庇えるとしたら。
 つまり、築山殿が従来言われて来た様な言動を実際に取っていたのなら、「悪女」のレッテルは剥がし様がない。
 ただ、くどいが信康切腹には謎が多い。素で考えて、「信長の命令で家康信康に切腹を命じた。」なんてそのままの言葉通り受け止められない。
 家康と信長の同盟はあくまで対等なもので、信長の勢力の方が強かったにしても、同盟相手にその子を斬れ、なんて命じるのは合点がいかない。今川義元が松平広忠に「竹千代 (家康)を斬れ!」と命じたとしても広忠が素直に従ったと思えない。
 仮に極端な力関係をたてに信長が家康に「信康切腹」を命じ得たとしても、そんな命令が同盟にひびを入れない筈がない。
 また、信長が家康重臣・酒井忠次に、徳姫からの手紙を見せて、内容を糺した際に、忠次が信康を全く庇わなかったのも解せない(このときの報復として、徳川四天王の息子達が一〇万石クラスの大名になった際に、忠次の息子・家次だけは三万石しか貰えなかった)。

 とにかくおかしいことだらけなのだ。
 それゆえ、この事件には、以下の様な説も囁かれている。
 その壱、信康築山殿の不行状を家康自身が処罰した説」……………気性の激しい信康は女児しか産めなかった徳姫を責めたり、これを庇った侍女を斬ったり、鷹狩りの不猟に腹を立てて狩り場にいた僧侶を馬で引き摺り殺したり、といった乱行があり、家康がこれらの罪で信康を、その監督不行き届きで母である築山殿を罰したというものである。

 その弐、「父子不仲説」……………信康処罰に際し、家康は三河岡崎衆に対して、信康との連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、信康に内通しないことを誓う起請文を出させた。
 また後年、信康の異母弟・松平忠輝が七歳になった際、その容貌を見て家康は、「面貌怪異、三郎信康)ノ稚顔ニ似タリ」と云って怯えたというので、深刻な父子対立があり、「謀反人」や「内通者」ではなく、「父親に従わぬ者」として、信康を処罰したというものである。

 その参、「派閥抗争説」……………この時期の徳川家が浜松派と岡崎派に割れていた、との説である。前者は常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいたが、後者は怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や外交問題を担当していた。
 そんな役割の違いで両派が出世を巡って対立し、岡崎派の頭は信康、浜松派の頭は家康が担がれ、父子はいつしか争う様になったが、後世父子相克は伏せられた、との説である。

 だが、いずれも決め手に欠ける上に、築山殿が強く関与できるとは考え難い。信康の不行状や徳姫との不仲が事実でも、それを理由に信長・家康信康を殺そうとするとは考え難い。また築山殿に武田勝頼と裏で内通出来る力があったかも疑問である。
 また信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も云っていない。こうなると今川義元戦死以来、今川を懐かしみ、織田を恨む築山殿が、気性の激しさから云っても、信康処罰に黙っているとは思えず、同時に罰せられた………………つまり、信康の運命が決まった段階で、築山殿の運命も決まっていたと云えそうだ。

 もう少し愚痴を慎んでいれば、と思われてならない。
 伯父が天下を取り、その一門として京都か、京に負けぬ繁栄を誇った駿河で栄耀栄華を極める筈が、人質→岡崎片田舎への幽閉→妻として見られぬ日々、と来ては癪を起すほど胃を痛め、周囲に攻撃的になったことに対しても、幾ばくの同情が無くは無い。
 お世辞にも良妻賢母とは云えない女性だが、やっていないことまでやったように云われるのだけは解消されて欲しいものである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新