第捌頁 崇源院……カカァ天下の代名詞

名前崇源院(すうげんいん)
江、小督、江与、他 ※本作では「江」で統一。
生没年天正元(1573)年〜寛永三(1626)年九月一五日
主な立場将軍御代所
浅井長政
佐治一成、豊臣秀勝、徳川秀忠
完子、千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、徳川忠長、和子
悪女とされる要因異常な嫉妬深さ、家光・春日局への冷淡さ
略歴 天正元(1573)年、浅井長政を父に、お市を母に近江小谷城に生まれた。が生まれた時点で、小谷城は伯父・織田信長軍の猛攻に遭っていた。

 が生まれて間もなく、小谷城は落城。八月二七日に祖父・久政が、九月一日に父・長政が自害して果て、お市に抱かれたは長姉・茶々、次姉・とともに城外へ落ち延びた。
 勿論、にとって、長政も、最初の落城も記憶に残るものではなかった。

 お市と、既に物心ついていた茶々が「仇」である信長の庇護を受けることに抵抗があったものか、伯父で、伊勢上野城主だった織田信包に預けられた。
 だが九年後、天正一〇(1582)年六月二日、本能寺の変が勃発したことで、お市浅井三姉妹の運命は急変した。
 信長が横死し、その謀反人・明智光秀を羽柴秀吉が討ち、清洲会議の結果、信長後継者と遺領分配が決まった。一応、話し合いで決まったことだが、一連の流れで秀吉が大きな発言権を得たことに、柴田勝家を初め、多くの者が反発し、その中にお市もいた(勝家とお市は秀吉が主宰した信長の百箇日法要を欠席している)。

 清洲会議後、織田信孝(信長三男)の仲介で、お市は柴田勝家と再婚し、と二人の姉も越前国北ノ庄城へ移った。
 だが、一年も経たない天正一一(1583)年、継父・勝家が賤ヶ岳の戦いにて羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城も落城の時を迎えた。
 勝家は二度目の落城を経験することになったお市母娘を不憫に思い、城外に落ち延びることを勧めたが、秀吉をとことん嫌うお市は娘だけを落ち延びさせ、自身は夫共に自害した(但し、秀吉には三人の娘をくれぐれも良しなに頼む旨を書状にしたためていた)。

 達三姉妹は秀吉の保護下に入った(従兄・織田信雄の保護下とも云われている)。程なく、は母方の従兄である佐治一成のもとへ嫁ぎ、最初の婚姻をした。だが程なく離縁させられた(小牧・長久手の戦いの影響らしい)。ただ、この婚姻自体、時期・期間・仲介者・事実の有無を含め、謎が多い(←こんなんばっかりや……)。

 その後、姉達の元に戻ったは、次は秀吉の甥で養子でもあった豊臣秀勝(秀吉の姉・ともの次男で、秀次の弟)の元へ嫁いだ。秀勝との間には一女を儲けたが、秀勝は文禄元(1592)年九月九日、文禄の役にて在陣していた巨済島において若くして病没した。

 文禄四(1595)年九月一七日、伏見にて徳川秀忠に再嫁。ようやくにして安定した婚姻生活を得たが、大切な血族を手元に置きたがった秀吉の命で、娘・完子は姉・淀殿に泣く泣く預けることとなった。

 伏見城内の徳川屋敷で始まった婚姻生活では子宝に恵まれた。
 慶長二(1597)年に長女・千姫を出産。慶長四(1599)年に江戸城にて次女・珠姫を出産。慶長六(1601)年に三女・勝姫を出産した。
 この間、秀吉が世を去り、義父・徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して、それに伴って夫・秀忠も出世したが、それは政略結婚における娘達との別れを意味した。

 勝姫を出産した年には、珠姫が僅か三歳で前田家に嫁いだ(その後珠姫とは二度と会えなかった)
 慶長七(1602)年、故秀吉と義父・家康との生前の約束により、千姫が姉・茶々の子・豊臣秀頼に嫁ぐこととなり、妊娠していたはこれに同行し、大坂に赴いた(ちなみにこの時が浅井三姉妹の一堂に会した最後の時となった)。
 直後に産気づいたは伏見城にて四女を出産。その娘は共に大坂に来ていた、子のない次姉・に請われてその養女となり、姉と同名の初姫と名付けられた。

 なかなか世継ぎとなる男児を産めず、女児ばかり産んだことを度々義父・家康を失望させたが、慶長九(1604)年七月一七日、ついに世継ぎとなる嫡男・竹千代(家光)を出産し、翌年には秀忠が征夷大将軍に就任して、徳川世襲体制が確立した。

 ついで慶長一一(1606)年、次男・国千代(忠長)を、翌慶長一二(1607)年には、末娘・和子を出産した。

 長女が豊臣家、次女が百万石の前田家、三女が越前松平家、四女が京極家、五女が皇室、と名立たる名家に嫁ぎ、嫡男は征夷大将軍後継者と来て、はまさしく「天下のお袋様」と云える立場に立ったが、徳川の豊臣の対立は解消されず、慶長二〇(1615)年五月八日、姉・淀殿大坂夏の陣にて自害して果てた。夫が総大将ではなかったのがせめてもの救いだっただろうか?

 元和九(1623)年七月二七日、嫡男・徳川家光が第三代征夷大将軍に就任。寛永三(1626)年九月一五日、江戸城西の丸で死去、享年五四歳。
 このとき、夫・秀忠、息子・家光忠長は二条城にて後水尾天皇の行幸を迎える為に上洛中で、の危篤を知ったときも公務を等閑には出来ず、忠長一人が江戸城に急遽舞い戻ったが、臨終には間に合わなかった。
 余談だが、平成一六(2004)年にフジテレビにて放映された『大奥〜第一章〜』では高島礼子さん演じる(同番組での名は「江与」)の臨終を秀忠 (渡辺いっけい)、家光 (西島秀俊)、忠長 (浜田学)が看取るシーンがあったが、勿論史実に反するフィクションである。まあ役に選ばれた高島礼子さんに鼻の下を伸ばしていた道場主に不服は無かったそうだが。

 没後、家光によって芝・増上寺に埋葬され、朝廷からは一一月二八日に従一位を追贈された(←将軍生母逝去時の慣例)。法名は崇源院殿昌譽和興仁苟裘W定尼。つまり、「崇源院」とは没後の諡号で、生前呼ばれた名前ではないが、生前の名前に諸説あり過ぎるので、この名をタイトルにしたことを白状しておきたい(苦笑)。


第壱検証:「娘」として まず、父・浅井長政との思い出はには無かった。これは不幸にして生まれてすぐに父に死なれたたためで、どうしようもないことだった。
 そこで、「娘」としてのを観るには、母・お市との関係にて観られることとなる。

 ただ、お市を失ったのが一一歳の時のことである。その間、これといった記録が残っている訳ではなく、お市にとっていかなる娘であったかは判然としない。ただ、が母となった後に、次々と娘が幼くして嫁ぐ際に見せた寂しげな表情から、彼女が「母と娘」との日々に何がしかの執着を持っていたと思われる。

 余談だが、は母方・織田家の血筋も重んじており、次男・忠長の正室には織田家所縁の姫を迎えるよう秀忠に打診し、成立させていた。


第二検証:「妹」として 謂わゆる浅井三姉妹 (茶々)は、戦国時代における最も有名な姉妹にして、最も数奇な運命を辿った姉妹として認識されている。

 早くに親を失い、半ば「仇」に囲まれて育ったためか、婚家による対立があったとはいえ、三姉妹は幼い頃から終生大変仲の良い姉妹だったと伝えられている。当時、身分の高い身程、婚姻が両親や兄弟との今生の別れになることが珍しくなかった。
 平均寿命の短さや、交通手段の脆弱さもあったが、「妻とは家の内に在って、家を守るもの」という考えの強い当時、家を出て外出すること自体が困難だった(時代を更に遡って、平安時代になると、結婚しても実家を出ず、人に姿を見せること自体が稀だった)。

 確かに自身、将軍御代所となってからは江戸を離れたことがなかった。ただ、次姉・常高院(←の出家名)が大坂の陣に際して東西の狭間を行ききしたことも、その後も常高院は何度か顔を合わせている。姉・淀殿の不幸が絡んでいたのは皮肉だったが、江戸と大津の距離や、そう簡単に大奥を出られないの立場を考えれば、稀有なほど恵まれた姉妹関係だった。

 元和五(1619)年、淀殿が父・浅井長政の供養のために建立した養源院が火災で焼失。秀忠に懇願して、元和七(1621)年に幕府がこれを再建した。
 「妹」としてのについてこれ以上とやかく云う必要はあるまい。


第参検証:「妻」として が悪く見られる要素はここから始まる。大名が一人でも多くの側室を持ち、子孫を絶やさないことが半ば義務とされた時代に、彼女は異常な嫉妬深さを見せ、それが為に(それだけが理由ではないにしても)夫・秀忠は側室を持つことが無かった。
 実際には何度か「浮気」し、保科正之という隠し子もいたのだが、秀忠と正之の対面が叶ったのはの死後だった。そしてには秀忠と別の女性(「家女」とのみ伝わる)との間に生まれた子供・長丸を殺したとの伝承もある(しかも灸で殺すという残忍なもの)。
 如何せん、記録が少なく、正確さにも掛けるが、その影響もあってか、ドラマ等では、秀忠が、手を付けたお静が保科正之を懐妊した際に、発覚すればお静と正之がに殺されかねないとうろたえるシーンが何度か演じられた。

 長丸殺害が事実ならはとんでもない悪女だが、そこまでする動機も謎なら、同時に何故に秀忠がここまでに遠慮するかも激しく謎である(但し、の姉、も夫・京極高次が侍女に手をつけて、侍女が懐妊した時はその殺害を企んだことがある)。
 一般には、秀忠より年上で、「秀吉の養女」という立場であったため、律義な性格であった秀忠は頭が上がらなかった、と云われているが、秀吉死後の徳川の世でまで縛られる謂われは無いし、秀忠は決しての云いなりではなかった。また秀忠は場合によっては結構非情な手段を取っている。
 ドラマによってはの方から、女児ばかり産んだ経歴を指して、遠慮なく側室を持ってくれ、と勧めたものもある。

 単純に秀忠にべた惚れで、側室を持つことでの悲しむ顔・嫉妬する顔が見たくなくて(表面上だけでも)そうしたのであれば、はかなりの果報者である。
 ともあれ、は徳川一五代を通じて、将軍御台所にして将軍生母となった唯一の女性となった。初代の家康や末代の慶喜は別個として、代々の将軍は一〇代初めで女性というものを良く知らないままに、公家の娘を正室に迎えた。
 故に正室よりも、自分の意志で捕まえた側室の方を寵愛する傾向にあり、正室の多くは充分な寵愛と子宝を得られないまま夭折するケースも多く、世継ぎは側室ばかりが生んだ。
 秀忠が遠慮なく側室を持てばが女児ばかり産んでいる間に別の女性が世継ぎを産んで、寵愛がそちらに移った可能性は充分にあった(秀忠が別の女性に産ませた子供は男ばかり)。

 「妻」として、がどこまで秀忠を束縛していたかは史書の上では定かではない。真実は秀忠のみが知るのだろう。
 偶然の一致でしかないが、の死から六年後の寛永九(1632)年一月二四日に、と同じ享年でこの世を去った。


第肆検証:「母」として この点に関する像が一番複雑である。
 よく云われるのが、

 「は乳母・春日局に養育を任せた竹千代 (家光)よりも、自らが育てた国千代(忠長)の方を偏愛し、廃嫡の危機に曝され、両親に愛されなかった竹千代は自害さえ考えた。」

 という冷酷な母として伝えているものであろう。

 真偽はともかくとして、状況的にそのような気持ちに陥るのは分からないでもない。
 政略結婚や、一〇歳に満たない女児の嫁入りが珍しくなかった時代とはいえ、秀忠に嫁いできた時からして、娘・完子と生き別れにされ、その後産んだ娘の大半は幼くして他家に嫁ぎ、ようやく産めた待望の男児・竹千代の養育は乳母・お福(春日局)に一任され、病弱な竹千代が度々病気に陥っても、母として看護に携わることを許されなかった。
 いつも一緒にいられた国千代を多少偏愛したとしても(程度によるが)致し方ない面も考えられないではない。

 ちなみに家光忠長は同年同月同日(元和六(1620)年九月七日)に、つまり一緒に元服している。同時に家光は従二位・権大納言に昇進しており、その意味では兄弟で差がついているが、二歳違いという僅かな年齢差とはいえ、弟が兄と同時の元服を果たしたことにも、忠長への一種のひいきを感じる人も多いのだろう。
 ただ本来なら家光はもっと早く元服する筈だったのが、元和二(1616)年の家康の死で延期されたという事実を見落としてはならないだろう。

 ただ、総合的に見て、は程度の差こそあれ、我が子は皆愛していたと思われる。竹千代よりも国千代を偏愛した傾向は、『春日局』『葵 徳川三代』『江〜姫たちの戦国〜』『大奥〜第一章〜』といった数々のドラマに多かれ少なかれ観られるが、竹千代への愛情が感じられなかったのは『大奥〜第一章〜』ぐらいで、『春日局』では麻疹に感染した竹千代の看病を乳母・お福(大原麗子)に拒まれた (長山藍子。同番組での名は「江与」)が半狂乱になって、竹千代に万一のことがあった場合はお福を生かしては置かない意を見せていた(同番組では、長丸江与の子で、生後一年経たずに麻疹で早世していた)

 『葵 徳川三代』では妙な性癖を見せた竹千代 (岩下志麻)が案じるシーンがあったが、それも竹千代の成長を想えばであった。

 『江〜姫たちの戦国〜』ではお福(冨田靖子)の影響を受け、豊臣家滅亡を露骨に喜ぶ宴会に乱入した (上野樹里)がお福に平手打ちを食らわし、叔母(淀殿)と従兄(秀頼)を亡くしたことを喜ぶな、と竹千代を窘めていた。

 唯一、『大奥〜第一章〜』だけが、家光の将軍就任に露骨に怒りを示す江与が演じられていたが、同作品はフィクションの度合いが強い。取敢えず怒っていた高島礼子さんも綺麗だったので許そう(←何のこっちゃ)。

 ただ、いずれの番組を取っても、若くして未亡人になった千姫を案じたり、三歳で嫁いで二度と会えぬまま若死にされた珠姫のために家康さえ(面と向かってではないが)詰ったり、成長した完子との再会に感涙したりしたが描かれており、母としての愛情溢れるシーンのないが描かれた作品など無いと云っていい。

 そうでありながら、「母」としてののイメージがイマイチなのはやはり、対家光関係を巡る逸話の影響があるだろう。
 これには家光が父・秀忠よりも、祖父・家康の方を遥かに強く思慕していたことと、有名な家康による竹千代後継決定シーンが挙げられる。

 家光は御守袋の中に「二世権現、二世将軍」という紙を入れており、「家康思慕」というより、「秀忠無視」と取れる文面を見れば、父・秀忠を無視する程怨むか、憎むかしていた様に受け止められ、も同様に見られていたと推測されるのは想像に難くない。
 そして、竹千代廃嫡を案じたお福の直訴を容れた家康が江戸に来た際に、竹千代を膝元に呼んで手ずから菓子を与えたが、同様にしてもらおうと近寄ってきた国千代には分を弁えるよう叱責したシーンが有名なのだが、これによりさも秀忠が渋々国千代擁立を諦めた様に観られることも多い。
 ちなみに後に改易・切腹という非業の人生を辿った徳川忠長だが、改易時には亡くなっていたが、秀忠は存命で、家光の独断だけで行われたことではなかった(当時のお約束として、大御所・秀忠は実権を握り続けていた)。
 さすがに切腹命令は秀忠死後のことだったが。
 いずれにせよ、秀忠忠長偏愛があったとしても、時代のしきたりを無視する程のものではなかった様である。


第伍検証:「悪女」とされる要因 実のところ、薩摩神自身は、正直、を「悪女」とまでするのには抵抗がある。「妻」や「母」として「怖い女」ではあったが。

 実の所、身分が高く歴史的にも重要な人物でありながら、容貌・性格などを含めたの人物像を伝える確たる史料は少ない。何せ本名さえはっきりしていないのだから(苦笑)。
 それ故か小説・ドラマなどでは、「お市の娘」、「信長の姪」、「淀殿の妹」、「恐妻家・秀忠の妻」という周辺状況から、「美しく、誇り高いがヒステリックで嫉妬深い性格の人物」として描かれることが多い様である。
 姉の淀殿同様、誇張されていると云っていいだろう。まあ、高島礼子さんが演じたはあれで良かったが(←しつこい!)。

 家光が父よりも祖父の方を異常なまでに慕い(←歴代将軍の中でも家光は群を抜いて多数回日光東照宮を詣でている)、偏愛された(と見られる)忠長の非業の最期が、状況証拠的にに鬼母のイメージを被せているのだろう。

 尚、ドラマによっては、家光の乳母・お福(春日局)に異常な敵意を向けることがある。その理由はお福の父が明智光秀の重臣・斎藤利三で、明智縁者を「伯父・信長様の仇」と睨むの想いとされているのだが、薩摩守に云わせれば、「伯父・信長様」こそ、「父・長政の仇」に他ならない。
 まあ、には長政に抱かれた時、長政が戦中に死した時の記憶はないだろうから、信長に対する想いは今一つ定かではないが(父の記憶がある茶々は恨んでいた筈)。



弁護論 端的に云えば徳川秀忠がだらしなさ過ぎる。
 そう云い切ってしまうと語弊があるので補足するが、薩摩守は、秀忠が「万事にだらしない男」だったとは思っていない。ちゃんと意志を貫徹する力はある人間だったと見ている。
 政治家としては、主に豊臣恩顧の大名家を中心に数々の改易を行って諸大名震え上がらせて幕藩体制を整えた辣腕家だった。
 また、家庭にあっても、忠長が鴨を狩って、夕飯に供したときは喜んでこれを食そうとしたが、鴨が江戸城西の丸の堀にて鉄砲で狩られた物と知ると、「西の丸で鉄砲を使うとは主君である将軍に対する反逆!この様な物は食えぬ!膳を下げさせい!」と怒り露わにしたことがあり、これにはも沈黙して従うしかなかった。

 つまり秀忠を完全に尻の下に敷けていた訳ではなかったのである。ただ尻の下に敷いていたイメージが強いので、秀忠家光との微妙な関係まで背負い込んでしまった感がある。

 尚、伝存史料からは国千代を偏愛し、竹千代を粗末に扱ったという具体的な証拠は存在しない。『藩翰請』には竹千代より国千代を将軍後継者に考えた記述も見られるが、その主語に来るのは秀忠である。
 にもかかわらずまで悪く云われるのは「秀忠を支配していた筈」との偏見から来ていると見られる。

 これ以上は各「検証」で実態を述べる際に弁護に類することも述べているので割愛したいが、とにもかくにも「状況証拠の犠牲者」というのが、ここまでまとめあげた薩摩守のに対するイメージである。


 ちなみに「弁護と」も「検証」とも何の関係も無いが、いつの日か大河ドラマでが登場する際には高畑淳子さんを起用して欲しい(←誰に云っているんだ?)。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新