第陸頁 三重臣………先走り思考が招いた猜疑心

使者File.陸
名前岡田重孝(おかだしげたか)・津川雄光(つがわかつみつ)・浅井長時(あさいながとき)
派遣元清州城
派遣先三井寺
派遣目的和睦交渉
交渉相手羽柴秀吉
遭遇災難内通を疑われての誅殺


概略 岡田重孝(おかだしげたか)、津川雄光(つがわかつみつ)、浅井長時(あさのながとき)…………こいつらをメインに取り上げるのはこれが最初で最後だろうなあ………(苦笑)。
 この三名の身分は織田信雄の重臣である。

 三人もいるし、詳細を書くととんでもない分量になるので本当に「概略」に留める。そもそも詳細、分からんしな(苦笑)。
 まず、岡田重孝だが、生年は不詳で、尾張源氏の末裔を汲む山田氏の後裔として尾張に生まれ、初め信長に馬廻りとして仕えた。
 天正元(1573)年に信長が朝倉義景を滅ぼした際に、その追撃戦で父・重善と共に活躍したのが歴史における初出で、信長が本能寺の変で横死すると清洲会議の結果、その次男で、尾張の遺領を継承した織田信雄の家老、星崎城(現:名古屋市南区)城主となった。
 翌天正一一(1583)年、父の死去により家督を継いで当主となっていた。

 津川雄光も生年不詳だが、血筋で云えば元は織田家の主筋にあたり、当初は斯波義冬と名乗っていた。実父は足利氏の一門で室町幕府三管領筆頭の斯波家当主で、正式な尾張守護・斯波義統(よしむね)。義統の子で守護を継いでいた兄の義銀(よしかね)が戦国の下克上で斯波家が尾張を追われると傍流の津川氏を称し、そのまま信長に仕えた。

 信長からは器量を見込まれ、信雄の家老に任じられ、信雄から「」の一字を与えられ、雄光と名を改めた。尚、雄光の妻は信雄が養子入りしていた北畠具教の娘で、信雄の妻の姉でもあり、雄光と信雄は相婿の義兄弟でもあった。
 天正四(1576)年、信雄は信長の命で北畠家を乗っ取り(三瀬の変)、それに際して雄光は田丸城において長野具藤・北畠親成といった北畠一族を数多く討ち取る活躍をした。
本能寺の変後、信雄が信長の遺領・尾張を継承する雄光は信雄の築いた松ヶ島城(現・三重県松坂市)を預けられ、南方の奉行とされた。

 最後の一人、浅井長時だけは生年が永禄一二(1569)年であることが分かっている。
 信長の義弟で有名な浅井長政の近江浅井氏とは遠縁であった尾張浅井氏にて、浅井政貞の子として生まれた。
 天正九(1581)年に父・政貞が没し、一三歳で家督を継承し、尾張衆として織田信忠の軍団に組み込まれたが、信忠は本能寺の変で信長と共に落命し、長時は尾張を領した織田信雄に仕えた。

 かように三者三様、織田信長に仕え、尾張に地縁があったことから信長横死後に終わりを継承した信雄の家臣となった。
 思うに、清洲会議の結果、信長が獲得した広大な領土は信長の遺児のみならず、羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家と云った重臣達にも配分された為、尾張・伊勢に広大な領土を持ったとはいえ、織田家家督継承からは早々に外されていた信雄には頼りになる仲間が欲しかったことだろう。だが、この脆弱な人的基盤は後々信雄及び三家老の悲劇にも繋がった。


出発前 事の始まりは、主君・織田信雄と羽柴秀吉の対立である。
 信雄の父・信長は生前既に長子・信忠に家督と岐阜城主の座を譲っていた。信長が本能寺の変で横死した際に、もし信忠が生き延びていればそのまま信忠が織田家を継承し、重臣達もそのまま信忠に仕えていたであろうことはしばしば人口に膾炙する話である。
 だが、周知の通り、信忠も二条御所に自害し、織田家の家督及び遺領相続は清洲会議にて揉めに揉めた。

 織田家にとって悲劇だったのは、信忠の遺児で信長嫡孫だった三法師(秀信)がこのとき、僅か三歳だったこと、そして信雄と弟・信孝の仲が極めて悪かったことに在った。
 信長三男・信孝は本来なら同年に生まれた信雄の兄だったが、母親の身分の為に三男とされてと云われており、その出自や、共に北畠家や神戸家に養子入りしてその家を乗っ取った経歴の酷似から兄弟と云うよりも織田家での立場を巡る敵対関係とさえ云えた。
 ただ、伊勢方面で尽力した信雄は伊賀攻めの失敗などで、父・信長の覚えも目出度からず、早々に信長後継者候補から外されていた。
 そんな背景にあって、「信長公の後継者を誰にするか?」という議題を巡り、信孝が柴田勝家の後押しも受けて最有力候補の一人となったが、周知の通り、信長の仇・明智光秀を討った手柄で発言権を強めていた羽柴秀吉の主張に丹羽長秀が同調したこともあり、三法師が後継者となり、信孝には信忠の遺領・岐阜が与えられ、尾張を継承した信雄は信孝に対抗する意味でも秀吉と共に三法師を後見した。

 幼い三法師が織田家の後継者となった理由には、「信長嫡孫」という血統上の名分もあったが、信雄と信孝の仲が悪過ぎたということもあったと云われている。
 結局、秀吉が明智討伐の功績と三法師後見の立場をたてに信長の百箇日法要を主催するなど、信長後継者の如き振舞いが目立ち出した。この時の法要は名目上、秀吉の養子で信長四男だった羽柴秀勝が喪主だったが、秀吉が主宰したのは誰の目にも明らかで、これに反発した柴田勝家と後妻・お市の方(信長妹)は参列しなかった。
 遂には、信孝は勝家と組んで秀吉と戦い、当然の様に秀吉には信雄が味方した。だが賤ヶ岳の戦いで勝家は大敗し、後ろ盾を失った信孝も秀吉の降伏勧告に応じた。
 信長の遺児であることから命は奪われまいと見ていた信孝だったが、秀吉は信雄を通じて信孝の切腹を命じ、信孝は憤死に近い自害を遂げた。そして主筋に当たる一族にまで死を命じる秀吉に対し、信雄は遅きに失した疑念を抱いたのだった。

 天正一三(1585)年、大坂に安土城を凌ぐ巨城・大坂城を築いた羽柴秀吉は信雄を招いた。勿論いきなり呼びつけては「主君の遺児」に対する甚だ無礼な振る舞いとなる。秀吉は茶会を通じて面識のあった岡田重孝津川雄光に書状を寄越し、「信孝様の最期の様子を聞きたい。」、「新城をお見せしたい。」との名目で、「中将(信雄)様にそうお勧めして欲しい。」としていたが、如何に体裁を取り作ろうと、主筋の者を呼びつけていることに変わりはなかった。
 誘いに激怒した信雄は重孝雄光浅井長時・滝川雄利の四家老に秀吉への詰問を命じた。


敵陣にて この頃、羽柴秀吉の元に使者として出向くと云うのは極めて難題だった。
 というのも、秀吉が生涯を通じて軍事・外交に謀略の冴えを見せ、人たらし男の本領を最も発揮していたのが中国征伐から天下統一にかけてだった。
 秀吉の元を訪れた者は巧みに「秀吉に通じている。」との噂を流され、ある者は城内に居場所を失くし、ある者は本当に秀吉に通じた。一説には徳川家康の重臣でありながら唯一秀吉に寝返った石川教正も、巧みに秀吉への内通をでっち上げられたと云われている。ともあれ、秀吉はそうすることで敵国の重臣を自陣営に取り組む、それが上手くいかずとも、敵側にて有能な臣が失われる、または団結が乱される、という展開を巧みに作り上げていた。

 大坂城にやって来た岡田達に対し、秀吉は信雄を呼びつけたことが無礼な振る舞いであったことをあっさり認め、いずれちゃんと自分で信雄と面会し、詫びたい旨を伝えると大坂城を披露して彼等を歓待した。
 秀吉は三井寺で信雄と面会したいと伝え、表面上、三家老と滝川雄利は「秀吉に非礼を認めさせる。」という役割を見事に果たした。だが、これが心からの詫びと臣従だった訳でなかったのは後々の歴史を知る我々には周知である。
 秀吉は大坂城を披露しつつ現在の自分の力を大いに見せつけ、例によって裏では三家老秀吉に通じているとの噂を流し、徐々に三家老の織田家での居場所を奪っていた。


その後 詰問の使者としての大任を果たした岡田重孝津川雄光浅井長時、滝川雄利だったが、帰城した滝川を除く三家老に対する視線は既に冷ややかだった。
 四人で出掛け、一人だけ疑念を免れたのは些か不可解だが、一説によると羽柴秀吉は大坂城で四人と面会した折、岡田達に起請文を提出させたが、滝川だけが出さず、三家老が疑われることになったと云われている。
 だが、薩摩守は懐疑的である。重大な会談の場で四人中一人だけが異なる行為を取ったというのが不可解で、異なる行為があれば、その時の行為を「是」とされなかった片方が詰問に会う。

 ともあれ、三井寺にて秀吉は信雄に対して呼びつけの非礼を詫び、信雄に対して異心がないことを誓い、信雄・秀吉会談は滞りなく終わった。
 山岡荘八原作『徳川家康』では、会談後、秀吉は信雄の為に尾張の末森城を改築したいので、そのことについて三家老と会談したいとした。このとき、三家老は主筋を蔑ろにし、歓待すると見せかけて自分達を窮地に追いやった秀吉を討ち果たさんとしたが、会談の場では秀吉の両脇を加藤清正と福島正則が固め、会談にて秀吉と信雄の器の違いをまざまざと見せつけられて、秀吉と敵対すべきでないと考える様になった。
 だが、既に三家老を疑っていた信雄は、秀吉抹殺を実行しなかったことで完全に三人を裏切ったと見做した。
 直後の軍議の席で、徳川家康と組んで秀吉と戦うことに反対した三家老秀吉と敵対しないことを勧め、その為には自分達が秀吉の元に人質として赴くと投げ掛けた。

 だが、この提案は信雄及び、他の信雄家臣の目には「秀吉の元に逃げようとしている。」と映り、信雄は、「やっぱりな。」と云わんばかりに滝川達に三家老の誅殺を命じ、三家老はその場で斬り殺された。
 勿論秀吉はこの誅殺を自分への敵対行為と見做し、小牧・長久手の戦いに繋がった。

 戦いは長久手における家康の大勝もあって、膠着状態に陥った。これに対して秀吉は政治力を用いて信雄に和睦を持ち掛け、あろうことか信雄は家康に無断でこれに応じたことで家康も継戦の理由を失くした。
 この時の単独講和、天下統一後に尾張にこだわって改易されたこと、信長生前に既に後継者レースから外れていたこと、加えて頼りになる筈の三家老秀吉の謀略にって誅殺したことなどから織田信雄という人物は一般に「英雄・信長に似つかぬ不肖の息子」と見られがちである(一概にそうなのかどうかはまた作品を改めて語りたい)。
 だが、三家老誅殺を、滝川初め信雄家中の誰も止めなかった(どころか率先して加わった)ことや、徳川家切っての能臣・石川教正ですら内通を巧みにでっち上げられたことを考えれば、秀吉の方が、役者が一枚も二枚も上手だったと見るべきだろう。
 ただ、そんな謀略を受けながら秀吉の元に赴こうとしたのであれば、三家老の誅殺への同情は些か薄れるのが薩摩守の思う所である。命ぜられたのであればともかく、自分で「行く」と云えば、そりゃ、疑われますよ旦那………。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和八(2026)年六月六日 最終更新