第捌頁 まだ見ぬ日露平和条約

条約名日露平和友好条約 (にちろへいわゆうこうじょうやく)
締結時の国家機関日本側日本国
ロシア側ロシア連邦
調印者日本側不明
ソ連側不明
時の国家元首日本側今上天皇
ソ連側不明
締結年月日令和?(20XX)年○月×日
締結場所東京?モスクワ?
備考平成三一(2019)年四月一二日現在未締結
条約内容 (クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)


妥協と相互了承 繰り返しになるが、平成三一(2019)年四月一二日現在、日露平和友好条約及び、それに類する条約は日露間にて締結されていない。
 日露和親条約に始まり、航海拠点確保の為、通商の為、心ならずも起きた戦争和解の為、領土問題解決の為、数々の条約・協約・宣言が為されてきたが、双方ともにすべてが心の底から納得がいった例はなかろう(勿論それは日露間に限らないのだが……)。

 ただ、良識ある人々なら、内容はどうあれ、「一日も早く日露平和友好条約が締結されて欲しい。」と願っていることだろう。

 私見が入るが、道場主が小学生の頃、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンはソビエト連邦を「悪の帝国」と評し、日本の総理大臣はそのレーガンと親密だった中曽根康弘だった。
 それに前後してモスクワ五輪ボイコット事件があり、大韓航空機撃墜事件があり、北方領土問題を知ったばかりの当時の道場主にはレーガンの一言がかなり強く刷り込まれた。
 正直、当時漫画『キン肉マン』に登場したばかりの残虐超人時代のソ連超人ウォーズマンすらどこか怖く見えたものだった(実際に、ウォーズマンにはスクリュードライバーでラーメンマンの脳みそをえぐり、廃人してしまうという役割が振られていた)。

 長じて、民族とはそんな単純なものではなく、何処の民族にも様々な人間がいて、誰しもが愛しい人が戦災に傷つくことを恐れ、一件暴論に見える領有権主張にも何らかの理があり、利害や歴史の絡みから素直になれないだけで争うよりは親睦を望んでいることも理解するようになった。
 人よりは多少本をよく読み、歴史に強い関心を持ち、酒好き、食いしん坊、たまたま読んだ吉村昭氏の小説にロシア絡みが多かった(『北天の星』『ニコライ遭難』『大黒屋光太夫』等)ことから、ロシアへの関心も高まり、自分なりの研究・考察も進み、少年時代の旧ソ連に対する偏見はかなり除外された(と思う)。


 故に改めて確信する。
 日露両国民の多くは、両国の友好を心の底から望んでいることを。

 日露戦争で敵対しても、島根の人々は海面に漂うロシア水兵を必死に助けた(イルティッシュ号投降)。
 大津事件で身を挺してニコライ?世を庇った二人の車夫はロシア艦に招待され、勲章・報奨金・ロシア水兵からの胴上げ&もみくちゃ大歓迎を受けた。
 文化・言葉・価値観の違いに時に苦悩しながらも、北海道・新潟・舞鶴・敦賀では開国以来両国間の交易が盛んである。
 他の言語に比べてロシア語を学ぶ人が多いとは言い難いが、日本語を学ぶロシア人は決して少なくない(プーチン大統領の次女はかなりの日本通)。
 世界各国で日本料理の店は人気があるが、モスクワにおけるその数は世界一で、三〇〇店舗に及ぶと聞いた。
 僅かな人数であるが、ロシア人の中にも広大な国土の0.06%に過ぎない北方四島に固執するよりは、熨斗を付けて日本に返し、シェールガスを初めとする日本との経済協力体制を重んじるべし、と唱える人達もいるらしい。
 どんなに両国関係が悪化しても、両国から漁業に関して冷静な話し合いが途絶えることはなかった(現場での行き違いによる拿捕事件は多発していたが)。

 他にもロングヘアー・フルシチョフの知らない多数の例があると思うが、日露間の不幸な事件は多くが政治・軍事の暴走絡みによる例外で、文化・経済・産業面では両国はいがみ合うより仲良くすることを重んじて来た。

 にも関わらず、日ソ共同宣言から六〇年以上も経つのに、いまだ日露平和友好条約は締結に至っていない。何故か?
 早い話、領土問題における妥協点が見いだせていないからだろう。「妥協」と云うのはイメージのいい言葉ではないのだが、如何なる交渉でも双方が完全に納得が出来ることは稀有で、それでも何とか交渉を成立させたいから「妥協点」が模索されるのが現実である。
 いい加減、日露両国とも何十年も昔の争いに起因する問題で論争など続けたくない筈である。そして次の条約でこそ領土問題に完全な終止符が打たれることを誰もが望んでいる。

 ただ、日露間に限らず、この領土問題こそが最も妥協を妨げている

 大雑把に各種意見を採り上げるだけでも、
ロシア側では、
 「一島たりとも譲るな!」
 「日本は第二次世界大戦の結果を受け入れよ!」
 「日本はサンフランシスコ平和条約でクリル諸島(千島列島)の領有権を放棄しただろうが!」
 「日本はソ日中立条約違反を叫ぶが、先に日本の方が関東特種演習で条約違反をしでかしたのだから、無効だ!」
 「広大な国土における僅かな島々に固執するより、潔く返して日本との関係強化に努めるべきだ!」
 「ソ日共同宣言にある様に、二島返還を条件に平和条約締結こそ急ぐべきだ!」

といった声があり、日本国内では、
「有効中だった日ソ中立条約を無視しての火事場泥棒的な領土奪取を許すな!」
「四島一括返還でないと意味がない!」
「まずは二島を確実に返還させ、残りを継続協議で取り戻すべき!」
千島・樺太交換条約で正当に得た領土なのだから、全千島が返還されるべき!サンフランシスコ平和条約での領有権放棄?ソ連は調印してないだろうが!」
ポーツマス講和条約に立ち返れ!南樺太も日本領だ!」

 といった声があり、返還内容だけでも実に様々な意見があり、こうなると如何なる内容になっても、猛り狂って反対する一定人数が出て来るのは避けられない。
 まして、領土問題で下手に妥協したり、譲ったりすると、「売国奴」とのレッテルが貼られ、何十年何百年単位で批難の嵐に曝されかねない。
 となると、これはロングヘアー・フルシチョフの想像なのだが、

「面倒臭いなぁ………あんな辺境の島なんか相手にくれてやって、さっさと協力体制を作った方が良いのに………………でも非難は浴びたくないから、儂の就任中に妥協するのは辞めておこう………。」

 と、決して言葉には出さずとも、腹の中でそう考えている(或いは考えた)日露の政治家は少なくないと思う。

 非常に難しい問題である。
 ただ、それでも日露両国民は様々な意味で友好を望んでおり、この難題が解決された果てには素晴らしい二国関係が築かれ、それは他の国々との交流に対する良き手本にもなると期待し、信じる次第である。



人種・国境に左右されない友好
 下記の文章は、平成三〇(2018)年一〇月二六日九時二一分に毎日新聞がネット上に配信したものをコピペしたものです。
 誠に好ましくないことですが、毎日新聞社から転載の許可は取っていません(取り方知らないので………)。
 ただ、日露友好の素晴らしい好例のため、敢えて余計な批評は避け、文面そのままを感じて頂きたくて、コピペしました(仮名遣いも、原文のままです)。
 万一、毎日新聞社から転載に関する抗議が来た際には、下記の文面が変わることをご了承下さい。

毎日新聞社様

 上述の通り、御社にお断りすることなく、御紙にて掲載された記事を個人ホームページに記載していることを御詫び申し上げます。
 ただ、純粋に記事内容に感動し、日露両国の為に人と人が良き交流を持てる好例を示したい一心で転載したものであることをご理解頂ければ幸いです。
 もし転載に不都合のある場合は、御手数ですがこちらまで御一報願います。
 然るべき処置を取り、御社の同意を得ることをお約束致します。

転載記事
<北方領土>択捉の日本人墓石 ロシア人修復「友達だから」

 斜面に倒れていた柏谷幾次郎さんの墓石の復元作業中のセルゲイ・クワソフさん=択捉島の紗那墓地で2018年9月、ロシア人島民撮影

 北方領土・択捉島の元島民2世らにより7月、同島の紗那墓地で倒れた日本人の墓石4基を復元する作業が始まったが、一緒に汗を流した同島在住のロシア人、セルゲイ・クワソフさん(63)がその後一人で墓石をすべて据え直した。本格復旧は来年以降と考えていた関係者は「まさかここまでやってくれるとは」と感激している。【本間浩昭】

 今年度のビザなしロシア側最終訪問団の一員として富山県を訪れたクワソフさんが15日、帰港前に根室市で日本側の関係者に詳細な経過を明らかにした。

 墓石の復元プロジェクトは、1級建築士の井桁(いげた)正美さん(58)=東京都中野区=が12年前に初めて紗那墓地を訪れた際、曽祖父・柏谷幾次郎さんの墓が倒れているのを目の当たりにしたのをきっかけで始まった。

 「何とか修復できないか」と数年越しで計画を温め、今年7月にビザなし日本側訪問団として択捉島を訪れた際、井桁さんら11人が1912(大正元)年に同島で亡くなった高橋直孝さんの墓の修復に着手。土台にセメントを流し込み、来年墓石を据える予定だった。

 その作業を手伝ったクワソフさんによるとセメントが固まった8月、推定350キロの高橋さんの墓石を小型クレーンを使って一人で据えた。さらに墓地内に倒れていた日本人の墓石を次々と据え直したという。

 重さ約1.3トンもある「明治30年1月 故柏谷幾次郎」と書かれた墓石は「斜面に曲がって倒れていたので起こすのに3日かかった。いつも花を手向けています」とも話した。

 根室市で井桁さんと再会したクワソフさんは直した墓石の写真のコピーを示しながら「近くに母の墓があり、行くたびに倒れた日本人の墓石が気になっていた。友達だから協力した」と伝え、堅い握手を交わした。さらに、墓石の下から見つかった皿も渡した。

 井桁さんは「元島民は島を離れるとき、墓の近くにいろいろなものを埋めてきたと聞いている。きっとその一つだと思う」と感謝。「来年は元島民のおばやいとこを、復元された墓に連れて行きたい」と喜んだ。

 ◇「叔父の病気、日本人が治してくれた」

 倒れた日本人の墓石をボランティアで修復したクワソフさんによると、母は戦後間もない1945年、ロシア中部・ボルガ川流域のサラトフから祖母に連れられ、きょうだい6人と一緒に択捉島に移住した。生前には「日本人と同じ学校(紗那国民学校)に通い、子供のころから日本人を友達だと思っていた」と話していたという。

 同校は、北方領土にいまも残る数少ない木造建造物。「僕も1年生のとき(61年)まで通った。でも現在は使われておらず、いずれ壊されてしまうだろう」と寂しげな表情をした。

 クワソフさんは母から聞いた日本人との親交のエピソードも語った。「叔父が病気になったときは、日本人医師が治療してくれて治った」「日本人は敵ではなく、友人だった」

 その母も数年前、同島で亡くなり、紗那墓地に埋められた。紗那郊外にある同墓地は、日本人の墓とロシア人の墓が混在する状態で葬られている。

 クワソフさんは「日本人とはかつて一緒に仲良く暮らしていたし、将来も一緒に住めると思う」と語った。

 前述した様に、この記事に対する野暮な批評は控えたいと思いますが、一言だけ言わせて下さい。
 真の友情に国境無し!(菜根道場道場主)


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平成三一(2019)年四月一二日 最終更新