第弐頁 鳥居強右衛門………生還に失敗するも役目は大成功

使者File.弐
名前鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
派遣元長篠城
派遣先岡崎城
派遣目的援軍要請
交渉相手徳川家康
遭遇災難帰途の捕縛・処刑


概略 戦国時代、日本各州には、所謂、守護大名がいたが、甲斐源氏の名家である武田家でさえ、甲斐一国を掌中に収めたのは信虎当主時代だった。それというのも、各地に「国人」と云われる地方小豪族が地元に根付いた勢力を持っていたからである。
 彼等は概して、有力守護に力で抗し得ない小勢力ではあったが、土地における累代の縁と周囲との連携から侮りがたい勢力でもあった。そんな国人領主の中に、甲府の武田氏と浜松の徳川氏の間に挟まれた奥三河の地に山家三方衆と呼ばれた一族がいた。
 この頁で採り上げる鳥居強右衛門勝商は山家三方衆の一角である奥平家に仕える者だった。

 奥平家は初め徳川家に仕えていたが、戦国最強とも云われる甲州勢に抗し得ず、武田信玄の代に人質を差し出して服従を誓っていた。だが元亀四(1573)年四月一二日に信玄が陣没すると武田と徳川の力関係は微妙に揺れ動き、結果的に当主・奥平貞能は武田と手を切り、徳川家康につくことを決意し、貞能は家康に忠誠を誓う見返りに、嫡男・貞昌の継室(正室は人質として甲府に差し出されていた)に家康の長女・亀姫を求め、家康はこれに応じた。
 当然武田勝頼はこの背信に激怒し、甲府に居た奥平家の人質は皆殺しにされた。同時に奥平家は様々な意味でどんな窮地に陥ろうと二度と武田側には戻れない立場となった。

 奥平家自体は小勢力だったが、居城である長篠城は甲斐・信濃・三河を結ぶ要衝の地で、同時に小規模ながら天険の要塞でもあった。勝頼は(遺言により伏せていた)信玄の死を訝しがる周辺に対して武田の武威が些かも衰えていないことを示す為にも、長篠城を落とす必要があった。
 かくして天正三(1575)年、勝頼は一万五〇〇〇の兵を率いて長篠城に押し寄せた。これに抗する長篠城の奥平勢は僅かに五〇〇。勿論まともに戦っては勝負にならず、奥平勢は早々に籠城を決め込んだ。

 だが、籠城戦は敵軍に長期戦闘継続能力がないか、味方からの援軍が見込めるときにこそ有効な戦法で、もし家康に長篠城救援の意志がなければただ全滅の時を待つだけでしかなかった。降伏したとしても勝頼が心許さない可能性は甚大だった。
 そしてその勝頼は、名将である父・信玄が落とせなかった高天神城を陥落せしめてその武威を天下に示していた。奥平家では当主の父・貞能が浜松の家康の元に赴いて援軍を請い、城の守りは当主・貞昌が担う事となった。

 援軍要請を受けて、愛娘を守る為にもすぐにでも長篠に発ちたい家康だったが、話は簡単ではなかった。僅か二年前の三方ヶ原の戦いで大敗を喫し、凄まじい恐怖に曝されたトラウマもあって、家康は単独で武田軍と戦うことを可能な限り避けていた。
 高天神城が陥落したのも、盟友である織田信長が援軍を出し渋り、同城を救援出来なかったからで、信長の方でも猛将・武田勝頼を相手に確実な勝算が見えない内は戦いたくなくて、高天神城が陥落するタイミングを見計らって家康の元に到着し、黄金でもって家康の怒りを鎮めていた。

 だが、同じ様にして長篠城を失えば、国人領主達の忠誠が離れるばかりではなく、「娘を見殺しにした男」との汚名も背負いこむ。それは誰もが理解していたので、家康も信長への援兵をせっつき、貞昌以下、長篠城兵も歯を食いしばって苦しい籠城戦を続けた。


出発前 天険と、岳父・徳川家康から送られた大鉄砲(おおづつ)を駆使して籠城戦に耐えていた奥平貞昌だったが、長篠城の二の丸、三の丸が落とされ、兵糧庫も焼かれたことで落城まで持って数日の状況に追い込まれた。
 天正三(1575)年五月一四日、貞昌は岡崎にいる父・貞能の元に援軍要請の使者を発した。その使者に選ばれたのが鳥居強右衛門だった。

 彼が使者に選ばれたのは、彼が水連達者であったからだった。
 長篠城は谷と川に囲まれたことが天険を為していたが、それは同時に交通の便が悪いことを意味していた。武田側でも援軍が来れば一気に不利になるので、城兵の脱出には最大限の警戒網を張り、脱出は不可能と見られていた。
 それを「河童の強右衛門」と異名を取る強右衛門が潜水力を駆使して包囲網を脱し、翌一五日、貞昌との打ち合わせ通り、雁峰山の山頂から狼煙を上げ、場外への脱出成功を城兵に報せた(当然この狼煙は武田軍の目にも止まった)。

 走りに走った強右衛門は岡崎に到着すると貞能、次いで家康と織田信長にも面会すると、三万八〇〇〇の兵を率いてすぐに長篠に向かうとの確約を得た。
 これに力を得た強右衛門はすぐにこの朗報を長篠城兵に伝えたいと告げ、家康から休息を勧められたのにも従わずに長篠に取って返し、一六日早朝に往時と同様に雁峰山頂から狼煙を挙げ、「援軍来たる。」と城内に伝えることに成功し、まずは使者として最も大切な任務を果たすことに成功した。
 だが、前日に上がった狼煙から雁峰山周辺を警戒していた武田勢によって強右衛門は城の西岸の有海村で捕らえられたのだった。


敵陣にて 武田軍とて何も考えずにただ長篠城を包囲していた訳では無かった。
 二度目の狼煙を見た城兵が活気づくのを見て、警戒を強めていたところに鳥居強右衛門が捕らえられて来て、彼を尋問した勝頼は織田・徳川の援軍が迫っていることを知った。
 こうなると城を落とすのは容易ではない。勿論援軍到着前に長篠城を落とせば長篠攻めは成功なのだが、簡単に落とせれば苦労は要らないし、「援軍接近中」の報に城内の士気は大いに盛り上がっていた。

 そこで勝頼は一計を案じ、強右衛門に対し、「狼煙は虚報。援軍は来ないから諦めて城明け渡せ。」と告げれば強右衛門の助命は勿論、城兵の命を助け、武田家で重く取り立てる、と投げ掛けた。これに対して強右衛門は要請に応じ、城の側近くに立つと武田軍に捕らえられたことを城兵に告げた。
 果せるかな、強右衛門は勝頼との約束を反故にし、「数万の援軍は一両日中に到着する!最後まで頑張れ!」と叫んだ。慌てて強右衛門の口を武田兵が塞いだが、城内は更に活気づき、勝頼の目論見は脆くも崩れた。
 さすがにこうなっては勝頼も強右衛門を許す訳にはいかず、「武田に逆らう者はこうなる。」との見せしめとして、磔刑に処された。鳥居強右衛門享年三六歳。


その後 「武田の好意を踏み躙った。」、「武田に逆らうものは皆、こうなる。」との意図で磔刑に処された鳥居強右衛門だったが、ただでさえ「援軍接近中」の報に士気を挙げる城兵は強右衛門の最期に対して、武田軍への怒り、強右衛門に報いんとの意から増々士気を高め、処刑は全くの逆効果だった。まあ、とは云っても展開から処刑せざるを得なかったのも分からないではないが。
 ともあれ、援軍到着までの二日間、城兵は耐えに耐え、遂に城兵と強右衛門の労苦は報われた。

 三日後の長篠の戦いで織田信長・徳川家康の率いる援軍は武田軍を散々に討ち破り、多くの歴戦名将を失った勝頼は奥三河から撤退し、奥平貞昌以下強右衛門を含む長篠城兵は城主の岳父である家康のみならず、信長からも大いに称賛された。
 貞昌は後に信長から「信」の字を与えられて名を信昌と改め、「家康の婿」との立場から子の代には松平姓を名乗ることとなった。当然強右衛門もその見事な最期を賞賛され、信長は彼の為に立派な墓を建て、強右衛門の武士としての矜持を讃え、武田兵で彼の最期の姿を旗印とした落合左平次は後に紀伊徳川家に仕えた。
 一個人としては命を全う出来ず、酷刑に斃れた鳥居強右衛門だったが、使者としての退任は立派に果たし、その名は後世に語り継がれる名誉に浴したのだった。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和八(2026)年四月三〇日 最終更新