第漆頁 日ソ共同宣言

条約名日ソ共同宣言(にっそきょうどうせんげん)
正式名:日本とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(にほんとそヴぃえとしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうとのきょうどうせんげん)
締結時の国家機関日本側日本国
ソ連側ソビエト社会主義共和国連邦
調印者日本側鳩山一郎(総理大臣)、河野一郎(農相)
ソ連側ニコライ・ブルガーニン(首相)
時の国家元首日本側昭和天皇
ソ連側ニキータ・フルシチョフ
締結年月日昭和三一(1956)年一〇月一九日
締結場所ソビエト社会主義共和国連邦モスクワ
備考 これにより日ソ間の正式な終戦と日本の国際連合加盟が実現した。
条約内容 (クリックすると内容を表示し、再度クリックすると閉じます)


背景 昭和三一(1956)年は、第二次世界大戦終結から一一年、サンフランシスコ平和条約発効による日本の主権回復から四年、独裁者スターリンの死と朝鮮戦争終結から三年が経過しており、世界情勢は大きな転換点を迎えつつあった。

 当時の日本は主権を回復したものの、サンフランシスコ平和条約と同時に結ばれた日米安全保障条約の影響がまだまだ強く(今も強いが)、平和条約締結に調印しなかったソビエト連邦、中華人民共和国、インドのみならず、大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国との国交も開かれず、国際連合への加盟もならず、まだまだ国際的地位は低下したままだった(朝鮮戦争による特需で経済的にはかなり回復していた)。

 また世界全体では、朝鮮戦争が終結したとはいえ、核兵器の脅威を背後に控えた米ソ冷戦の真っただ中で、世界はアメリカを筆頭とした資本主義諸国と、ソビエト連邦を盟主とした社会主義諸国と、独立への機運を高めつつあったアジア・アフリカ諸国との多極化への一歩を勧めようとしていたところだった。

 そんなきな臭さの中で大きな契機になったのは、三年前の昭和二八(1953)年三月五日にヨシフ・スターリンがくたばったことにあった。
 彼奴(きゃつ)がくたばったことで朝鮮戦争はその三ヶ月後に休戦が成立し、スターリンの後継となったニキータ・フルシチョフは核を初めとするアメリカとの軍拡競争を宇宙開発競争に切り換え、僅かずつではあるが、世界は平和に向かった。
 そして件の昭和三一(1956)年、フルシチョフは二月九日に共産党大会で有名なスターリン批判を行った。これにより、スターリンの独裁が(すべてではないが)初めて批判され、批判そのものは党内秘とされたものの、すぐに世界中の知るところとなり、国外に対するソビエト連邦の態度が軟化した。

 第二次世界大戦末期に、ソビエト連邦が有効中だった日ソ中立条約を無視して日本に攻め込んで以来、GHQの支配下にあったこともあって、日ソ両国は正式な国交を有さず、僅かに民間貿易協定が結ばれることで、ソ連の支配下となった南樺太や千島列島、朝鮮半島に残された日本人や、シベリアに抑留された日本軍将兵の帰還が為されていたが、それ以外に外交ルートは存在しなかった。
 そんな状況下にあって、日ソ両国の互いに対する感情は御世辞にもいいものと云えなかった。日本人は日本人で対日参戦シベリア抑留を怨む者も多く、ソ連はソ連でアメリカに追従して朝鮮戦争にも協力し、国内の共産党をGHQと共に弾圧(レッドパージ)する日本政府に面白い感情を抱く筈も無かった。

 だが、前述した様にソビエト連邦でスターリンがくたばり、日本でも政権がアメリカ寄りの吉田茂から、アメリカ以外の国々との外交も重視する鳩山一郎に移ったことで日ソ両国は先の大戦における悪しき残滓を一掃する好機との見方が一致した。
 前年に日ソ両国はイギリス・ロンドンの在英ソ連大使館にて国交正常化への交渉が持たれたが、難航した。難題は勿論北方領土問題で、この問題が今も両国の平和条約締結への妨げになっているのは周知の通りである。結局、この時点での交渉は中断となり、同年一二月にソビエト連邦は国際連合における日本を含む一八ヶ国の国連加盟に対して常任理事国の特権・拒否権を発動した。

 だが、ソビエト連邦との国交回復と国際連合加盟に並々ならぬ熱意を持つ鳩山は諦めず、この間も続いていた漁業交渉を重ね、少しずつソビエト連邦との接近を図っていた。
 そして同年一〇月一二日、内閣総理大臣鳩山一郎と農林水産大臣河野一郎の一郎コンビは訪ソして、ソビエト連邦側との直接交渉に及ぶことで、一週間後に日ソ共同宣言が為され、日ソの国交は復活したのだった。



注目点 この日ソ共同宣言の大きな意義は、「共産主義陣営のリーダーであるソビエト連邦と付き合えるようになったこと。」と言える。

 少し話は逸れるが、幕末に締結された不平等条約の条約改正に難儀した明治新政府はその標的をイギリスと定めた。当時世界最大の植民地を持ち、欧州一の強勢を誇ったイギリスとの条約を平等なものに出来れば国際的にその地位も認められ、他の国々との不平等条約も解消されると考えた訳だが、この考えは図に当たった。
 日英通商航海条約にて日英間の不平等(領事裁判権)が解消されると、関税自主権の回復はほぼ問題なく解決した。
 時代や条件は異なるが、日ソ共同宣言成立も「最強の共産主義国」であるソビエト連邦と国交が開けたことで、日本と共産主義諸国との外交はスムーズ化した。

 国際的な日本の地位に関する意義も大きかったが、日ソ両国間の問題に対してもこの日ソ共同宣言の意義は大きく、詳細は「条文内容」に記したが、大雑把に箇条書きにすると、 ・戦争状態の終結
・自衛権尊重と相互不干渉
・ソ連による日本の国際連合加盟支持
・戦争犯罪容疑で有罪とされた日本人の釈放・帰還と賠償請求権の放棄
・通商関係の再開(同日に日ソ通商航海条約が締結された)
・漁業分野での協力
・引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後に歯舞群島と色丹島の日本への返還(譲渡)。

 大部分は平和に交流する二国間においては当たり前のことだが、それでもサンフランシスコ平和条約にソビエト連邦が調印を拒否した際に解決されなかった問題が解決し、日本の国連加盟へのソビエト連邦の支持が明記され、領土問題についても実効支配をそのままにせず、「協議継続、平和条約締結後の歯舞群島・色丹島返還」が明記されたことの意義は極めて大きい。



学ぶべきこと 日ソ共同宣言が日ソの国交を正常化し、両国の平和交流を促進したのは間違いない。だがその反面、択捉・国後について触れられなかったことが現在に至るまで話を厄介にしている。
 ソビエト側では歯舞と色丹だけを返すことで「決着」としたい訳だが、日本にとっても択捉島・国後島を諦める訳にはいかない。その後も日本国内でも「まず二島だけでも返してもらい、択捉・国後は継続協議で取り戻す。」という意見と、「四島一括でないと意味がない!」という意見が錯綜(意外にも、親ソ的な政党である日本共産党は全千島の変換を要求している)し、ソビエト連邦(及び後のロシア)内でも、「二島譲渡で手打ちを急げ」という意見や「一島たりとも譲るな!」という意見が錯綜し、その紛糾は今も続いている。

 謂わば、領土問題は「先送り」された訳だが、似た例は、中国との日中平和友好条約の締結時にも見られる。この時も尖閣諸島の領有問題で締結交渉は難航したが、「後世の人間による賢明な解決」に託す形で先送りされた。
 「先送り」は決して好ましいことではない。現在の日本の政治家は呆れるほど「先送り」を繰り返している。ただ、急務の問題を先に片付け、じっくり冷静に話し合う余地を残す意味での「先送り」ならまだ意義はあるのでは、と考えさせられるのである。



主要人物略歴
鳩山一郎(はとやまいちろう 明治一六(1883)年一月一日〜昭和三四(1959)年三月七日)………政治家・弁護士で、第五二・五三・五四代内閣総理大臣。大正時代から政党政治家として活動し、戦後自由民主党が発足すると初代総裁となった。
 日ソ国交回復を悲願としていて、日ソ共同宣言成立を有終の美として政界を引退し、三年後に逝去。息子・威一郎、孫の由紀夫・邦夫も政治家。

河野一郎(こうのいちろう 明治三一(1898)年六月二日〜昭和四〇(1965)年七月八日)………政治家。自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を歴任。自民党の派閥の先駆けとなる河野派を結成し、弟・謙三、息子・洋平、孫・太郎も政治家となった。
 日ソ共同宣言における交渉時に、全くの下戸だったにもかかわらず、第一書記ニキータ・フルシチョフに勧められたコニャックを(本人曰く、「死ぬ気で」)一気飲みした(ちなみにフルシチョフは化け物級の酒豪)。

ニコライ・ブルガーニン(1895年6月11日〜1975年2月24日)………政治家。ロシア帝国の中産階級の家庭に生まれ、ロシア革命を経てロシア共産党に入党。KGBの前身であるチェーカーに入り、反革命派の取り締まりに辣腕を発揮し、スターリンに認められたことで主に国防面で活躍。
 スターリン死後、フルシチョフと「B・Kコンビ」と呼ばれる名コンビぶりを発揮し、ユーゴスラヴィア、インド、ビルマ(現・ミャンマー)、アフガニスタン等を訪問し、スターリン時代の冷却関係の改善と平和共存外交に務めた。
 後に農業・工業政策を巡ってフルシチョフが共産党内部の反発を招くと反対派に加わったが、敗れて失脚した。



総論 残念ながら、平成三一(2019)年四月一二日現在、この日ソ共同宣言を最後に日ソ間にも、その後の日露間にもそこから深く踏み込んだ条約は締結されておらず、幾度か為された宣言も日ソ共同宣言が有効であることを再確認するに留まっている。
 逆を言えば、日ソ共同宣言は領土問題を除けば日ソ・日露交流の急所を押さえていると云える。つまりはそれだけ領土問題は難しいが、それは日本にとってのみならず、ソビエト連邦・ロシア共和国にとっても言えることである。
 ソビエト連邦(及びそれを継いだロシア共和国)は、「第二次世界大戦の正当な成果」、「日本側の関東特種演習をもって日ソ中立条約は無効化していた」という苦しい言い訳で北方領土の実効支配を正当化しているが、日ソ中立条約反故の非を完全に排除出来ないから日ソ共同宣言において四島の完全な自国領有を明記出来ず、「平和条約締結後の歯舞群島・色丹島の譲渡」という余地が残ったのだろう。

 勿論、理を尽くすだけで帰って来るほど領土問題は簡単ではない。それでも戦争が起きることなく、交渉が途切れることなく、日露平和交流に誰も異を唱えないのも、この難題を前にしても日露両国が平和共存を心から望んでいるからであることと、この難題の解決は日露間に限らず世界各地の領土問題を解決する良き手本となることを信じたい次第である。


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平成三一(2019)年四月一一日 最終更新