第伍頁 陣僧………意思を示すにしてもねぇ

使者File.伍
名前陣僧(氏名不明)
派遣元織田信忠軍
派遣先高遠城
派遣目的降伏勧告
交渉相手仁科盛信
遭遇災難鼻削ぎ・耳削ぎ


概略 この頁で採り上げるのは名もなき僧侶である。
 そもそも合戦には僧侶が「陣僧」として同行するのがこの時代の通例だった。そして(一応は)世を捨てた身ゆえに、中立の立場で敵味方を越えた存在として時に使者となることが珍しくなかった。また、戦死者の菩提を弔うのも大事な務めだった。

 まあ、僧兵なるものが闊歩し、比叡山延暦寺を初めとする大寺院が絶大な武力・経済力・政治権力を要していたこの時代、僧だからと云って現代の感覚で「平和のメッセンジャー」と捉えるのは安直な話だが、建前はそうだった。

 話は逸れるが、江戸時代の奥医師を初め、高貴な身分の者の病気治療に務める侍医が「法体」なのも、世俗を離れた僧の身故に、並の身分の者では畏れ多くて触れることも叶わぬやんごとなき方々の治療が可能とされた。
 戦国武将にも信心深い者は少なくなく、アニメ『一休さん』にて常時エラソーに振舞っている足利義満も、機嫌のいい時は一休に対して、「一休殿」と敬称をつけて呼んでいた。
 それだけ僧侶とは、世俗を超越したもので、世の利害に左右されない存在で、故に殺伐とし、殺気だった敵味方の間を穏便に往来出来る陣僧の存在は便利且つ重要だった。

 ま、世の中には何事も例外という事例が存在する訳だが………。


出発前 天正一〇(1582)年二月、織田信長は嫡男・織田信忠に甲州征伐を命じた。
 既に武田勝頼の義兄弟である穴山梅雪・木曽義昌までもが織田方に寝返り、梅雪を通じて重臣や国人衆達にも調略の手が伸びていた。

 そして織田軍の総大将を務めた信忠だが、彼は本来武田家に好意的な人物だった。
 というのも、信忠の許嫁は武田信玄五女の松姫で、同盟破棄で終生顔を合わすことのなかった信忠と松姫だったが、政略婚約でありながら両者の間には深い愛情が生まれていた。
 それ故に信忠は武田家との同盟破棄や、事を構えることに当初反対していた。だが、甲州征伐における信忠は、織田家総大将として、信長後継者として申し分のない働きをした。思うに、武田家滅亡が避けられないなら、「他人の手に掛かるより、いっそ自分の手で……。」や、「総大将となることで本当に助けたい人は助け、松姫を改めて妻に迎えたい。」との想いがあったのだろう。

 それ故、信忠は土壇場で保身的に勝頼を裏切った小山田信茂を初めとする者達を悪し様に罵って処刑しまくった一方で、信州高遠城に籠る松姫の同母兄である仁科五郎盛信に対しては降伏勧告の使者として陣僧を送った。
 武田信玄の息子・娘達の兄弟姉妹関係には(それぞれの姻戚もあって)なかなかに複雑なものがあったが、概して同母の兄弟・姉妹間は仲が良かった。盛信と松姫は同母兄妹で、信玄病没時に一二歳だった松姫は盛信の元で育ち、武田家滅亡に際して盛信は自分の子供達を松姫に託し、松姫は盛信の子供達と勝頼の娘を率いて八王子に逃れた(結局信忠も武田家滅亡の三ヶ月後に本能寺の変で横死し、松姫は信忠と武田家の人々の菩提を弔い続ける尼僧としての生涯を送った)。

 かかる経緯から見て、信忠は松姫の同母兄である盛信に対して好意的か、そうでなくても松姫の事を想えば「極力殺したくない。」と思っていたのは想像に難くない。
 甲州征伐に臨む信忠が率いる織田軍は五万。それに対し、高遠城に籠る盛信の軍勢は三〇〇〇。中には五〇〇とする説もあり、余程の要害でもなければ勝負にもならない。
 三月一日に高遠城を包囲した信忠は地元の僧侶陣僧として登用し、書状と黄金を持たせて降伏勧告の使者として城内に向かわせた。


敵陣にて 果して、仁科盛信は織田信忠からの降伏勧告を拒否した。
 それも、陣僧の耳と鼻を削ぎ落して追い返すと云う、強烈な拒絶だった

 正直、信忠から盛信に当てた降伏を勧告した書状の中身や、陣僧達が尽くした言説が如何なるものだったのか、薩摩守には分からない。ただ降伏を拒絶するだけなら、「No」の意志を口頭で回答するだけでも事足りるし、書状を陣僧の前で破り捨てるだけでも意は通じる。
 強い拒絶を示すにしても、陣僧を棒で袋叩きにするぐらいなら殺伐とした戦国の世にあって辛うじて許容範囲かも知れないが、切り落とされたら取り戻せない耳や鼻を削ぎ落したのは時代を考えて行き過ぎである。それも中立である筈の陣僧に対して行ったのである。
 道場主が初めて仁科盛信の存在を知ったのは武田家五姉妹の悲劇を扱った大映ドラマ『おんな風林火山』でのことだったが、このとき岡野進一郎氏が演じた盛信は本当にカッコ良かった(岡野氏が演じる役所はどちらかと云えば御人好しキャラが多い)。
 このドラマにおいて盛信は信忠からの降伏勧告書状を一瞬の迷いも見せずに重臣達の前で破り捨て、彼等と水杯を交わすと織田軍の猛攻に獅子奮迅した果てに自害した。さすがゴールデンタイムで放映するドラマで使僧の耳や鼻を削ぎ落すようなシーンは憚られたようである(苦笑)。

 全然関係ないが、盛信が降伏勧告を拒絶したちょうど三八一年後に岡野氏はこの世に生を受けている。奇しき因縁…………なのかなあ……???


その後 這う這うの体で帰陣した陣僧から、仁科盛信が降伏勧告を断固として拒絶したことを知った織田信忠は翌三月二日に高遠城に対する総攻撃を下知。
 において一門・譜代重臣・国人衆までが次々と離反する中、盛信と彼の率いる高遠城兵は最後まで徹底抗戦した。結局奮戦空しく城はたった一日で落城したが、織田勢も数百の戦死者を出したと云われるから、もし高遠城兵が最小見積もりである五〇〇で抗戦したのなら、一人一殺の奮戦をしたことが見て取れる。

 盛信の首はその後勝頼を初めとする武田一族の首級と共に京都に送られ晒されたが、胴体は高遠の住民によって懇ろに葬られ、埋葬された地は仁科五郎盛信の名に因んで「五郎山」と名付けられたと云うから、盛信は高遠の民に慕われていたのだろう。
 それだけに、盛信陣僧に対して行った苛斂誅求が誠に残念という他はない。


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令和八(2026)年五月一三日 最終更新