第弐頁 日露修好通商条約

条約名日露修好通商条約(にちろしゅうこうつうしょうじょうやく)
締結時の国家機関日本側江戸幕府
ロシア側ロシア帝国
調印者日本側江連尭則(外国奉行)
ロシア側コンスルコルレジスキー(全権委任大使)
時の国家元首日本側孝明天皇・徳川家茂(徳川幕府第一四代将軍)
ロシア側アレクサンドル?世
締結年月日安政五(1858)年七月一一日
締結場所日本・江戸
備考 ほぼ同じ頃に日米、日英、日蘭、日仏間にても修好通商条約が締結された。
慶応三(1867)年一二月一一日に一部改正。
明治二八(1895)年に日露通商航海条約が結ばれた際に無効となった。
条約内容(クリックすると内容を表示します)
背景 日露和親条約は内容的にも「開国」というには非常に限定的だった。
 それは取りも直さず、条約締結が西洋列強の国力の大きさに断り切れずに結ばれたもので、外国人を嫌う朝廷の手前、幕府としても極力小規模に留めたいものがあった故であった。
 しかし、貿易を強く望む列強の圧力や、鎖国中に大きく開いた文明や技術の差を直視した幕閣の動きから、各国間との和親条約に続いて修好通商条約が結ばれるようになった。

 また、黒船来航以前から幕閣には清やオランダを通じて欧米列強がアジア諸国を次々と植民地化している事実を掴んでおり、幕府に反発的な雄藩(薩摩・長州など)の中も後々には諸外国との力の差の前に現実を見るようになったが、七〇〇年近く政治から遠ざかっていた朝廷は諸外国を「夷狄」と見做し、現実を見ようとはせず、通商条約締結に勅許を出そうとはしなかった。
 幕府サイドでは極力国内の意見を統一して、後々に備えたい意からも勅許を得んとしたが、孝明天皇は(決して幕府に敵対的ではなかったのだが)頑なに勅許を認めず、外国人を日本から追い払うよう幕府に要請し続けた。

 結局は現実に引きずられる形で日露修好通商条約を初めとする安政の五ヶ国条約が締結されたが、国内のごたごたと、開国から五年と経たず、国際法に関する知識も皆無に近い中で締結された条約は日本にとってかなり不利な内容となり、条約改正が為されるまでに六〇年近い歳月を要したのは周知の通りである。



注目点 安政の五ヶ国条約が俗に「不平等条約」と呼ばれるのも、偏に治外法権(領事裁判権)と関税自主権の不在にあったと云えよう。

 前者の為に、江戸幕府も明治政府も日本国内で犯罪をやらかした外国人犯罪者を日本人の手で裁くことが出来なかった。特にノンマルトン号事件で日本人を見殺しにした船長を裁けなかったことに日本人がぶちギレた例は有名だろう。
 また、後者の関税自主権が持てないと云うことは、産業革命で大量生産を可能にした西洋列強の輸入品が大量に入って来て、国産品を圧迫しても、関税を掛けて守れないことを意味した。
 現在でも、アメリカ合衆国が日本に対して度々アメリカ製品を購入するよう圧力を掛けたり、米国産の牛肉に国産牛肉が圧迫されたりする例からも関税の大切さは明らかである。

 そして、その二項目の陰で目立たないが、不平等問題の一つに最恵国待遇の問題があった。最恵国待遇とは、読んで字の如く、「最も恵まれた待遇」を相手国人に与えるものである。それ自体は国家間の友好を重んじた大切で、好ましいものである。
 ただ、「最も恵まれた待遇」を行う以上、ある国になにがしかの特権を付与したなら、最恵国待遇としている国家には無条件に同じ特権を付与しなくてはならなくなる。ただでさえ、領事裁判権や関税自主権で過剰な優遇をしているところに最恵国待遇を持ち出されたら、条約未締結国との外交も難しく、既存の不利な条件の撤回も厳しくなる(とある国との不平等を解消したくても、他の国に認めている権利となると極めて難しい交渉となる)。
 そして問題はその最恵国待遇片務的なものというところにあった。つまり、日本は条約締結国を最恵国として待遇するのに、相手国は日本を最恵国として待遇しないのである。日本人としては実に不愉快且つ不平等の極みとしか言いようのない酷い話である。
 ところが、不平等条約とされた安政の五ヶ国条約にあって、日露修好通商条約においてはこの最恵国待遇が、双務的なものとされたのだった。それも先の日露和親条約においてはロシアに有利な片務的だったのが、双務的に改められたのだから、日本側全権の手腕は素晴らしいものがあった!

 安政の五ヶ国条約の中で、日露修好通商条約は三番目に締結された条約だが、二番目に締結された日蘭修好通商条約とは一日、四番目に締結された日英修好通商条約とは一週間しか締結日が離れておらず、ほぼ同時進行に近い中、何故にこの日露修好通商条約のみ双務的最恵国待遇が勝ち取れたのかは薩摩守の研究不足で詳らかでないが、当時のロシア要人が日本人に好意的故だったとしたら日本人としてこれほど嬉しい話はないし、条約交渉を担った外国奉行・江連尭則(えづれたかのり)の手腕によるものだとしたら、江連の名はもっともっと世に知ら締められるべきと云えよう。



学ぶべきこと 学生時代、道場主は不平等条約を締結した時の幕閣に対し、「時勢と国際法に疎いのを諸外国につけ込まれ、後々の日本人を苦しめた無能な輩」との偏見の目で見ていた。
 はっきり言って、勉強不足且つ認識不足だった。

 確かに鎖国体制の中で世界の動きや国際法に対する知識やそれ等に処する経験が不足していたのは事実だが、それは当時の日本人全員が同様だった。
 加えて黒船来航直後から、徳川家慶、徳川家定の歴代将軍が相次いで世を去り、将軍後継問題で紛糾し、朝廷や雄藩から尊皇攘夷の圧力を受ける中で諸外国と相対するのは並大抵の苦労ではなかっただろう。
 しかも当時の幕閣の目から見て、イギリスは古来より日本人が大国と見ていたインドを支配し、清すらフランスと共に半植民地化していた存在で、侵略実績や近代兵力からも西洋列強は恐るべき存在だった。
 現代ではそんな状況下で当時の幕閣はむしろ最善を尽くした方だとの見方が強くなっている。領事裁判権一つをとっても、後々の条約改正の過程において、井上馨や大隈重信が(あくまで通過処置的ではあったが)外国人裁判官の採用を考えた様に、国際法が浸透しない状況下ではまだその方がましだったとの見方もある。

 不平等条約問題に限らず、結果を知っている身で歴史上の失策を貶すのは容易である。日露修好通商条約の締結は、閉鎖的な状況下で新たな交流を持つことの難しさと、そんな中でも最善を尽くした点をもっと注目することの大切さを教えてくれている気がする。



主要人物略歴
江連尭則(えづれたかのり 生没年不詳)………「えづれ あきのり」とも云う。幕臣で、通称は加賀守・真三郎。妻は榎本武揚の妹。
 目付から外国奉行に就任。安政の五ヶ国条約締結が僅か三ヶ月の短期間で五ヶ国との交渉するタイトスケジュールとなった中、岩瀬忠震井上清直と云った重鎮達が米・英・仏・蘭との交渉に忙殺される裏で対露交渉を一手に担った。
 元治元(1864)年には四国艦隊下関砲撃事件で英、仏、米公使との折衝にも尽力したが、幕府閉幕後は徳川家の静岡移封に随行して静岡に移住。以後の事績は不明。

岩瀬忠震 (いわせただなり 文政元(1818)年一二月一八日〜文久元(1861)年七月一一日)………幕末の旗本にして当時屈指の開国論者。昌平坂学問所での成績優秀を認められ、西丸小姓番士→徽典館学頭→昌平坂学問所教授との昇進を経て、老中首座・阿部正弘の引き立てで、目付、外国奉行となり、国防・外交に尽力。日露和親条約締結にも関わっており、日米修好通商条約を初めとする安政の五ヶ国条約締結にも井上清直とともに尽力。
 井上共々開国に熱心且つ、外交への研究を尽くした手腕は圧倒的に有利な通商条約締結に成功した筈のアメリカ総領事タウンゼント・ハリスも舌を巻いた。
 一三代将軍・徳川家定の継嗣問題で徳川慶喜を推す一橋派に属したため、大老となった井伊直弼の手により、安政の大獄に際して左遷。程なく四四歳の若さで失意の内に病没。日露修好通商条約締結の場には臨んでいないが、勅許が得られない複雑な世情の中、各国間との通商条約締結が急速に進んだのには岩瀬の手腕によるところが大きい。

井上清直(いのうえ きよなお 文化六(1809)年〜慶応三(1868)年一二月二五日)………江戸幕府旗本で、前頁で紹介した川路聖謨の実弟。通称は新右衛門・信濃守。寺社奉行吟味役、勘定組頭格を歴任後、老中・阿部正弘の信任を得て下田奉行に就任。
 アメリカ総領事・ハリスの来日時に応接を担当し、岩瀬忠震と共に日米交渉の全権を担い、日米修好通商条約に調印。その後も岩瀬と共に外国奉行を兼任して安政五ヶ国条約締結に奔走。
 日露修好通商条約ではその場にいなかったが、その影響は大きく、井伊直弼によって左遷されるまで、ほぼ岩瀬と運命を共にする。
 外交畑失脚後は軍艦奉行、南町奉行を歴任したり、外国奉行に返り咲いたりしたが、北町奉行就任中の慶応三(1868)年一月一九日に享年六〇歳で病没。



総論 日露修好通商条約を初め、安政の五ヶ国条約は良くも悪くもその後の日本外交の基幹となりました。これら諸条約の不平等性の是正に明治政府が苦慮したのは有名ですが、同時にこのことは明治政府が内政を顧みる契機ともなりました。
 明治新政府成立直後、岩倉具視率いる遣欧使節団は欧米諸国を訪問して条約改正に挑みましたが、国際法を知らず、国に憲法もなく、キリスト教を迫害していることが国家としてまともなものと見られていないことを痛感し、二十年近い時を経たものの日本は憲法を制定し、産業を振興させ、近代化に成功し、限定的とはいえ人権についても考慮する国となりました。

 その過程にあって、諸外国との交流やトラブルは決して単純なものではなかったのですが、千島列島・樺太を巡って領土問題すら抱えていた日露だけが双務的最恵国待遇を成立させ得た重要性とその要因は今後の外交の為にももっと注目・研究されるべきとロングヘアー・フルシチョフは考える次第です。


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平成三一(2019)年二月一三日 最終更新