第壱頁 杜世忠………ただやって来ただけで問答無用斬首
使者File.壱
名前 杜世忠(とせいちゅう) 派遣元 大元帝国 派遣先 日本 派遣目的 服属要求 交渉相手 北条時宗 遭遇災難 斬首
概略 杜世忠は元朝の官僚で、生まれは仁治三(1242)年だった。
杜世忠が生まれたとき、日本は鎌倉幕府という武家政権が世を統べ、事実上の最高権力者であった執権は四代目の北条経時だった。そしてモンゴル帝国(後の元)では第二代オゴタイ・ハーンが崩御し、第三代グユク・ハーンへの過渡期にあった。
モンゴル帝国は文応元(1260)年五月五日に、第五代フビライ・ハーンが都を大都(現・北京)に遷し、国号を中華風の「大元」と改め、増々その勢力を拡大せんとしていた。この時杜世忠は一九歳で、この遷都に前後して元朝に出仕し始めたと思われる。
文永五(1268)年、この時点でまだ高麗を攻略し切っていなかった元は南宋との戦いの為にも日本と誼を通じんとして初めて使節団を送った(厳密には三年前に送っていたが、諸事情あって日本に到着しなかった)が、この時の国書が暗に服従を求めるもの見做され、鎌倉幕府は、「返書ぐらいしたためては?」という朝廷の意向も無視して黙殺を決め込んだ。
結局、都合六回の使節を送るも、日本側からは何の意思表示もなく、文永一一(1274)年、フビライは日本に攻め寄せた(文永の役)。
文永の役は一〇月五日に対馬が蹂躙されたことに始まり、一一月二七日に元軍が引き揚げたことで終結した。本作は戦そのものが主眼ではないので文永の役の詳細は割愛するが、フビライはこの役で元軍の武威を日本に示せたと考え、服属を要求する七回目の使節を日本に派し、その正使に選ばれたのが礼部侍郎の官職にあった杜世忠だった。
出発前 文永の役における記録は実は多くない。
かつては新兵器や未知の戦術に苦戦しながらも鎌倉武士の奮闘を受け、敵地での夜襲を警戒して船上に引き揚げた元・高麗連合軍を玄界灘の嵐が襲った、所謂、神風伝説が一般的だったが、季節的にも現代では否定されている。また、当時元は高麗の完全に服属せしめて間が無く(一部の抵抗勢力が江華島に立て籠り、騎馬戦で無敵を誇ったモンゴル民族も海を挟んだ戦いには不慣れだった)、南宋との戦いも続いており、文永の役は牽制的なものだったとも云われている。
いずれにせよ、外交的にはだんまりを決め込む日本に対して、対馬・壱岐を蹂躙し、てつはう・毒矢・集団騎馬戦法で武威を示したタイミングなら聞く耳を持つかも知れないと見て、降伏勧告の使者として杜世忠が責任者となった。
副使には唐人で、兵部郎中だった何文著が、計議官としてウイグル人の撒都魯丁、同じくウイグル人の果が書状官として、更に通訳として高麗人の徐賛が随行したのだった。
敵陣にて 大都を発った杜世忠は建治元(1275)年四月一五日に長門の室津(現・山口県下関市)に上陸した。当時の北九州を中心とした沿岸地帯は元軍再襲来に備えての警戒態勢下にあり、杜世忠一行は忽ち捕えられて大宰府へ送られた。
大宰府は八月になってから杜世忠達を鎌倉へ護送した。これに対し、時の第八代執権北条時宗は杜世忠に会いもせず処刑を命じ、九月二七日、一行の五名全員がを竜ノ口(現・神奈川県藤沢市片瀬)にて斬首された。杜世忠享年三四歳。
その後 その昔、薩摩守は過去作『私設鎌倉軍事裁判』にて、北条時宗の杜世忠一行に対する処刑を、文を極めて批判した(ついでに処刑を丸ですべてを理解しながら止むを得ない体で行った風に描いた大河ドラマのストーリー構成にも)。
正直、杜世忠達には何の落ち度もなかった。皇帝に命じられるままに国書を奉じて使者に発った訳だが、時宗には会えず、特筆すべき無礼や過失があった訳でもないのに一方的に、有無を云わさず処刑されたのである。
一応、日本人として日本に対して好意的に見たとして、服属を強いる無礼な国書を送り、実際に攻撃を仕掛け、対馬・壱岐で乱暴狼藉を働き、直後にさらに服属を迫る態度に反発して、使者を処刑することでこちらの意志を示した、とするなら、百歩譲って一応の理解が出来なくもないが、それならそれで処刑の事実を元に伝えなかったのが解せない。
杜世忠一行も悲惨だったが、加えて悲惨だったのがその四年後に使者に発った周福である。斬られた杜世忠達は当然帰国しなかったので、元側では何も分からなかった。現代に比べて交通手段や医学が未発達だった時代なので、杜世忠達が渡海中に遭難や伝染病で命を落とした可能性だって充分考えられた。
何せ日本側が何も云って来ないので、それでも手掛かりを求めて大宰府にやって来た周福はその場で斬られた…………。結局フビライが杜世忠一行の殉職を知ったのは周福が元を発った二週間後で、もう少し早く知れば周福が命を落とすことはなかった。
薩摩守は、フビライの武力をチラつかせての脅迫じみた通商要求は無礼だと思うし、黙殺されたとはいえ実際に武力行使に出たことには非難しかないが、それでも杜世忠一行の斬首を受けてフビライが再度の派兵(弘安の役)を決意したことは無理もないと思っている。
せめて、「敵に対して徹底抗戦の意を示す!」という意志を示す為の斬首なら寸分の理解を持たないでもないが、その事実を全く元側に告げなかったことから、時宗に対して「ただ腹の立つ相手を殺しただけ。」との悪意が拭えずにいるのである(一応、時宗が師事した南宋出身の禅僧達が元への怨みから使者殺害を唆したことも付記しておきます)。
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令和八(2026)年四月三〇日 最終更新