第漆頁 片桐且元………二枚舌外交に翻弄された傅役

使者File.漆
名前片桐且元(かたぎりかつもと)
派遣元大坂城
派遣先駿府城
派遣目的方広寺正銘事件釈明
交渉相手徳川家康
遭遇災難内通を疑われて出奔(事実上の追放)


概略 弘治二(1556)年、近江の国人領主・片桐直貞の長男に生まれた。幼名は助作

 天正元(1573)年、近江小谷城主・浅井長政が織田信長によって滅ぼされると北近江が信長重臣・羽柴秀吉に与えられた。
 念願叶って一国一城の城主となった秀吉は居城を築いた今浜を、主君の一字を取って「長浜」と改めると新規召し抱えを行った。それまで秀吉の家臣と云えば、弟・小一郎秀長を初めとする身内、遠縁や地元で所縁のあった加藤虎之介(清正)や福島市松(正則)と云った子飼い、そしてそれまでの出世中に召し抱えた蜂須賀小六や竹中半兵衛等がいたが、大身化するに伴い、人材は更に必要となり、近江の地で石田佐吉(三成)、大谷紀之介(吉継)、藤堂高虎といった者達が新規に召し抱えられる中、旧浅井家家臣であった片桐且元且元は何度か改名していますが、時期が不明なため、本作では「且元」で通します)の姿もあった。

 且元の名が秀吉重臣として高名になったのは天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦いである。戦功で五〇〇〇石を賜った福島正則を筆頭に、加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長康・粕屋武則、そして片桐且元が三〇〇〇石を賜り、その名を挙げた。所謂、「賤ケ岳の七本槍」としての武勲である。
 天正一四(1586)年に従五位下・市正(いちのかみ)に叙任された且元はその後の秀吉による天下統一事業において主に平坦面にて奉行として活躍した(←勿論戦場でもちゃんと活躍します)。

 慶長三(1598)年八月一五日、秀吉は、且元を初め、五名の家臣を秀頼傅役として命じ、三日後に薨去した。同じ「賤ケ岳の七本槍」に数えられた清正達が二〇万石クラスの中堅大名となる中、且元の石高は播磨、摂津、伊勢に点在する一万石のみだったが、大坂城番の城詰として常に秀頼に近侍すると云う名誉に浴していた。

 秀頼が大坂城に移ると、且元は秀吉がそう望んだように、五大老筆頭である徳川家康の力を借りて秀頼を盛り立てんとして、大坂に屋敷を持たない家康を自邸に泊めて懇意に勤めた。
 関ヶ原の戦いの前哨戦となる大津城攻めでは兵も出したが、戦後の論功行賞で家康は、秀頼と淀殿を「戦と関係なし。」とし、秀頼に近侍する且元も特に咎めを受けず、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の融和に尽力した。

 慶長六(1601)年一月に家康から加増を受け、二万八〇〇〇石の領主として大和竜田城を居城とし、閏三月に小出秀政とともに豊臣宗家の家老に取り立てられ、弟・貞隆も一万五〇〇〇石と茨木城を与えられた。
 以降、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となり、大坂総奉行と呼ばれた。秀吉生前同様、検地などに尽力する一方で、寺社奉行も兼任し、豊臣公儀の政策だった畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組んだ。
 慶長九(1604)年に小出秀政が没し、唯一の家老として豊臣家の外交・財政を一手に取り仕切った。且元が取次者となった秀頼の発給文書が多数現存しており、淀殿も「秀頼の親代わりとなって欲しい。」、「(且元の忠節は)命ある限り忘れることはない。」と手紙に記している。

 だが、主家・豊臣家及び家中からの厚き信頼は一つの事件、そしてその釈明の使者として旅立ったことで無残にも瓦解した。所謂、方広寺鐘銘事件である。


出発前 方広寺とは、現・京都市東山区に豊臣秀吉が築いた天台宗の寺院で、焼失したものを、秀頼と淀殿が秀吉への供養の念を込めて再建に務めていた。
 慶長一九(1614)年八月三日を大仏開眼供養に日に、そして秀吉の命日である八月一八日が本堂供養の日とされたが、これに対して徳川家康は延期を命じて来た。
 寺の鐘に家康が呪った銘があると云うのが理由だった。「国 君臣豊楽」に対して、「家康」の名を裂いて呪い、「豊臣」を「君」として「楽」しむものだとしたのである。史観により様々な見方があると思うが、薩摩守は「豊臣家を滅ぼす戦を無理矢理にでも起こす為の阿呆みたいな因縁」と見ている。
 贔屓武将・塙団右衛門の師・海山元珠(大竜和尚)が「是非なき僻事」と述べているのを支持していると云うのもあるが(笑)、「国家安康」も、「君臣豊楽」も目出度い字を連ねた普通の四字熟語で、何より「徳川家を呪った!」と云われた鐘銘が今も方広寺の鐘に残っているのである。本当に徳川家への呪詛とされたなら、豊臣家滅亡と同時に鐘ごと撤去されている筈である(この事件が因縁かどうかについては、拙房を閲覧頂いている方から、因縁であることを否定し、「敢えて残したとの説があります。」との指摘を受けたことがありますが、本筋ではないので、ここでは割愛します)。

 ともあれ、理由がどうあろうと、大御所・徳川家康の怒りを買ったというのは由々しき一大事である。心情的に幾ら徳川の下風に立つのを良しとしたくなくとも、六五万石の一大名に等しい豊臣家が(少なくとも単独では)まともに戦える相手ではない。最終的には大坂の陣開戦、豊臣家滅亡に至ったとはいえ、端から「徳川と戦いたい!」と思った者はいなかった。
 当然、釈明の使者が家康の元に送られることになり、その大任が片桐且元に託された。


敵陣にて 慶長一九(1614)年八月一九日、本来なら亡き主君・豊臣秀吉の一七回忌を執り行っていた筈だった日の翌日に片桐且元は駿府に到着した。
 何とか徳川家康の誤解と怒りを解かんとした且元だったが、家康に会うことは許されず、代わりに面会した金地院崇伝も聞く耳持たずの態度に徹した。ではどうすれば良いのか?という且元に対しても、「そちらで考えること。」として取りつく島がなかった。

 一方、且元一人では不安に思っていた淀殿は自分の乳母で、大野治長の実母でもあった大蔵卿局を駿府に派した。だが、これは裏目に出て、家康に謀略手段を与える事になってしまった。
 且元には面会も許さず、崇伝にも「聞く耳持たず。」の態度を取らせた家康が、大蔵卿局には快く会談し、秀頼母子に対して決して悪く思っていない旨を告げ、彼女を安心させた。
 九月八日、崇伝は且元と大蔵卿局両名の前で、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審のないような対策を決め、江戸に盟約書を参じて貰いたい。」とし、九月一二日に両名は帰坂した。

 結局、且元家康にも会えず、徳川方から何の言質も確約も得られず、家康の怒りを説く為の方法を彼なりに考えた(←崇伝が助言したとの説もある)が、家康の歓待から事を深刻に考えていなかった大蔵卿局の報告が使者としての且元を更なる窮地に立たせた(一応、近年の研究(←道場主「また「近年の研究」かよ。」)では、且元と大蔵卿局は一緒に崇伝と遇い、二重対応は無かったとの説もあります)。


その後 大坂城に戻った片桐且元は、徳川方の頑なな態度を報告し、徳川家康の怒りを解いてこの状況を打開する為の方策を三つ提案した。
 それは、「豊臣秀頼が大坂城を出る。」、「淀殿を人質として江戸に差し出す。」、「秀頼が他の大名達同様江戸に参勤する。」というものだった。だが、当然と云おうか、この提案に豊臣家中は激怒し、「到底受け入れられない。」とした。

 巨城・大坂城に籠ることが徳川方に不安を与えるであろうことや、前田利長が母・お松を江戸に人質に出した例、決裂したが大坂冬の陣における講和交渉中に豊臣方から「淀殿を人質として江戸に赴かせる。」という提案がなされたことなどを考えると且元の考えは取り立てて滅茶苦茶とも、屈辱的とも思わないし、駿府からの帰路にて且元と大蔵卿局が話し合ったとの説もあるが、通説に従うなら、且元の考えは、「徳川に媚びたもの」、ないし「徳川の意を受けたもの」と取られ、大坂城内は「徳川に通じている。」、「もはや豊臣家の家老にあらず。」との空気が充満した。

 九月二三日、淀殿の従兄で、大坂城に詰めていた織田信雄から且元の元に襲撃計画があることが知らされた。屋敷に篭って守りを固めた且元だったが、秀頼からの武装解除を命令に応じなかったことで寺に入って隠居するよう命じられた。
 同月二七日に且元は大坂城外の下屋敷に移り、そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎ作業を行い、一〇月一日の明け方頃、一族・家臣を引き連れ、弟の貞隆と共に大坂より退去した。
 つまりは現代企業で云うところの解雇通告に基づいて、業務の引継ぎを終えて退去した訳だが、このとき且元こそ平服だったものの、貞隆以下家臣達は皆武装をし、四〇〇〇人程の従者の中で、約三〇〇名が火縄を突けていつでも発射出来る鉄砲を構えていたと云うから、かなりの物々しさだった。

 この追放に等しい且元の退去に秀頼は、幕府や京都所司代・板倉勝重に対して「且元に不届きがあった。」と届け出て、了解を求めたが、却って幕府側に対して、「徳川・豊臣両家の為に尽力した且元を放逐したのは敵対的行為。」という云い分を与えてしまう事となった。
 結局、且元は完全に豊臣家を裏切ったものとされ、板倉に救援を求め、大坂冬の陣に至った。家康且元に先鋒を命じ、且元は大坂城への物資搬入封鎖、絵図の制作等に尽力した。
 殊に一二月一八日の備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃では、淀殿の近くに着弾し、数名の侍女が即死したことで淀殿の戦意は萎え、講和が成立。この手柄を賞された且元は一万石の加増を受けた。

 だが、周知の通り、この講和は長続きせず、翌年四月には大坂夏の陣が勃発した。
 同年正月に隠居を願い出ていた且元だったが許されず、五月六日午後、道明寺に到着すると七日早朝、久宝寺で貞隆の隊に合流し、岡山口への布陣を命じられた。
 だが、勝負は既に決しているも同然だった。且元が道明寺に到着した頃には同地で後藤又兵衛が討ち死にしており、布陣した日には真田信繁(幸村)も戦死し、大坂方は軍事的な抵抗力を失っていた。
 大坂城は炎上し、このタイミングで且元は最後の賭けに出た。

 要するに、秀頼・淀殿が潜伏する場所が山里廓であることを将軍・秀忠の元に密訴し、自らが山里廓攻めを命じられることで豊臣母子助命を果たさんとしたのだったが、且元は任じられず、降伏交渉も決裂した結果、秀頼・淀殿・大野治長・大蔵卿局・毛利勝永・速水守久等二七名は自害し、廓は炎に包まれ、遺体は判別不能なまでに焼き尽くされ、豊臣家は滅亡した。

 五月二一日、大野治房に連れられて城外に逃れていた秀頼の子・国松が京都伏見で捕らえられ、翌々日に斬首された。その後、遺体は秀吉の側室であった松の丸殿(京極竜子)によって引き取られ、京極氏所縁の京都市中京区の誓願寺に埋葬されたが、これを手引きしたのは高台院(北政所)と且元とされている。
 そして国松斬首の五日後、且元は京屋敷にてこの世を去った。片桐且元享年六〇歳。

 且元の死は、一応は労咳による病死とされているが、薩摩守を初め、豊臣家への追い腹を切ったものとみる傾向は強い(過去作『切腹十選』参照(笑))。
 且元の命日は秀頼・淀殿母子の死から三七日に起きたもので、秀頼遺児・国松の最期を見届けた直後のことである。
 ただ、且元が病身だったのも間違いない話で、家康が彼に医師を送っていた史実がある。これも過去作で述べたことだが、豊臣家存続に尽力しながら、双方から白眼視された且元の板挟みによるプレッシャーは尋常じゃないものがあったのは想像に難くない。
 そしてそんな且元に対する見方や評価は、家康をどう見るかでかなり左右される。

 昭和五〇年代〜平成初期の大河ドラマを初めとする歴史ドラマ・歴史小説では徳川家康を「乱世の終息を願った平和主義者」として描かれることが多く、にも関わらず豊臣家を滅ぼさざるを得なくなった責を且元に求める傾向が強い。
 関ヶ原の戦いにて、豊臣家と徳川家の力関係も立場も完全に入れ替わったが、それを受け入れられない頑迷な豊臣家中、その軋轢から再度戦働きの場が巡ってくることを期待する浪人衆が巨城・大坂城を頼りとし、徳川への反骨を収めない………そんな中、家康は秀頼が今の立場を受け入れ、大坂城を退去すれば浪人衆の野心を奪うことも出来る。そうすれば家康とて、可愛い孫娘・千姫の婿である秀頼を悪く思う筈がない。そんな背景の下、その説得役を託されたのが片桐且元だった訳だが、殺気立つ大坂城内の雰囲気を宥める事が出来ず、江戸に対して譲歩する案を口にすれば豊臣方からは「徳川に通じた。」と噂され、家康からは「何故秀頼殿にしっかりと現実を伝えない!」と叱責され、豊臣家が滅びたのは半ば且元のせいにされる………(と云い切るのは語弊があるが)。

 一方、江戸幕府安泰の為に、どんな云い掛かりを付けてでも自分が生きている内に豊臣家を滅ぼさんとした策謀家としての徳川家康像を採るドラマや漫画では、且元は哀れな犠牲者である。
 初めから豊臣家を滅ぼす気でいた(と想定される)訳だから、豊臣家が到底受け入れられない無理難題を次々に突き付け、四字熟語にまで云い掛かりを付ける。方広寺鐘銘事件後の、家康への説得案(大坂城退去、淀殿人質、秀頼参勤)も且元が考えたものとされていて、それが為に且元は家中から「それでも豊臣家の家老か!」との罵声を浴びせられた訳だが、この案は「大蔵卿局とも話し合ったもの」との説もあれば、「金地院崇伝に唆されたもの」との説もある。
 前者なら、妥協案への怒りを一人で背負い込まされた訳で、後者なら完全に徳川の罠に嵌ったことになる。
 家康陰謀家説を採るなら、且元ではなく、誰が使者に発っても到底受けれられない服従条件を突き付けられ、大坂の陣は避けられなかった訳で、使者に選ばれた段階で且元の運は尽きたことになる。
 世の中には謀叛人と疑われての誅殺を恐れて大坂城を退去した且元を不忠者と見る向きもあるが、且元出奔に前後して、淀殿の血縁である織田有楽・織田常真(信雄)も出奔している。「犬死したくない。」と考えるのも自然な話だろう。

 長くなったが、方広寺鐘銘事件釈明の使者に選ばれたことは間違いなく片桐且元の不幸だった。その後の彼の言動を是と見るか非と見るかは難しいものがあるが、且元がかなりの板挟みに苦しんだこと、決して豊臣家滅亡を望んではいなかったこと、は間違いないだろう。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和八(2026)年六月六日 最終更新