第参頁 黒田如水………監禁と息子の危機

使者File.参
名前黒田如水(くろだじょすい)
派遣元播磨三木城
派遣先摂津有岡城
派遣目的反逆翻意
交渉相手荒木村重
遭遇災難監禁


概略 諱は孝高(よしたか)、通称は官兵衛(かんべえ)で、如水は出家名だが、ややこしいのでこの頁では「如水」で統一させて頂く。
 黒田家は播磨の豪族・小寺氏に仕えていて、天文一五(1546)年に姫路に生まれた如水も小寺家に仕えた。

 天正三(1575)年に長篠の戦いで武田軍に大勝したことで前々から織田信長を高く評価していた如水は主君・小寺政職に信長への臣従を勧め、天正五(1577)年に政職の子・氏職の代理として自分の子・松寿丸(長政)を人質として織田家に差し出した。
 その後、信長は羽柴秀吉に中国の毛利攻めを命じたことで如水は秀吉の麾下に入ることとなった。

 だが、小豪族とはいえ、室町時代前期からの名家の血を引く者の多い播磨豪族の向背は定かならず、天正六(1578)年九月に宇喜多直家を調略することに成功した如水だったが、織田家重臣で摂津を任されていた有岡城主・荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城(伊丹城)に籠城し、主君・小寺政職も村重に呼応しようとした。


出発前 織田信長は最終的に天下統一にかなり肉迫するまで勢力を拡大し、その過程で多くの人材を得た。それを一人一人解説すればそれだけで一つのサイトになりかねないが、そんな信長がかなり買っていた人物が明智光秀と荒木村重と云われている。
 それだけに村重の背信に信長は大激怒。当然播磨方面の攻略・調略を担っていた羽柴秀吉はその責を強く問われた。
 上述した様に村重の謀叛には、黒田如水の旧主・小寺政職も呼応する有様で、天正六(1578)年一〇月、如水村重を翻意させるために単身・有岡城に乗り込んだがのだった。


敵陣にて 結果から云えば荒木村重説得は失敗に終わり、黒田如水は有岡城の土牢に閉じ込められた。

 ここで少し話が逸れるが、荒木村重について簡単に触れたい。
 村重は、藤原秀郷の末裔を称する国人で、元は池田氏の家臣だった。
 主家である池田氏が足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長に従ったことで信長の義昭擁立、三好氏からの反撃に対する迎撃、仲違いした信長と義昭との戦い等で信長に協力する内に信長に気に入られ、正式に織田家の家臣となった。
 だが、義昭や石山本願寺と仲が良かったこともあってか、天正六(1578)年一〇月、村重は三木城攻め中の羽柴秀吉軍から突如離反して有岡城に籠った(※村重が謀叛した理由は諸説あります)

 一度は明智光秀、松井友閑等に説得されて翻意し、釈明の為に安土城に向かった村重だったが、途中で寄った茨木城で家臣・中川清秀から受けた進言から、安土に云っても自分の命は無いと考え、有岡城に戻ってしまった。

 一度は説得に応じたことに期待してか、秀吉は村重と旧知の仲でもある如水を使者に選んだ訳だが、恐らく村重の中に再度信長に臣従するという選択肢はなかったのだろう。
 要するに如水ならずとも、誰が云っても翻意は出来なかったことだろう。事実、有岡城落城後に村重は尼崎に籠り、毛利の援兵を受けて信長に抵抗せんとした。また、有岡城に残された村重の一族郎党は信長の命で皆殺しにされており、数々の降伏勧告にも応じず、毛利氏を頼って尾道に逃れ、本能寺の変で信長が横死すると最後は茶人衆の伝手で堺に移り、その地で没した。

 ただ、話の微妙なところは、村重如水を殺さず、さりとて如水の説得に対して否も応も信長方に発しなかったことである。恐らくは如水の身柄を何らかの切り札に使わんとの意図があったのだろう。そして切り札であるが故に如水をどうしたかを伏せたのだろう。  如水を人質に使うなら殺す訳にはいかない。だが、如水が人質として有効かどうかは分からない。敢えて如水の生死・行方を織田方に掴ませないことで、信長がどう出るかを見極めんとしたと思われる。

 だが、監禁状態から救出されるまでの間、如水及びその周囲はとんでもない目に遭った。
 如水が閉じ込められた土牢(←その実在を疑う説もあり)とは、自然の山肌や丘陵を掘り、そこに扉を取り付けて監禁するもので、謂わば、穴倉に閉じ込められたに等しい。
 ただでさえ近代以前の牢獄は不衛生な環境にあったとされているが、門扉以外に人の手の加わっていない土牢は自然そのものの要素が強く、土壌や土中に生きる虫や雑菌もそのままで、人工の牢獄に比べても、衛生環境が悪かったであろうことは想像に難くない。
 しかも如水が閉じ込められた土牢はスペースも狭く、無理な体勢のまま一年半も監禁されたことで片足が不自由になってしまった。

 一方、悲劇は如水本人に留まらなかった。村重如水監禁の事実を完全に伏せたため、織田方では「如水行方不明」以外の事実が掴めなかった。帰って来ない如水に対して信長は「裏切った!」と決め付け、秀吉に対して人質にしていた松寿丸を殺すよう命じた。
 結果的に松寿丸は竹中半兵衛に匿われ、信長には「松寿丸を処刑しました。」と虚偽の報告が為されたのだったが、虚偽がバレれば松寿丸どころか秀吉や半兵衛の命さえ危ぶまれる。それ故に松寿丸助命は黒田家中にも伏せられ、黒田家中はこのまま信長・秀吉に従うか、松寿丸を殺害した(と見做された)信長・秀吉に反逆するかで喧々囂々の論争が幾度も展開された。

 歴史の結果を知っている後世の我々は如水が裏切っておらず、その事実が判明したことで秀吉・半兵衛がこっそり松寿丸を助けたことも許されたのを知っているので、村重への使者として発って失敗した如水の置かれた悲運を余り深刻には捉えない傾向にあるが、如水も、松寿丸も、黒田家中も、何かが一つ掛け違えば誰が死んでもおかしくなく、秀吉とて織田家の重臣で居続けられたか分かったものじゃなかった。

 結局、如水が救出されたのは使者に発ってから一年半後のことだった。


その後 天正七(1579)年一一月一九日、有岡城が落城し、黒田家重臣・栗山(善助)利安等によって黒田如水は救出された。
 一年半の監禁により、足が不自由になっていたものの、如水が存命で、同時に織田信長を裏切っていなかったことを完全に把握した羽柴秀吉は即座に信長に一連の事実を報告した。

 如水が自分を裏切っていなかったことを知り、松寿丸抹殺を命じたことに凄まじいまでの後悔と気まずさに囚われた信長だったが、同時に松寿丸が生きていたことも知らされ、安堵した様に如水への介抱を秀吉に命じ、同時に松寿丸の人質としての任を正式に解いた。

 ここに如水が使者に経ってから監禁に始まる一連の悲運は完全に解決したが、後から知った数々の事実は如水を驚かせまくった。
 土牢に監禁されていた如水は、自分が帰らない黒田家がどんな不幸に晒されていたか全く知る由もなかった(漠然とした不安はあっただろうけれど)。
 実際、本来なら自分が帰らないことで我が子・松寿丸は殺されていた筈であったことを知り、その危機を主命に背くリスクを冒してまで竹中半兵衛が救ってくれたことを知り、感謝してもし切れない謝意を述べ様にもその半兵衛は四ヶ月前に若くしてこの世を去っていた…………冷厳・冷徹な謀略の才を持つとはいえ、根が激情家な如水が様々な想いに捕らわれたのは想像に難くない。
 片足が不自由になったとはいえ、本作で採り上げた「使者の悲劇」の中で如水を襲った「悲劇」はまだマシなものかも知れないが、それも結果論で、チョットしたボタンの掛け違いでとんでもない悲劇に拡大していた事を思うと、誠、戦国時代は酷い時代だったと改めて思わされるものである。


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令和八(2026)年四月三〇日 最終更新