第漆頁 淀殿……長き「悪妻愚母」のレッテル

名前淀殿(よどどの)
茶々(ちゃちゃ)
生没年永禄一二(1569)年〜慶長二〇(1615)年五月八日
主な立場関白側室
浅井長政
豊臣秀吉
鶴松、豊臣秀頼
悪女とされる要因秀頼甘やかし、プライドに凝り固まって豊臣家を滅亡させた
略歴 戦国で最も有名な姉妹である浅井三姉妹の長姉。
 父は近江の戦国大名・浅井長政、母は織田信秀の娘・お市である。次妹・(常高院。京極高次夫人)、末妹・(崇源院。徳川秀忠夫人、徳川家光母)ともに有名。

 永禄一二(1569)年、近江小谷城(現:滋賀県長浜市)に生まれた。
 父・長政と母・お市は浅井家と織田家の同盟による政略結婚で結ばれたが、仲睦まじい夫婦となり、一家は幸せそのものだったが、元亀元(1570)年、伯父・信長が同盟時の約束(浅井家に無断で朝倉家と事を構えないというもの)を無視して朝倉義景を攻めたために同盟は破棄されたことから一家の悲劇が始まった(よく信長よりの書物では「妹婿の浅井長政が裏切った!」という信長の怒りの台詞が記されるが、先に裏切った信長の方が悪い)。

 長政は善戦したが、天正元(1573)年になると、反信長包囲網に加わっていた武田信玄の病死を皮切りに戦況は信長一気に信長有利に転じた。
 同年八月二〇日に盟友・朝倉義景が滅亡。返す刀で信長は織田に城を包囲した。さすがにお市のこともあってか、信長は長政に何度か降伏を勧告したが、長政はこれを拒否し、結果、八月二七日に祖父・久政が自害、九月一日、運命を共に遷都した母・お市茶々の娘達を落ち延びさせた長政は自害して果てた。時に茶々五歳。

 実家に戻ったお市とその娘達だったが、さすがに仇である信長の元に住むのは抵抗があった様で、母娘は別の伯父・織田信包(おだのぶかね)の保護を受けた。
 その間も信長は祖父・久政と父・長政の頭蓋骨を盃にするわ、兄・万福丸を処刑するわで、茶々には耐え難い情報が次々ともたらされた。そして浅井家殲滅の急先鋒は羽柴秀吉だった。

 天正一〇(1582)年六月二日、本能寺の変が勃発し、信長が横死すると茶々の周囲は激変した。同年、お市は織田氏重臣・柴田勝家と再婚。茶々は母・妹達とともに越前北ノ庄城(現:福井県福井市)に移った。
 だが、翌天正一一(1583)年、継父・勝家は賤ヶ岳の戦いにて羽柴秀吉敗れ、北ノ庄城は羽柴軍に包囲された。
 勝家は自害し、お市も今度は夫と運命を共にした。しかし茶々達三姉妹はお市の手によって秀吉に引き渡された。

 その後、如何なる経緯があったか詳らかではないが、「秀吉養女」として妹・は京極高次に、もう一人の妹・は佐治一成、次いで豊臣秀勝に嫁ぎ、茶々は天正一六(1588)年頃、秀吉の数多い側室の一人となった。

 天正一七(1589)年、長子・鶴松を出産。ただでさえ子煩悩な男だった秀吉はこの快挙(怪挙?)に文字通り狂喜乱舞(笑)。茶々は側室筆頭の寵愛とともに、山城国淀城を賜り、以後「淀殿」、「淀の方」と呼ばれるようになった。
 だが、 鶴松は天正一九(1591)年に三歳で夭折、もはや実子を望めまいと思っていた秀吉だったが、文禄二(1593)年、淀殿(秀頼)を出産した。時に豊臣秀吉五八歳、淀殿二五歳。
 だが、数多い側室の中で淀殿だけが秀吉の子を二度も懐妊したことは口さがない世上に不義密通の噂を広めた。

 ともあれ今度こそを死なすまい、とした秀吉は自らの死後、淀殿の提言を容れて、秀頼の後見人として、淀殿乳母であった大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)・饗庭局(あえばのつぼね)等を重用することを認めた。これにより淀殿は家政の実権を握った。

 慶長三(1598)年八月一八日、夫・豊臣秀吉が逝去。死期を悟った秀吉の意向では元服して豊臣秀頼となっていたが、勿論まだ六歳の秀頼に統治能力など有ろう筈は無く、秀吉から貢献を託された徳川家康が政治を執ることとなった。
 そして慶長五(1600)年、徳川家康を「豊臣家に仇なす奸物」とする石田三成率いる西軍と、「石田三成こそ秀頼公の名を騙る奸物」とする徳川家康率いる西軍が衝突(関ヶ原の戦い)。戦いは東軍の大勝利に終わり、西軍総大将を務めた五大老の一人・毛利輝元もと一族の説得を受けて大坂城西の丸を退去した。
 家康は関ヶ原の戦い勝利した直後に大野治長(大蔵卿局の息子で、淀殿の乳兄弟)を大坂城に派し、淀殿秀頼が西軍に関与していないと信じていることを伝えさせ、淀殿もこれに対して感謝の旨を返答した。
 だが、関ヶ原の戦いの「論功行賞」の名のもとに、家康は取り潰した西軍大名領だけではなく、豊臣家の蔵入地も東軍諸将に分配し、豊臣家は支配地を大激減した。

 だが慶長五(1603)年二月、家康は征夷大将軍に就任。一方で同年七月には秀吉との生前の約束を守って、徳川秀忠の長女・千姫(母はで、淀殿にとっても実の姪)を秀頼に嫁がせ、豊臣家に好意的な顔を見せていた。
 だが、慶長七(1605)年、家康は駿府に隠居して将軍位を秀忠に譲り、徳川家による政権世襲を公然と天下に示した。そして豊臣恩顧と呼ばれた諸大名も加藤清正以外は秀頼に対して正月の挨拶も行わなくなった。

 そして家康は秀忠が将軍就任の為に上洛した際に、秀頼に祝賀の挨拶に来るよう要求したが、家康を「豊臣家家老」と考えていた淀殿はこれを拒否(ちなみに家康は同日、秀頼を右大臣に推挙して就任させており、その祝いも兼ねていた)。
 だが慶長一六(1611)年三月、後水尾天皇即位に際して上洛した家康が二条城にて秀頼と会いたい旨を伝えて来たときには秀頼淀殿反対を押し切って上洛した。

 加藤清正、浅野幸長を護衛に行われた二条城会談は穏便に終了したが、一〇年振りに再会した秀頼の偉丈夫振りに驚いた家康は自らの死後を懸念して豊臣家滅亡を決心したと云われている。
 そして慶長一九(1614)年、淀殿秀頼が故秀吉のために再建した方広寺の鐘の銘文に対して家康が、「家康の名を裂いて徳川家を呪っている!」というアホみたいな云い掛かりをつけて来た(方広寺鐘銘事件)。
 何とか家康を宥めようと、秀頼は片桐且元を、淀殿は大蔵卿局を家康のもとに釈明の使者を送ったが、狸親父家康は且元には厳しく出て、大蔵卿局には優しく出て、豊臣家中の疑心暗鬼を煽り、結局は大坂冬の陣が勃発した。

 開戦当初、淀殿は自ら甲冑を身に纏い、城内を巡回して閲兵・督戦を行ったが、「国崩し」と呼ばれた大砲の一発がたまたま大坂城本丸の淀殿近辺に着弾。侍女二人が無残な圧死を遂げたのを見て戦意が萎えてしまった。
 妹・常高院()の仲介で大坂城の堀を埋めることで和議は成立。だがこれも狸親父の姦計であったことは今更説明するまでも無いだろう。

 翌慶長二〇(1615)年、家康は豊臣家に対して、害意が無い証として「秀頼が奈良または伊勢に移る」か「大坂城内の浪人衆を全員追放する」をすると云う二者択一の要求を行った。
 勿論、淀殿秀頼が受け入れられる訳は無く、大坂夏の陣が勃発。四月二九日の塙団右衛門の戦死を皮切りに、豊臣方の諸将は次々と討ち死にした(何?贔屓的に団右衛門の名を出したんだろう、って?当たり前でんがな(笑))。
 五月八日、隠れ潜んでいた山里廓も発見され、直前に千姫を送っての助命嘆願も通じず、淀殿秀頼とともに自害した。淀殿享年四七歳。
 母子の自害に大蔵卿局、大野治長、毛利勝永、速水守久等が殉じ、廓内の火薬に火が投じられ、遺体は判別不能なまでに焼き尽くされたと云う



第壱検証:「娘」として 父・浅井長政、母・お市を、更には継父・柴田勝家をも深く慕っていたことに間違いは無い。
 秀頼を産んだ時に父母等、血縁の菩提を弔うために、養源院(現:京都市東山区)を建立した。「養源院」とは浅井長政の院号であった。
 また、秀吉の側室時代には長政お市、勝家の葬儀を執り行い、秀吉死後、高野山などの修復にも当たった。その高野山の持明院には淀殿が天正一七(1589)年に描かせた長政お市の肖像が現存している。現在我々が歴史本や歴史サイトで見る長政お市の肖像はこの持明院に収められているもので、淀殿のおかげで見ることが出来ると云える。


第弐検証:「姉」として 私事だが、道場主の母が「」としての淀殿と同じ立場に立った女性である。
 両者に共通しているのは、若くして父母を失い、女性の多い兄弟更生の中で、半ば妹達の母代りとなった点である(道場主の母方の祖父母は若くして世を去り、母は七人中五人が女という兄弟の中で、長女に生まれていた)。

 五歳で父に死なれ、一五歳で母と継父に死なれ、いずれの場合も直後の保護者が「親の仇」だったと云う状況下で、茶々にとって、妹のは身を挺しても守るべき大切な「妹」で、ある意味「娘」とさえ云えた。
 前述した様に、秀吉賤ヶ岳の戦い後、浅井三姉妹を保護した。目的は養女とすることで政略結婚に利用するためである。
 まあ当時の大名は殆どが政略結婚なので、政略結婚自体に幸も不幸も無かったが、それでも茶々としてはがとんでもないところ(秀吉に反逆しかねない、明日にでも秀吉に滅ぼされかねない)に嫁がされるのを阻止しなければならないとの使命感もあっただろう。

 幸い、は父方の遠縁である京極家に、も母方の従兄弟に当たる佐治一成に嫁ぎ、佐治家との離縁後も豊臣秀勝、徳川秀忠、と当代の名家に嫁いだので、秀吉もまま気を使ってくれてはいた様である(勿論茶々の気を引くことも考えてのことではあっただろうけれど)。

 浅井三姉妹の仲の良さはつとに有名で、それゆえに大坂の陣で豊臣・徳川家が相争った史実に悲哀を覚える人も少なくない。
 特に母・お市の死後、茶々は二人の妹に、
 「そなた達は名族近江浅井家の姫である。見苦しき振る舞いがあってはならぬ」とたしなめたと伝わっている。

 とは大坂と近江大津の近さもあって度々顔を合わせ、が人生三度目の落城(関ヶ原の戦いの夫・京極高次が東軍についたために石田三成の攻撃を受けた)を経験したときには温かく大坂城に迎えた。
 もその愛情に良く答え、大坂の陣では豊臣・徳川の間に立って調停に務め、大坂方に勝ち目無しと知ると何度も淀殿に降伏を勧めた。大坂落城直前に淀殿=常高院に「とともに浅井の名を守り続けて欲しい。」と託して退去させた。

 に対しても、愛情いっぱいに接した。
 は二度目の夫・豊臣秀勝に死なれ、徳川秀忠の元に三度目の嫁入りをする際に、秀勝との間に生まれた娘・完子(さだこ)を豊臣家に置いて行くことを秀吉に命じられた(秀吉にとって、完子は甥の娘で、大切な血縁者として手放す訳にはいかなかった)。
 後ろ髪引かれるに対し、完子を引き取って、自分の娘同然に立派に育てることを約束した。後に完子は五摂家の九条忠栄に嫁いだが、その婚姻成立には淀殿の高度な政治力の発揮があったと云われている。
 この妹への想いが天に通じたか、完子の血は今上天皇にまで脈々と受け継がれている(同時に豊臣と浅井の血も)。

 少なくとも、妹との接し方を見て、淀殿を「悪女」と云う者はいまい。


第参検証:「妻」として なかなかに複雑である。そもそも夫となった羽柴秀吉 (豊臣秀吉)は、完全に「親の仇」である。大河ドラマでも秀吉の側室となる前の茶々秀吉への敵意を露わにするシーンが何度も描かれている。
 実際、そんな秀吉に何故茶々が側室になることを承諾したかは日本史における大きな謎の一つである。
 秀吉が権力でもって脅して強引に我がものにしたと考えるのは簡単だが、当時の死生観と茶々のプライドの高さを考えれば、どうしても嫌なら自害してでも拒否したと考えられるから、初めは靡かずとも、何処かで秀吉に絆されたのかも知れない。
 仮説を立てればキリがないが、「我が身を挺して妹を守るために秀吉の求めに応じた説」、「側室になった振りをして、他の男の子を宿し、秀吉の血筋を途絶えさせるという遠大な復讐説」「怨みよりも富と権力を優先した説」等があるが、いずれもイメージは良くない。「親の仇」に嫁いだこと自体が異常だからだろうか?
 ただ、武田勝頼を産んだ諏訪御寮人や、秀吉の側室の一人となった松の丸殿(京極竜子。淀殿とは従姉妹同士)の様に、「仇」に嫁いだ例が他にない訳ではない(諏訪御寮人は父・諏訪頼重を武田信玄に、松の丸殿は母方の祖父・浅井久政を秀吉に殺されている)。

 ともあれ、茶々秀吉と結ばれた。母のお市は戦国一の美女と謳われた美女で、茶々はその美貌を受け継ぎ、かつてお市に惚れていた秀吉に懸想されたと云われている。一方で、大柄だった父・浅井長政に似て、身長が一七〇センチほどあったらしく、五尺(一五二センチ)に満たなかった秀吉と並んだ場合、さぞかし絵にならなかったことだろう(苦笑)。そしてその血は秀頼に受け継がれ、秀頼も巨漢に育った。

 正室・側室の中で唯一人秀吉の子を産んだ淀殿鶴松出産後は過去のわだかまりも(少なくとも表面上は)なりを潜めた様で、秀吉との夫婦仲は抜群だったことだろう。
 ただ、他の正室・側室との仲、そして「不義密通疑惑」が彼女のイメージを損ねている。

 秀吉の正室・お禰は、織田家家臣の娘で、かつては母・お市に仕えていたこともあったから、淀殿としても接しにくい相手だっただろう。
 数多くの側室を持ち、唯一人子供を産んだ淀殿を寵愛しても、秀吉は糟糠の妻・お禰を粗略にすることは無かった。それゆえ淀殿もお禰に敬意をもって接し、お禰も「豊臣の妻」として秀頼を可愛がったこともあったので、両者の仲は表面上穏やかだった。秀吉の寵愛や、豊臣家内の家政を巡る多少の対立はあったかも知れないが、秀吉の史上における注目度から云って、もし両者に決定的な対立があればもっとはっきりと史上に残されたと見るべきだろう。
 関ヶ原の戦いでお禰が子飼い諸将や甥の小早川秀秋を家康に味方するよう説いたからと云って、お禰と淀殿が敵対していたと見るのは早計だろう。

 他の側室との問題では、有名なのが醍醐の花見での松の丸殿との確執だろう。
 松の丸殿は側室の中では淀殿に次いで秀吉に寵愛が深かったと云われている。淀殿を除けば、全側室は秀吉の子を産んでいないと云う意味では同列だったから、その条件下で筆頭になった松の丸殿は大したものである。
 また前述した様に、淀殿と松の丸殿は従姉妹同士でもあったので、妙なライバル意識があってもおかしくない。そんな松の丸殿と淀殿は、花見の宴席で、杯を受ける順番で争うという事件を起こした。
 一番に杯を受けたのは正室のお禰で、二番目に受けるのがどっちか、ということになったのだが、結局、秀吉・お禰夫婦と若き日から夫婦で仲の良かったお松(前田利家夫人)が二番目に受けることで治まった(←三番目でもめなかったのだろうか?)。
 ただ、このいざこざは近年、双方とも軽い冗談で云ったこととされており、松の丸殿は豊臣家滅亡時に淀殿の孫・国松の遺体を引き取って供養していることからも、両者の仲が格別悪かった訳でもなさそうだ。
 まあ、淀殿の母がお市で、秀吉にとっての主筋の血を引く彼女にしてみれば、血統的にも、他の側室に寵愛で負ける心配など無かったことだろう。つまりは無理に争う理由も無かった訳である。

 それよりも深刻なのは不義密通疑惑だろう。
 淀殿だけが秀吉の子を二度も生んだことを怪しみ、「秀吉に子種は無かった。故に淀殿秀吉の子を妊娠する訳は無く、鶴松秀頼は不義密通の子である!」というものである。
 この戦国房とリンクして下さっている方や、薩摩守の知人の中にも豊臣秀吉豊臣秀頼を親子と思っていない人は少なからず存在する。

 薩摩守の見解は、「秀吉死後なら他の男とやっていたかも知れないが、鶴松秀頼秀吉の子」という見解である。
 詳しく論述すると冗長になるので、表にして簡単に示しておきたい。

 「秀吉秀頼」を父子としない説の主な論拠と薩摩守の反論
疑惑論拠薩摩守の反論
 大勢の側室の中で淀殿だけが懐妊したのはおかしい。 一応、南殿という側室が石松丸という子を産んだ伝承あり。
 また、かつて薩摩守が行っていた居酒屋の女将さんのお姉さんは子供が出来ないために離婚させられたが、別の男性と結婚するや忽ち三人の子持ちとなった。
 では元旦那さんが種無しだったのか?と思いきや、別の女性を妻に迎えるやこちらも忽ち三人の子持ちとなった。「種と畑」の相性というのは確かに存在するらしい。
 豊臣秀頼は小柄な豊臣秀吉に似ない巨漢で、秀吉の子とは考え難い。 母・淀殿、その父・浅井長政は巨漢で、母親似なら秀頼がデカくてもおかしくはない。
 淀殿には複数の男性と関係した疑惑がある。 当時、未亡人が男と遊んでもとやかく云われない傾向があったから、秀吉死後ならあり得るが、鶴松懐妊時に、秀吉の子でないと聚楽第に落書きの下手人(及びその疑惑のある者)を何百人も処刑した秀吉の怒りを買うリスクを冒してまで淀殿とやりたがった奴がいたとは思えない(しかも子供が二度も出来るには場合によっては相当な回数をやらなければならず、発覚リスクはその都度増大する)。

 では、仮に鶴松秀頼を「不義密通の子」とした場合、その相手となり得るのは誰だろうか?
 筆頭は大野治長である。淀殿と乳兄弟で、幼い頃から密接で、大坂夏の陣で最後の最後まで淀殿秀頼を救わんとして、自らの切腹を条件に母子の助命を図ったのも「父親としての愛」と見る向きも多く、『明良洪範』ははっきり疑っている。
 平成一二(2000)年に放映されたNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』では、関ヶ原の戦い前に下野に流される直前の大野治長(保坂尚樹)と淀殿 (小川真由美)が別れを惜しんで密会するシーンが描かれていた。

 他に語られるのは石田三成が挙げられる。
 家康を異常なまでに敵視し、秀頼に絶対の忠誠を誓っていた三成ゆえにその様な説も生まれたようだが、三成の気真面目な性格から云っても、これは江戸時代以降の三成を「君側の奸」とした影響から来た俗説と見るべきだろう。
 ちなみに昭和六二(1987)年放映のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では淀殿 (樋口可南子)が三成(奥田瑛二)の手を取り、妖艶に笑いながら自分の胸を揉ませるという羨ましいシーンがあった。

 仰天ものでは、徳川家康を父とする説である。
 山岡荘八原作の『伊達政宗』では、家康がなかなか豊臣家を討伐しない理由を松平忠輝が岳父・政宗の前で述べていたが、「秀頼はな、あのカマキリのような太閤などに似てはおらぬ。丸々とよう肥えて父上(家康)そっくりという噂。」といって泣いていた。
 痩せているか太っているかだけで親子関係が決められるとは物凄い判断基準だ(笑)。  ただ、子種疑惑は別にして、征夷大将軍就任までの淀殿と家康の関係は見直す必要がある(関ヶ原の戦いに前後して両者は連絡を取り合っていた)。


 疑惑の考察自体は面白いのだが、疑惑の謎を解くこと自体は本題ではないので、元に戻ると(苦笑)、秀吉淀殿の夫婦関係は鶴松秀頼の誕生を機会に過去よりは未来を大切にした良き夫婦関係にあったと云えるだろう。
 秀吉の子煩悩振りは過去作『秀吉の子供達』でくどいぐらいに解説したが、淀殿の子供達に対する溺愛振りもそれに負けていない。
 淀殿が「妻」として立派に夫を愛していた証拠とするには少し弱いかも知れないが、慶長四(1599)年豊国神社が完成すると、その祝いとして諸候を凌ぐ金子を奉納したのを皮切りに、秀吉の供養の為、数多くの寺社仏閣再建に淀殿は多額の金銭を費やした。
 その一つ、方広寺の再建が悪用され、因縁を付けられたことにはさぞかし腸煮えくり返る想いだったことだろう。


第肆検証:「母」として 二昔前より、豊臣秀頼は見直されつつある。徳川家康が方広寺鐘銘事件での云い掛かりや、大坂冬の陣後に「伊勢または大和に移れ、さもなくば浪人達を全員追放しろ」という豊臣方が到底受け入れられない命令を出してまで戦にこぎつけ、豊臣家を滅ぼしたのも、偏に秀頼の将来性を恐れたからだと云われている。

 一方で淀殿は、そんな将来性ある人物であった秀頼を甘やかして育て、肝心な場に出さず、その成長を阻害して御家を滅亡に導いた人物として見られる傾向が強くなった。
 つまりは、豊臣家滅亡の責任問題において、秀頼の責任度合いが軽減されたが為に、淀殿の責任度合いが増大したと云う誠に皮肉な話である。

 確かに溺愛されて育った秀頼は多くの女官に囲まれる日々で一五歳で初めて牛を見たと云う見事なまでの「温室育ちの薔薇」だった。だが勿論、淀殿秀頼を軟弱者に育てたかった訳ではない(当たり前だが)。
 師傅・片桐且元を初め、とことん忠義を尽くしてくれた加藤清正、大野治長・治房兄弟、頼りになる乳兄弟・木村重成、と周囲に人材は豊富だった。
 また、徳川秀忠将軍就任時や、後水尾天皇即位時に挨拶を求められた際は、淀殿が極端なまでに暗殺を恐れて秀頼上洛を拒んだのに眉を顰める人も多いが、「時勢を知らない愚かな意地」と見るか、「過剰なまでの母心」と見るかは個々人の判断で変わることだろう。

 溺愛には良い面も悪い面もある。ただ薩摩守はやはり淀殿秀頼への愛の為に常に命を貼り、プライドを捨てる覚悟を持っていたと思う。
 上洛拒否時には、「秀頼を刺して私も死ぬ!」と半狂乱になった程の愛情を持っていれば、大坂冬の陣の和議交渉中に、「自らが人質となって江戸に下向するので、豊臣の領土を増やすよう」と打診するというプライドを捨てた愛情もあった。事の是非や賢愚とはまた別個になるが。


第伍検証:「悪女」とされる要因 男で云えば、武田勝頼や、北条氏政に擬えられるだろうか?つまりは「御家を滅ぼした責任者」と見る悪名である。特に正式な当主ではなく、「当主の親」だったと云う意味においては、氏政と被るところが大きいかもしれない。

 ともあれ、

 「プライドが異常に高く、ヒステリックで、時局を読まず、我を通し、息子を猫可愛がりしてその成長を阻害し、結果御家を滅ぼした………。」

 というのが一般的な淀殿像ではないだろうか?

 全くの間違いではないし、少なくとも「要素」としてはある。ただ、大坂夏の陣終結をもって、「完全な徳川の世」が訪れ、その中で若き豊臣秀頼よりも、「女主人」というカラーの強かった淀殿の方がより強く、且つ必要以上に槍玉に挙げられた感はある。その一例が彼女の通称にある。

 道場主が歴史を学び始めた頃、淀殿は一般に「淀君」の通称で有名だった。「通称」というのは、「淀」自体が「淀城」に因んだ通称の一部に利用されただけで、本名は生涯「茶々」だったからである。
 「淀君」という呼称が広く普及・定着していたのは、坪内逍遥の戯曲『桐一葉』の影響が大きかったらしい。かつて、女性に「君」を用いたのには、「遊君」、「辻君」などの様に、売春婦の呼称に用いられたもので、江戸時代の「徳川家万歳」の世で、悪玉とされた豊臣家の女主人であった淀殿に悪女、淫婦というレッテルを貼る目的があったらしい。
 勿論、生前の彼女は「淀君」はおろか、「淀殿」と呼ばれたことさえ無い(「淀の方様」とは呼ばれた)。さすがにこの様な呼び方は不当と見られたか、NHK大河ドラマでも昭和六二(1987)年放送の『独眼竜政宗』を最後に「淀君」という呼称は使われなくなった。

 まあ「徳川の世」ということを考えれば、二代将軍徳川秀忠の正室、つまりは三代将軍徳川家光の母がだったので、淀殿豊臣秀頼も将軍家と血の繋がった完全な身内で、「徳川の敵」として悪く云うのも少しは歯止めが掛っていたかも知れない(特に家光から見れば、叔母と従兄である)。

 ともあれ、これらの要因が彼女の悪名を増幅させ、そこに淫乱説が加わったのだろう。「悪女 → 夫の目を盗んで他の男とやっている。」と短絡的に考える野郎どもは古今東西星の数ほど存在する。現代の女性誌を見れば、昔から野郎というのは変わっていないことが良く分かる(笑)。
 また、「プライドが高いゆえに理の通じない女」を白眼視するのも古今東西に数多く見られる傾向だが、淀殿の場合、自ら甲冑を着けてまで城内を巡回して督戦していたのが、砲撃であっさり講和に転じたのも大きなマイナスポイントとなったことだろう。



弁護論 大きく挙げて二点ある。
 一つは、「御家滅亡の責を淀殿に被せている度合いが大き過ぎる。」ということである。そしてもう一つは、「後世の誇張」である。

 前者だが、確かに豊臣家は、秀吉時代のプライドを捨て切れず、周囲の勧めにもかかわらず徳川幕府に膝を屈することを拒んだために、滅ぼされた訳で、そこに関する淀殿影響は小さくない。
 だが、豊臣秀頼はお母ちゃんの鶴の一声に頭の上がらないお坊ちゃんだった訳ではなく、大坂城を枕に豊臣のプライドを持って太閤の元に逝くことを決めたのは秀頼も同様だった。むしろ淀殿は直前で千姫を城外に脱出させて、秀頼だけでも助けようとした。このとき、大野治長は自らの切腹を条件にしようとしたが、当の秀頼に長らく自分達母子に尽くしてくれた治長を犠牲にしてまで生き延びる意志は無かった。
 少し前述しているが、淀殿は、一度は江戸に人質として赴くことも考えた。江戸には妹のがいる。また江戸は千姫の実家でもあり、淀殿はその伯母でもあった。その環境下で「征夷大将軍の義姉」、「御代所の姉」、「一の姫の叔母」が極端なまでに冷遇されることはまず考えられない。ただ物凄い屈辱ではある。
 それを選択するタイミングは誤ってしまったが、通り一辺倒のプライド極高女だった訳ではないのである。

 また、二条城での会見以来、徳川家康の豊臣家滅亡への執念は確定的なものなってしまっており、豊臣サイドがどのような選択をしても、最終的には滅ぼされた可能性が高い。  酷な云い方をすれば、あの時点で手遅れだった訳である。
 加えて、世に溢れた浪人問題・キリシタン問題も見逃せない。
関ヶ原の戦いで膨大な数の大名家が改易され、その何千倍もの浪人が発生していた。彼等は職に飢えていた。そんな浪人衆にとって、大坂の陣は最後にして最大のチャンスだった。大坂夏の陣直前にはもはや彼等の決起を誰も止められず、浪人達は大野治長を闇討ちにしてまで(未遂)、戦を続行しようとした。

 浪人衆の中にはキリシタンも多かった。幕府が禁教令を出した中、万に一つの可能性でも豊臣方が勝てばキリスト教の信仰が認められる世が再来するかもしれないし、勝てずとも、信仰の為に死ねれば「殉教者」にもなれるので、信仰に対する何がしかの結果が出るまでは彼等も戦いを止められなかった。

 逆に一四年に渡って安住して来た大名達は、豊臣恩顧を含め、誰一人大坂方の召喚に応じなかった。失うものを持つ者と、持たない者の差は明白で、大坂に「持たざる者」が結集した段階で豊臣は無謀でも戦い続けるしかなく、淀殿一人の力でどうにかなるものではなかった。

 以上からも通説通りに淀殿一人に豊臣家の問題を集約させることに疑問を大いに感じる。  周囲の事情も考慮すべきで豊臣家滅亡のすべてを押し付けるのは早計だろう。もちろん立場上責任は免れないが。同じ事は秀頼にも云えるが。

 二点目の「後世の誇張」だが、これは前項の「第伍検証」で触れたので、割愛する。ただ少しだけ補足したい史実がある。
 それは彼女への供養にあった。
大坂夏の陣後、大坂城落城時に落ち延びた侍女達の何人かが、淀殿命日に大坂城跡を訪れ、献花・供養に努めたと伝えられている。当時、豊臣家は「徳川家に反逆した悪の家」とされていたから、故人を悪く云わない日本でも公然と豊臣家の墓前に手を合わせることは「幕府への反逆」と捉われかねなかった時代だった。
 それでも毎年元侍女達が淀殿の供養に集まったのだから、かなりの人望があったことが伺える。或いは、徳川の世で余りに悪し様に云われる淀殿に同情したからだろうか?

 現代日本において、歴女達における淀殿の人気は決して低くない。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新