第肆頁 酒井忠次………筆頭家老転落の落ち度
使者File.肆
名前 酒井忠次(さかいただつぐ) 派遣元 浜松城 派遣先 安土城 派遣目的 普請奉行役 交渉相手 織田信長 遭遇災難 事後冷遇
概略 酒井忠次は大永七(1527)年に三河松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城に生まれた。後に主君になる徳川家康の一六歳年上で、元服した時の主君は家康の父・松平広忠にだった。
通称は小五郎、後に左衛門尉と称し、竹千代(家康)が今川義元も元への人質として差し出された時には随行メンバーに選ばれ、その中では酒井正親(同姓だが、忠次とは別系統)に次ぐ年長者だった。
永禄三(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元がまさかの討ち死にを遂げると主君・松平元康とともに三河岡崎に戻り、改姓した徳川家の家老となった。
永禄六(1563)年の三河一向一揆で信仰上の問題から徳川家中の半数が一揆方につき、酒井家でも忠尚を始め多くの者が一揆側に与したが、忠次は家康の元に残った。
永禄八(1565)年には吉田城城代として同地の統治と、東三河の松平一族・国衆を統制する役割を与えられ、永禄一二(1569)年に家康が今川家領侵攻にあたって甲斐の武田信玄と同盟した際には、忠次の娘が人質として武田家に差し出された。
その後も、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いにも尽力し、殊に天正三(1575)年の長篠の戦いにおいて、長篠城を包囲する武田軍の背後に回り込み、鳶巣山砦などを奇襲して陥落させたのは有名である。
このとき、軍議の席で鳶巣山砦奇襲を進言した忠次に対し織田信長は忠次を罵倒したが、これは間者に備えての芝居で、後で家康に忠次を呼び戻させると作戦に対する炯眼を褒め、「本来なら自分が行きたいところ。」としながら忠次に作戦実行を命じた。
周知の通り、長篠の戦いは徳川・織田軍の大勝利に終わり、その後苦戦を重ねつつも七年後に武田家を滅ぼした時には徳川家康は三河・遠江・駿河の三国を領する大大名となった。「三河の城無し」と云われた主君が三国の領主になる過程において家康の片腕とも云える活躍を重ねた忠次は軍事・内政・外交のすべてに活躍し、国外からも一目を置かれる存在だった。
勿論、最重要同盟国である織田家の主君・信長にも知られ、外交上のキーパーソンとして重んじられていた訳だが、ここに酒井忠次の人生における、一生の不覚が待ち構えていた。
出発前 天正三(1573)年の長篠の戦いで大敗して尚、武田勝頼率いる武田家は滅亡まで七年粘っており、その精強さが俄かに崩れた訳では無く、徳川家にとって難敵であり続けた。
その徳川家と同盟を結んでいた織田信長は長篠の戦いの二年前に足利義昭を京都から追放し、浅井長政・朝倉義景を滅ぼしたとはいえ、畿内には寺社勢力を初めとする様々な抵抗勢力が残存し、義昭が頼った毛利輝元とも対峙した。
掛かる状況にあって徳川と織田の清洲同盟の重要性は誠に大きく、徳川−織田家間を、忠次を初めとする数々の家臣が行き来し、同盟の鎹となっていたのが、家康の嫡男・徳川信康と信長の娘・徳姫だった。
永禄一〇(1567)年に共に九歳で婚姻した信康と徳姫だったが、その夫婦仲は微妙なものだった。諸説あるので一般に云われていることを要点だけピックアップすると、勇猛であるが故に粗暴であった信康は徳姫にも厳しく、徳姫の侍女の中には無礼討ちで斬られた者もいたと云う。
また。彼女が二人目の子を産んだ際にまたも女児だったことに怒り、彼女を悪し様に罵り、加えて共に岡崎城で過ごす姑・築山殿は伯父・今川義元の仇である信長を怨んでいて、その娘である徳姫との仲も良好なものとは云い難かったと云われている。
そんな日々に時に耐えかねた徳姫は信康への愚痴を連ねた手紙を父・信長に送り付けた。そのことを知る由もない徳川家臣は、最重要同盟相手である織田信長との交流を、現代における日米関係以上に重要視と慎重さを求められた。
当然、徳川家の筆頭家老である忠次の、信長の前の言はそのまま家康の言と取られることとなり、他の使者よりも一言一言の重みが違った。
敵(?)陣にて 天正四(1576)年、織田信長は丹羽長秀を総奉行とし、最晩年の居城・安土城の築城に掛かった。
各奉行は羽柴秀吉を初めとする織田家の重臣達が務め、徳川家からも酒井忠次と大久保忠世も安土で協力していた。だが、天正七(1579)年、長篠の戦いにおける大敗から挽回を図った武田勝頼が遠江に押し寄せ、信長は忠次と忠世に国元への帰還を促し、それまでの両人の尽力を手ずから労った。
当時正二位右大臣となっていた信長から直々に盃を賜るのは大変な名誉だったが、呑まされたのは酒だけでは済まなかった。所謂、信康事件の始まりであった。
席上、信長は忠次に徳姫からの手紙を初め、様々な伝手で得た信康に関する行状(その多くは粗暴・乱暴な振る舞い、刃傷)、そして信康とその生母・築山殿が武田勝頼と内通しているとの情報を示し、あろうことか忠次はこれを否定せず、認めてしまった!!
四半世紀に渡って拙房を運営していく中、徳川信康を二回、築山殿を一回取り上げ、その都度信康事件を考察したが、考えれば考える程謎が深まる。
一番の謎は、いくらこの時信長の方が家康よりも勢力が強大だったからとはいえ、決して家臣でもない家康に対して嫡男と正室の命を奪うことが命じられたものか?というもので、そんな命令を出した時点で清洲同盟が瓦解しても全く不思議ではなく、瞬時に瓦解せずとも重大なしこりが残って然るべきである(それゆえ、この事件を動機に、本能寺の変の黒幕を家康とする説すらある)。
しかしながら結果として信康は切腹し、築山殿は殺され、清洲同盟は信長の死後も、小牧・長久手の戦いまで維持された。
それゆえ、昨今流布する説・情報・書籍を見ると、「信長は嫡男と正室の処分を家康に一任して、彼自身は命じていない。」、「実際に信康は勝頼と内通し、あくまで家康の判断で信康は切腹を命じられた。」とする説が有力に見える。
最終的に天下を取ったのは家康なので、徳川家の不都合な黒歴史は闇に葬られがちな傾向があるが、嫡男と正室の死を命じたと云う事実はとんでもない黒歴史で、徳川家の歴史を残す役割を担った者達は、ある点は伏せ、ある点は論点をすげ替え、ある点は別説を匂わせ、と様々な労苦を強いられたことは想像に難くない。まして信康事件の様な徳川家中最大事件となると、全貌が明らかになる方がおかしいだろう。
本作は信康事件の解明が主題ではないのでこれ以上は切り込まないが、個人的に一番引っ掛かるのが、忠次が信長の難詰に対し、否定もせず、信康を庇いもしなかったことである。
普通は庇う。
また、信康と徳姫の夫婦仲がどうであれ、信長にとって信康は娘婿で、その死を命じるのは外聞が悪過ぎる(それ故か、上述した様に昨今では信長が切腹を命じていない説が有力なのだろう)。忠次が本気で信康を助けたければそれなりに云い訳は聞いたことだろう。
また、信康を死地においてやる要因となったとされる徳姫の手紙だが、仲睦まじい夫婦でもポイント的な愚痴が出ることは普通にあることで、九歳で嫁いだ徳姫にとって、実父よりもその後一二年間夫婦であった信康の方が普通に大事だろうし、信康切腹後に実家に戻った徳姫は弟達の保護を受け、信長の世話にならず、再婚もしなかったと云うから、信康に対して不服や不満はあっても、妻としての愛情はあり、その死まで願ったとは思い難い。
こうなってくると、そもそも信長から忠次への詰問があったのか?詰問があったとして忠次が唯々諾々と信康の非を認め、処分命令に従ったのか?本当に謎は深まるばかりである。
ただ、忠次の「その後」を思うと、信康事件に前後する忠次の、対信長交渉は使者として、家康名代として、失点が大きかったように思われてならない。
その後 酒井氏は松平氏から派生した支族で、世に云う「徳川四天王」にあって酒井忠次は他の三人(本多忠勝、榊原康政、井伊直政)よりも主家との結び付きが強く、年齢も上で、四天王の筆頭と云っても過言ではない存在だった。
だが、豊臣秀吉による天下統一を経て、大大名となった徳川家康が配下を次々と城持ちに取り立てた際、忠勝が上総大多喜に一〇万石、康政が上野館林に一〇万石、直政が上野高崎に一二万石が与えられたのに比して、隠居していた忠次の子・家次に与えられたのは下総臼井の三万七〇〇〇石で、明らかに格下だった。
この待遇の相違は様々な説があり、簡単には云い切れないのだが、一説に忠次が家康に息子への冷遇を抗議したところ、家康は忠次に「お前も我が子が可愛いか?」と返し、家康が信康を庇わなかった忠次に対し含むところを持ち続けた証左とされている。
もっとも、家次の晩年には越後高田藩一〇万石に移封されており、その時点で本多家が姫路一五万石、井伊家が三〇万石、榊原家が一一万石で、井伊家以外はその後子孫が度々領国替えになっているので、酒井家だけが極端に冷遇されているとは思わないし、上述の家康と忠次の会話も史実かどうか疑わしいと薩摩守は見ている(とにかく信康事件は謎が多過ぎる。)
ともあれ、痛恨の信康事件後も家康と忠次の人生及び主従関係は続いた。
事件の三年後、天正一〇(1582)年三月一一日に、家康は信長とともに宿敵・武田家を滅ぼし、かつて今川義元が領した三国を自らが領したが、それから三ヶ月も経たない六月二日にその信長が本能寺の変で横死した。
決死の伊賀越えで虎口を脱した家康は織田家のごたごたを他所に空白地帯となった甲斐・信濃を巡って徳川・上杉・北条が争う中、忠次は信濃方面で活躍した。
そして天正一二年に小牧・長久手の戦いが勃発し、その和睦で家康の次男・於義丸(後の結城秀康)が大坂城へ送られた際には石川数正と共に同行し、尚も、徳川家の重鎮だった。
だが、寄る年波には勝てず、眼病にてほとんど目が見えなくなったことから天正一六(1588)年一〇月、長男の家次に家督を譲って隠居。
豊臣秀吉から京都桜井の屋敷と世話係の女と在京料として一〇〇〇石を与えられ、八年後の慶長元(1596)年一〇月二八日、同地で死去した。酒井忠次享年七〇歳。
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令和八(2026)年五月一三日 最終更新