第参頁 浅井長政………瓦解時のインパクト極大

同盟者file参
名前浅井長政(あざいながまさ)
支配地近江東北部
同盟締結期永禄年間
同盟終焉期元亀元(1570)年四月
同盟目的上洛路線確保
人的条件長政と信長妹(市姫)との婚姻
同盟瓦解理由信長による越前攻め
対信長友好度


同盟の背景  桶狭間の戦いで奇襲を持って敵の総大将今川義元の首を取ったことで当面の危機を脱した織田信長だったが、東西北の三面に敵を抱え、外交上孤立無援に等しかった。
 そんな中、西の松平元康(徳川家康)と同盟を結び、東方の憂いを取り除いたのは前頁で触れた通りである。そして信長が今川に次いで倒すべき敵と定めたのが美濃の斎藤龍興(義龍の子・道三の孫)だった。
 美濃攻め、そして美濃を支配した後に上洛への道を確保する、と云う二大目的の為に信長は近江の北東部である小谷城に居する浅井賢政(あざいかたまさ。後の長政)と結ぶことを得策とした。

 その浅井家だが、当時南近江を支配する六角氏との紛争中にあった。
 浅井家は賢政の祖父・亮政の代に下剋上でもって主筋に当たる京極氏から北近江を奪ったものの、父・久政の代に同じ近江の南部の守護である六角氏に圧迫され、一時臣従を余儀なくされ、賢政自身、生母共々六角氏の人質として南近江に留め置かれたこともあった。元服に際して「賢政」と名乗ったのも、六角義賢の片諱を受けてのものだった。
 その後、賢政は長じるに及んで六角氏に反抗する様になり、最初の妻(六角氏重臣の娘)とも離縁し、六角氏を裏切った家臣を受け入れて義賢と干戈を交えた。
 信長が今川義元を討った年である永禄三(1560)年八月頃、賢政は初陣で六角勢に勝利し、同年一〇月、久政から家督を譲られ、当主として小谷城を拠点に近江統治に尽力し始めていた。

 その賢政と争っていた六角氏は美濃の斎藤龍興と連携した。これにより、信長賢政は六角と斎藤を共通の敵とし、両者に同盟するメリットが生じた。


対人関係 詳細な時期は不明だが、永禄三(1560)年頃、織田信長は斎藤龍興との膠着状態を打破すべく、不破光治を使者として送り、賢政に同盟を提案した。
 同盟に際して信長は同母妹・お市を賢政に輿入れさせた。時に賢政一七歳、お市の方一五歳。

 典型的な政略結婚だったが、信長は同盟成立を喜び、通常は新郎側が結婚資金を用意するのが当時の仕来りだったのを、信長が全額負担したとされている。これに感じ入ったものか、永禄四(1561)年一月、賢政は名を「長政」と改めた。この改名は(確実な話では無いが)時期的にも賢政が六角氏から離れて義賢の「」の字を捨て、信長との同盟を固める為に「」の字を取ったとされている。
 また、幸いにして長政とお市の方との夫婦仲は至って良く、それは同盟瓦解後も変わらなかった。二人の間に生まれた三姉妹が戦国時代でも最も有名な姉妹となり、後世に大きな影響を与えたのは有名だが、まあそれは別の、後の世の話である。

 徳川家康に続いて、長政との同盟も成立させて周囲を固めた信長は永禄一〇(1567)年九月に稲葉山城を陥落せしめ、龍興から美濃を奪った。翌永禄一一(1568)年七月、越前朝倉義景の元に滞在していた足利義昭が一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、信長の元に身を寄せた。
 同年八月、信長は上洛の為の経路を確保する交渉を六角義賢・義治と行うため佐和山城に入り、この時初めて信長長政は対面した。同年九月に信長は上洛を開始し、同月八日、信長の同盟者である長政と家康が高宮に到着し、同月一三日、長政は観音寺城に入り、これによって六角義賢・義治父子は甲賀に撤退した(観音寺城の戦い)。

 同月二六日、信長は洛中に入り、一〇月一八日に義昭が第一五代征夷大将軍に任じられた。上洛を果たした信長は功績のあった伊丹親興・池田勝正・和田惟政・松永久秀等には行賞を行ったが、長政への行賞の記録はない。一部にこのことが同盟瓦解の発端となったの声もある。


同盟の終わり 足利義昭を奉じて、彼を室町将軍とすることを大義名分として協力し合った織田信長浅井長政の同盟は、信長と義昭の関係が悪化することで瓦解に向かった。

 信長によって将軍の地位につけてもらったことで当初は信長を管領にも、副将軍にも任じるとして謝意を示していた義昭だったが、やがて自分が傀儡に過ぎないことに気付き、諸国の大名に御内書を送り、信長包囲網を形成に掛かった。
 その一人に選ばれたのが、かつて義昭が最初に頼った朝倉義景で、この動きを警戒した信長は将軍の名で義景に上洛を命じたが、義景はこれに従わず、信長は越前攻めに臨んだ。

 徳川家康と共に越前に攻め入った信長は連戦連勝で、猛攻を受けて金ヶ崎城も落城し、朝倉家滅亡は目前と見られた元亀元(1570)年四月下旬、信長の元に驚愕の知らせがもたらされた。
 家康と並ぶ重要な同盟相手にして、義弟である長政が裏切り、背後から攻め寄せたと云うのである。驚愕しつつも、気を見るに敏な信長はもう一押しで落とせる朝倉康暦を諦め、即座の撤退に掛った。このとき、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる決死の殿軍を担ったのが木下藤吉郎(豊臣秀吉)と家康だった。

 さて、この同盟瓦解に対して、人生を通して数々の裏切りを見てきた信長が、長政の裏切りにはかなりの衝撃を受けたとされている。同時に激しく怒りもした。
 ドラマや歴史漫画でも良く描かれるシーンだが、その実態はよくよく注意して考察する必要がある。少年の頃、道場主は「妹婿の長政までもが裏切りおった!」と憤る信長に対して、「何云ってやがる、最初に同盟違反したのはお前じゃないか?!」と憤り、「長政が裏切った。」とする記述にも納得いかないものを感じていた。
 その理由は、信長が朝倉義景を攻めるに際し、「事前に浅井家の了解を得る。」という決まりを反故にしたことで、信長長政に裏切られたのは必然で、「信長の方こそ先に裏切った。」と見ていたからである。

 だが、長じて様々に学ぶと話は単純ではない。
 信長との同盟が瓦解した後、長政が最後の最後まで義景と共に信長と戦い続けたのは史実だが、その基となった浅井家と朝倉家との「祖父・亮政以来の同盟関係」が実在したのか否かが昨今では疑問視されている(薩摩守自身、菜根道場BBSに書き込まれたことで知りました(苦笑))。
 「長政と義景の共闘振りを鑑みれば、浅井家と朝倉家には固い結束が元々あった。」、と薩摩守は見ており、巷間に膾炙していたように信長長政の同盟条件に「無断で朝倉と事を構えない。」との条項があったのなら、先に裏切った(正確には盟約違反をした)のは信長という事になるが、そもそも浅井と朝倉に同盟関係が存在していなければ、裏切りに非は完全に長政のものとなる。

 いずれにせよ、信長長政が自分に刃向かうとは夢にも思っていなかったのは間違いないだろう。『信長公記』によると最初信長長政の裏切りを虚報として取り合わなかったと云われている。
 浅井朝倉同盟が実在しなかったと仮定するなら、長政は何故に信長を裏切ったのだろうか?

 信長よりも室町将軍である足利義昭の方に従ったのか?
 単に不意を突くことで信長を討てれば自分が天下を取れると見たのか?
 上述した様に、義昭上洛に尽力したのに行賞が無かった故か?

 いずれも推論の域を出ず、決め手に欠ける。
 ただ、確かな史実として、同盟瓦解後、信長長政が再び手を結ぶことは遂に無かった(朝廷や幕府の仲介で一時的に停戦したことはあったが)。小谷城攻めに際し、信長は最初に同盟を結んだ時の使者であった不破光治を派して降伏勧告を行ったと云うから、信長長政を嫌っていなかったとも云われている。
 だが、長政はこれを拒み、妻と娘を織田軍に引き渡すと自身は自害して果てた。最後の最後まで自分を拒んだことに立腹したものか、信長はお市を騙す形で長政の遺児・万福丸の居場所を聞き出し、助命の約束を反故にして秀吉に磔にさせたとか、長政・久政・義景の頭蓋骨を盃にしたとも云われた。

 ただ、これらの所業もその虚実がはっきりせず、頭蓋を盃にしたのも、「辱めた。」と云う意見もあれば、「むしろ敬意を払ったもの」という意見もある。
 加えて、後の世、天下を取った徳川家の二代将軍御台所にして、三代将軍の母となった崇源院(お江)が長政の末娘故、長政の人生そのものが美化された可能性が有り、話は本当に単純ではない。

 人としては、せめて長政とお市の終生変わらなかった仲睦まじさだけは本物だったと思いたいところである(お市は後に柴田勝家と再婚しているが)。




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令和六(2024)年一一月一日 最終更新