第壱頁 日露和親条約

条約名日露和親条約(にちろわしんじょうやく)
締結時の国家機関日本側江戸幕府
ロシア側ロシア帝国
調印者日本側筒井政憲(大目付格)・川路聖謨(勘定奉行)
ロシア側プチャーチン(提督)
時の国家元首日本側孝明天皇・徳川家定(徳川幕府第一三代将軍)
ロシア側ニコライ?世
締結年月日安政二(1854)年一二月二一日
締結場所日本・伊豆下田長楽寺
備考ほぼ同じ頃に日米、日英、日蘭間にても和親条約が締結された。
条文内容(クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)



背景 嘉永六(1853)年の黒船来航に端を発しているのは言うまでもなかろう。
 第参代将軍徳川家光の時代(←注:家康ではない)に確立した鎖国体制がこの時から崩壊に向かった。二〇〇年に及ぶ鎖国ゆえ、いきなり「異人」との交流を持つことに拒絶反応を持った者は数多く存在したが、西洋の進んだ軍事力・技術力を前に抗し得ずと見た幕閣は開国に応じ、翌嘉永七(1854)年三月三日に日米和親条約が締結された。

 半ば脅しに屈した形のものとはいえ、開国となると対象となるのは一ヶ国で収まる筈が無い。ペリー以前にも西洋列強はアジア進出(=侵略)を何百年にも渡って行っており、純粋に交易を求めたり、隙あらば植民地化を狙ったり、で日本を的としていたのはアメリカに限らず、ロシア帝国からもレザノフプチャーチンラクスマンが根室や長崎に来航していた。
 アメリカは捕鯨の為の給水・給炭基地として日本の港を求めていた(←そんな歴史がありながら日本の捕鯨にヒステリックなイチャモンを付けるのだから、呆れたものである)ので、祖法からも開国に消極的な日本としては限定的な交流にしたかったのだろうけれど、米国以外の国が米国のみとの締結に納得する筈が無く、同様の条約が露英蘭との間に結ばれた。  特にオランダは鎖国中も限定的ながら交流があり、黒船来航以前にオランダ国王が「このまま鎖国を続けるのは危ない。」との書簡を将軍に送っているのだから、アメリカとの間に認めたことをオランダとの間に認めない訳にはいかないだろう。
 各国間との条約締結が日米和親条約に端を発した連鎖的なものであるのは、締結日を見れば一目瞭然であろう。

条約名締結年月日備考
日米和親条約嘉永七(1854)年三月三日 取り敢えずは捕鯨用の薪水供給基地を確保するのが目的。交易については後々に別途条約を締結。
日英和親条約嘉永七(1854)年一〇月一四日 アヘン戦争等の戦果で対印・対清交易(と侵略・収奪)に専念していたので、当初、対日交流は熱心でも無かった。
日露和親条約安政元 (1855)年一二月二一日 本頁で詳しく解説。
日蘭和親条約安政二(1856)年一月三〇日 この条約締結により、オランダ商人は長崎の出島から出られることになった。



注目点 前述の各条を簡単に触れると以下の様になる。
第一条 普通に相手の安全を守ろう。
第二条 領土問題について。
第三条 開港地について
第四条 難船漂民に対する規定。
第五条 滞日時の生活必需品の現地調達について。
第六条・第七条 有事の対処について。
第八条 ロシア人の犯罪について。
第九条 最恵国待遇について。

 注目すべきは第二条、第三条、第八条、第九条だろう。中でも日露交流について特に注目するのは第二条、第三条と云えよう。
 第八条のロシア人の犯罪者に対する規定は、早い話治外法権である。日本国内で罪を犯したロシア人を拘束することは出来るが、ロシア側に引き渡さねばならず、日本側で裁きに掛けることが出来ない。また、第九条の最恵国待遇は、それ自体は問題が無いのだが、日本からロシアに対する事しか規定されておらず、片務的なのが問題である。
 とはいえ、この二条、確かに問題は問題なのだが、日露間に限ったものではなく、治外法権(領事裁判権)・関税自主権・片務的最恵国待遇が後々条約改正における重要事項だったのは周知の通りである。
 それゆえ、これ以上詳しく解説はせず、日露間に独特だった第二条、第三条について考察したい。

 第二条にて、開港地が箱館・下田・長崎の三港となっており、日米和親条約で規定された箱館・下田より一港多いが、これはウラジボスークの存在があればであろう。
 アメリカから日本に来る船は、太平洋側に接岸することになるだろう。特定の地に対する特別な目的でもない限り、わざわざ津軽海峡や関門海峡を大きく回って日本海側に接岸するのは燃料と時間の無駄だろう。だが、ロシアはその(特に東西に)広大なる故、サンクトペテルブルクを本拠とした、「地中海→アフリカ東岸→アフリカ南端→インド洋→東シナ海」のルートで太平洋側から下田に来航するものと、カムチャッカ方面から太平洋を渡って函館に来航するものと、ウラジボストークから日本海を渡って長崎に来航するものとが選べる。
 現代でも、ウラジボストークと新潟間の日本海を往復する航路は日露間の重要な貿易航路で、新潟市にはロシア人が数多く見られる。
 まあ、一言で言えば地理的要因なのだが、日露・日ソを結ぶ道は単純ではないと云うことがこの条約からも分かる。

 そして何といっても独特且つ肝と言えるのが第三条であろう。
 日ソ・日露の交流にあって、現在も順調な交流の深刻な足枷になっているのは領土問題であるのは誰もが知るところである(まあどこの国とどこの国の間でも領土問題は頭の痛い話なのだが)。
逆の言い方をすれば、領土を巡って両国が鉢合わせたところから双方が真剣に交流を考えるようになったと言える。まあ、アイヌ・ウィルタ・ニブフと云った民族の立場に立てば、日本もロシアも侵略者なのだが

 ともあれ、日本は北方に、ロシアは東方・南方に勢力を拡大する中で、千島列島(クリル諸島)と樺太(サハリン)は日露両国がその勢力を巡って対立・対峙・和合する場となり、この問題を軽視しては友好もへったくれも無かった。
 黒船来航をきっかけとして、日本は一部の開明的な幕閣や雄藩大名を除けば開国に消極的・拒否的だったのが、芋づる式に諸々の国交・条約を締結せざるを得なくなった訳だが、日清・日朝関係が鎖国前から隣国として無視する訳にはいかなかった様に、北方領土(ここでは北千島・樺太も含む)を舞台に日露の関係もまたそれ以前から重要な背景を含んでいたのを忘れてはならないだろう。



学ぶべきこと 人類の長い歴史上、現代のような国際交流が持たれるようになった歴史は決して長くない。
 何せ、国家が相手国を「国」と認めなければ、「国交」が生まれず、世界各国の王朝の中には一〇〇年を持たずして滅びた例は枚挙に暇がなく、国際交流は政治よりも商人主導だったといえる。

 一例を挙げれば、かつて中国の歴代王朝は中華思想から「対等な関係」を認めず、交易は「大国・中華へ小国の主からの朝貢」に対し、「中華皇帝からの開始」というもので、日本の天皇や征夷大将軍の中には「我等は中国の家来ではない!」との想いから国交が途絶えたこともあった。だが、そんな中でも民間交流は途絶えず、博多商人を初めとする西日本の商人達は東アジア・東南アジアの国々と交易し、普通に中国語や朝鮮語を話せるものが数多く存在した。

 そんな中、日露の邂逅は日中・日朝の交流に比べて一〇〇〇年以上も遅れて始まった。早い話、それまで両国は「隣国同士」ではなかったからである。
 日本では奈良時代より北方に向けて領土を広げ、蝦夷(えみし)、俘囚から奥羽を奪い、蝦夷(えぞ)に侵入し、江戸時代にはアイヌを虐げ、千島列島や樺太にも探索の手を延ばし、そこに権益を図るようになった。
 一方のロシアは、東欧の弱小国だったのが、シベリア、カムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカに探索・侵略の手を延ばし、両国は樺太・千島列島にて出会い、時に交易し、時に衝突した。

 そんな状況下だったから、樺太と千島列島には日本人・ロシア人・アイヌ・ウィルタ・ニブフが混在し、その混乱を収束する為に日露両国は数々の条約・協定を必要とし、その第一歩が日露和親条約だった。

 もし、アイム、ウィルタ、ニブフ、琉球人達の独立が守られ、早い内から国境線が明確化し、それを接するすべての国々がこれを遵守していれば、国際関係・国際交流は(良し悪しは別にして)今と全く異なったものになっていただろう。


 例えば、現状の日露両国の実効支配地は、



 となっているが、ロングヘアー・フルシチョフの独断と偏見に、民族自決を重んじる思想をブレンドすると、日露間の国境線は下図のようになるのが正しい。





 真に人種を重んじるなら、南方でも、もし沖縄の人々が「琉球王国復活」を求めるなら、琉球王国の独立を認めるのが筋だと思う。ただ、様々な要因ゆえにこれは現実的ではない。琉球人もそうだが、アイヌにしても、ウィルタ・ニブフにしても、一民族で一国家を成立させるには、人口的にも、経済的にも、周辺国家との関係からも不可能に等しい。
だからと言って、「アイヌはもう存在しない。」とほざいた某政治家の暴言をロングヘアー・フルシチョフは許さないし、それが正しいなら、「一民族を絶滅に追いやったのは何処の民族やねん!?」との弾劾の声を上げねばならなくなる。

 日露交流のみならず、世界のどこの国とどこの国交流も領土・民族問題が困難な物にしているが、それは土着の人物の生活・誇り・歴史を無視した侵略があってのことである。
 前述した様に、もしロングヘアー・フルシチョフがアイヌ・ウィルタ・ニブフの立場に立つなら、日本人もロシア人も「侵略者」である。
 勿論だからと言って、今現代の日本人・ロシア人がそのことを謝罪する必要はないし、北海道・サハリン・千島列島に現住する日本人・ロシア人に「出て行け!」というつもりもない(両国の複雑な歴史を考えれば、北方領土が日本に返還された場合でも、そこに住まうロシア人の市民権は守られるべきだと思うし、日本が放棄したとしても、かつて樺太・千島列島に住んだ日本人の子孫が墓参し易いようにはして欲しいと思っている)。

 洋は異なるが、アフリカや中東の国境線、アメリカの州境に直線が多いのも、侵略者と画定者達が土着の人々の歴史や実情を全く考慮せず、緯度を元に線を引いたからである。
 当然そのようにして画定された境が土着の人々にすんなり受け入れられる筈が無く、中東・アフリカにていまだに民族間紛争や国境紛争が絶えない要因になっている。そういう意味では、イギリス・フランスを初めとする西欧が中東・アフリカに行った侵略の罪は今尚重大と云えるし、それ以外の侵略を軽視してもいいとは思わない。

 日露和親条約は領土拡張にてぶつかり合った両国間の交流の難しさを教えてくれるものだが、同時に、そこにおいて無視された土着の人々の辛酸を忘れてはいけないと思う。
 「そんなの知ったこっちゃないね!」という方は、米・英・仏がカイロにて、日ソ中立条約も、その他の日ソの歴史も無視してソ連の対日参戦と千島列島領有を勝手に認めたカイロ宣言が北方領土問題を含む日露・日ソ関係を如何に難しいものにしているかを顧みて頂きたい。



主要人物略歴
筒井政憲(つついまさのり 安永六(1778)年五月二一日〜安政六(1859)年六月八日)……幕府旗本。目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任。
 シーボルト事件を初めとする数々の事件解決に尽力した手腕を買われ、対露交渉では、全権代表・川路聖謨を補佐し、日露和親条約締結に尽力。大岡越前・根岸肥前に比肩する名奉行としても有名。

川路聖謨(かわじとしあきら 享和元(1801)年四月二五日〜慶応四(1868)年三月一五日)………下級役人の出だが、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第したのを皮切りに昇進を重ねて旗本となる。
 各種奉行職を歴任する内、西洋諸国への関心・知識を高め、ロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を担当し、全権大使として日露和親条約に調印。スムーズな交渉にはロシア側が川路の人柄に魅せられたところが大きかったと云う。  井伊直弼の台頭により、失脚・隠居。戊辰戦争において、江戸城総攻撃予定日に割腹の上ピストル自殺。

エフィム・プチャーチン(1803年11月8日〜1883年10月16日)………ロマノフ朝の海軍軍人、政治家。優秀な海軍軍人として各地を転戦。その功により軍人として昇進を重ねつつ、外交も担当。
 アヘン戦争後に対極東外交の重要性を皇帝ニコライ1世に説き、日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられ、平和的交渉を命令じられた。
 シーボルトと面識があり、その助言に従って平和交渉の為にも長崎に向かい、クリミア戦争や天災による中断を経たものの、日露和親条約締結に成功した。
 後に日露修好通商条約締結にも関わり、清とも条約を結んだ。帰国後は外交上の功績により教育大臣にも就任した。



総論 日露和親条約は、日米和親条約が半ばペリーの示威に屈した形で鎖国の放棄を強要された面があったのに対し、非常に温厚且つ紳士的に締結された。
 これは偏に両国の全権大使が紳士的に接し、互いが互いを認め合った中で交渉されたという幸運に裏打ちされたものだったからである(それでも五度の交渉を必要としたが)。  前述した様に、シーボルトから日本に関する知識を得ていたプチャーチンは紳士的に交渉することに徹し、その対応に好感を持った川路聖謨プチャーチンを、「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」と評した。
 一方で、プチャーチン川路の人柄を高く評価し、報告書に報告書の中で、川路について「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」と記した。
 また、プチャーチンに随行していた作家イワン・ゴンチャロフは、「非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」とべた褒めした。

 外交交渉は相手国から不利な内容を強要されないという意味においては一種の戦いでもある。そんな局面において互いが互いに心の底から敬意を持ち、友好の一歩が記されたのは古今東西非常に幸運且つ稀有な例である。
 両者の交渉以外にも下田滞在中に嵐に見舞われた際に、船舶の修理を巡って日露両国民は互いに助け合い、プチャーチンは修理した船に世話になった戸田村に因んで、「ヘダ」の名を付けて謝意を示した。
 当然の様にこの時の日露関係は後々にも大きく影響し、明治二〇(1887)年、プチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵が戸田村を訪ね、そこに一〇〇ルーブル寄付した。
 そして川路家とプチャーチン家の交流は両国関係が激動しても変わらず続き、平成二〇(2008)年には日露修好一五〇年が祝われたと云う。日露関係は勿論、国家間交流というものがかくの如く在ればと思われてならない。


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平成三一(2019)年二月一二日 最終更新