第肆頁 武田信玄………両雄並び立たずの典型
同盟者file肆
名前 武田信玄(たけだしんげん) 支配地 甲斐・信濃・駿河 同盟締結期 永禄八(1565)年一一月 同盟終焉期 元亀年間(1570〜1573年) 同盟目的 東方不安除去 人的条件 信長養女と信玄四男(勝頼)との婚姻 同盟瓦解理由 徳川家康との関係 対信長友好度 四
同盟の背景 戦国大名の多くが源平の子孫を名乗っていたが、その多くは胡散臭いものだった(苦笑)。だが、甲斐武田氏が源新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の名家であることは疑いの余地がなかった。
だが、そんな名家をもってしても、甲斐一国を完全に掌中に出来たのは、武田信玄の先代・信虎の時代になってのことで、何百年もかけてようやくにして成り立ったものだった。
一方の織田家が織田信長の代になってようやく尾張を統一出来たのは第壱頁で述べた通りである。
守護となった自国でさえそんな有様だったから、両家とも国外は敵だらけと云っても過言では無かった。それゆえ本作で述べている様に信長は周辺国との同盟を重視し、信玄も信長と同等か、それ以上に同盟を重視した。
有名な話だが、信玄は駿河の今川義元、相模の北条氏康と甲駿相三国同盟を締結し、南方と東方の憂いを除くと信濃への侵攻に集中した。その同盟相手である義元は東海道の制圧に乗り出したが、永禄三(1560)年の桶狭間の戦いで義元がまさか討死を遂げると同盟関係は徐々に綻びだした。
信玄にとって、実の甥であり、娘婿でもある今川氏真だったが、武将・同盟相手としては誠に心許ない存在だった。信濃を制したものの、上杉謙信と云う難敵を擁する越後に向けて領土を広げるのは得策とは云えず、まだまだ国人衆の荒廃が油断ならない信濃を戦場とすることは好ましくなかった。故に信玄は美濃と国境を接する木曽義昌に三女を娶せ、信長を牽制しつつも、事を構えるのは得策ではないと見た。必然、信玄は海と安部金山を求めて駿河に食指を伸ばし、同盟堅守を訴えて自分に逆らった嫡男義信を東光寺に幽閉までした。
一方の信長も、運よく今川義元を倒せたとはいえ、強大な今川が急に滅びた訳では無く、四方八方を敵に回す訳にはいかず、東方・三河は徳川家康、西北・近江は浅井長政と結び、西南の伊勢に対しても次男・信雄を養子に送って和睦に努め、当面の敵を美濃の斎藤として、これに勝利するも、これによって戦国の巨獣・武田信玄と境を接することとなった。これまた戦いたく無い手合いである。
以上の経過を経て、両者の間に「当面は敵に回さない方が良い。」との思惑で、不可侵条約に近い同盟関係が成立した。
信玄が義信を幽閉した、所謂、義信事件が起きたのは永禄八(1565)年一〇月のことだったが、翌月には既に信長の姪・龍勝院(妹婿・遠山直廉の娘)を養女として信玄の四男・諏訪四郎神勝頼との婚儀が行われたから、信長と信玄はもっと前から同盟を画策していたと思われる。
対人関係 織田信長も武田信玄も時として非情な手段を辞さないところがありつつも、基本は合理主義者だった。情に流されず非情な決断が出来るが、逆を云えば無駄な裏切り・陰謀・粛清を行うような馬鹿でもなかった。
となると、両者にとってこの同盟は利害が一致する間は非常に頼もしい同盟関係と云えた。
実際、勝頼と龍勝院の夫婦仲は良好で、永禄一〇(1567)年一一月、二人の間には嫡男が生まれ、信玄もこれを喜び、武田氏の通字で、信長の一字でもある「信」と勝頼の「勝」を取って信勝と名付けられた。
その後、不幸にして龍勝院は早世した(『甲陽軍鑑』では信勝を産んだ際の産褥熱を死因としているが、『織田家雑録』では四年後の元亀二(1571)年九月一六日としており、その二ヶ月後に供養が行われた記録がある)。
昭和六三(1988)年放映の大河ドラマ『武田信玄』では龍勝院(徳丸純子。同ドラマでの名前は雪姫)は信雄を産んですぐに産褥熱で逝去しており、養女の訃報に接した信長(石橋凌)はこれによって武田家と手切れになるのを恐れて、即座に家臣に嫡男・奇妙丸(信忠)の妻に信玄の娘を迎える婚儀を整えるよう命じ、信玄(中井貴一)も五女・松姫(香川沙美)を嫁がせる約束をした。
上述した様に、昨今では龍勝院は信勝を産んですぐに死んだものではないとの説が有力となっているが、信勝が生まれた翌月に奇妙丸と松姫の婚約が為されており、信長は信玄との間に互いにとって孫になる信勝が生まれて尚、別途の婚姻を為そうとしたのだから、かなりこの同盟を重視していたことが分かる。
信長が信玄との同盟を重視した要因を一言で云うなら、「恐れ」である。信長ならずとも、戦国最強と云われた信玄は(←異論のある方もいるとは思いますが)誰しもが出来るなら戦いたく無い手合いだった。上述の大河ドラマでも信長は度々信玄の威勢への恐れを口にしていたし、度々珍品名宝を送っては信玄の機嫌取りに細心していた。
勿論信長は臆病者ではない。相手が誰であれ、戦うべき時には戦う。ただ、信玄と事を構えるとなると、勝つのは容易ではなく、勝てたとしても甚大な害を被る可能性が高く、そうなると西方の敵が間隙を突いてくることは容易の想像出来た。
同盟瓦解後の話になるが、信長は信玄と対峙した家康から援軍を求められてもなかなか応じなかった。信玄が死んだ後の勝頼の代になっても、必勝の構えが出来るまでなかなか腰を挙げず、長篠の戦いに際して、大量の鉄砲を用意出来たことでようやく重い腰を上げたのは第弐頁で述べた通りで、それ程信長は信玄も、武田家も恐れていた。恐れるべきを恐れるのは決して臆病ではないし、信長がなかなか援軍要請に応じないことにやきもきしていた家康自身、三方ヶ原の戦いで甲州勢の恐ろしさを痛感して以来、単独で甲州勢と当たることを極力避けていた故だった。
結果的に長篠の戦いで大勝した信長だったが、一説には梅雨で鉄砲が役に立たないことを案じた信長はこの時も家康からの援軍要請を渋っており、長篠城から鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が決死の使者としてやってきたことで、「これ以上渋ると本当に家康が織田と手を切って武田につくかもしれない。」と見たからだとも云われている。
逆を云えば、信玄存命中に充分な力を得ていれば、信長は早々に同盟を破棄したのではあるまいか?勿論数々の同盟を踏み躙った信玄も状況次第では血縁関係を無視してでも攻め寄せて来ただろうし、互いが互いに同じ警戒を持っていたのは充分認識していただろう。
同盟の終わり 織田信長と武田信玄の同盟が瓦解したのは元亀年間(1570〜1573年)のことだった。そして同盟崩壊には一人のキーパーソンが存在した。徳川家康である。
信玄と家康もまた信長とは別途に同盟を結んでいた。両者が共通の敵としたのは今川氏真で、共同して今川を滅ぼした暁には信玄が駿河を、家康が遠江を領有するとし、実際にそうなった。だが、国境接するともはや、「昨日の友は今日の敵」であった。
元亀元(1570)年、信玄は駿河を完全に掌握すると東海道に勢力を伸ばさんとし、家康と対立。同年末には早くも部将の秋山虎繁が徳川軍と衝突し、敗れた。この間、信長と信玄の友好関係は続いていたが、信長と家康の同盟関係は誰もが知っていて、信玄も家康と戦い続ければいずれは信長を敵に回すことを承知していたし、そもそも西上したのは足利義昭からの信長討伐の御内書を大義名分としていたので、表面上の関係はともかく、この時点で既に同盟は瓦解し、奇妙丸と松姫の婚約も自然消滅していた。
上述した様に、信長は最後の最後まで(正確には必勝の体制が整うまで)甲州勢と事を構えることを避けた。家康が武田との手切れを求めても遠回しに断り、逆に家康に対して信玄に逆らわないよう促した。
有名な三方ヶ原の戦いに際しても、最終的に三〇〇〇の援軍(頼りにならなかったが)を家康に送った信長だったが、その際に浜松ではなく、岡崎に下がって甲州勢と戦うよう助言している。
それ程信長は信玄を恐れており、家康に対しても極力正面衝突して勢力を削がない様に望んでいたのだろう。この時既に信玄は労咳(肺結核)を病んでおり、信長が時間稼ぎに走って極力甲州勢との戦端を開くまいとした戦略戦術は間違っていない。
そして決定的な断絶の契機となったのが、元亀二(1571)年に信長によってなされた比叡山焼き討ちだった。過去作でも何度か触れたが、薩摩守は信長が仏教勢力と戦ったことは非としていない。当時の大寺院は下手な大名以上の武装勢力で、金満家で、比叡山延暦寺の腐敗は目に余った。
昨今ではこの焼き討ちを「小火程度だった。」とする説もあるが、規模の程度はどうあれ、この信長の攻撃を反信長勢力は非を鳴らす絶好の材料とし、信玄も信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。
天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願し、自分を保護してくれた、僧侶でもある信玄に対して権僧正(仮の僧正)という高位を与えた。
同年、信玄は北条氏政(←娘婿でもある)との同盟を復活させており、翌元亀三(1572)年一〇月三日、将軍足利義昭の討伐命令応じる形で甲府を発った。ただ、情報伝達が現代よりもはるかに時間のかかったこの時代、信長は信玄の甲府進発を知らずその二日後に信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送っていた。つまり、まだに信玄対して「同盟者」の立場を保とうとしていたのであった。
だが、事ここに至って同盟は完全に崩壊していた。
信玄は駿河、遠江、東美濃の三路から進軍し、秋山虎繁が一一月に信長の叔母おつやの方が治める東美濃の要衝・岩村城を包囲し、降伏に追い込んだが(後年同城を奪還した際に信長はこの叔母を惨殺している………)。
これを受けて信長も信玄に対して同盟断絶を正式に表明し、三方ヶ原の戦いに臨む家康に佐久間信盛、平手汎秀率いる三〇〇〇の援軍を送った。第弐頁でも触れたが、三万近い大軍を擁する甲州勢に対して、家康の手勢は一万程で、三〇〇〇の援軍では足しても甲州勢の半分に満たなかったが、四方を敵に囲まれていた当時の信長にとっては精一杯の援軍だったと思われる。
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令和六(2024)年一一月五日 最終更新