第壱頁 柴田勝家‥……徹頭徹尾の猛将人生

名前柴田勝家(しばたかついえ)
生没年大永二(1522)年?〜天正一一(1583)年四月二四日
身分織田家家老
通称修理、権六、瓶割り柴田、かかれ柴田
略歴 大永二年の生まれとされるが、正確な生年は不詳。
 尾張の土豪の出身と云われ、若くして織田家に出仕し始めた。出仕当初の主君は織田信秀で、当時尾張半国の三奉行の一人に過ぎなかった信秀が下克上で終わり一国を支配するのに勝家も尽力した(尾張統一の完成は信長の代)。

 天文二〇(1552)年三月三日、信秀が逝去すると、勝家は家督を継いだ信長ではなく、その同母弟・勘十郎信行の家老となった。
 信秀生前より、その奇行から「うつけ者」と呼ばれた信長が家中から白眼視されていた中、信行と共に織田家家督奪取を図ったが、信長に敗れて、剃髪して詫びることで信行共々許された。
 程なく、信行は再度の謀反を図ったが、この時勝家は信行に味方せず、このことを信長に密告し、事件解決に尽くしたことで以後、信長の信を得た。さすがに一度許されながら二度刃向かったとあっては信行は許されなかったが、信長は勝家に信行遺児の養育を命じた。

 信行殺害の直後こそ重要な戦い(桶狭間の戦い等)に従軍できなかった勝家だったが、永禄一一(1568)年に信長が足利義昭を奉じて上洛に掛かったころから織田家を代表する猛将として活躍し、数々の戦場にて獅子奮迅の激戦を展開し、内外にその威名を恐れられた。
 特に前田利家や、佐々成政など、家中でも「猛将」と呼ばれる者達と馬が合い、信長による天下統一事業の終盤では北陸平定の総大将を任じられ、越後の上杉景勝と対峙するという重任を賜った。

 だが、その対陣中の天正一〇(1582)年六月六日に、主君・織田信長は明智光秀の謀反にあって四日前に横死(本能寺の変)していたことを知った。悲報を聞いた勝家は安土へ急ぎ撤退せんとしたが、その途中で既に光秀が羽柴秀吉によって討たれたことを知らされた。
 本能寺の変にて、信長のみならず、織田家の家督を継ぐ筈だった嫡男の信忠まで命を落としていたため、織田家の家督を誰が継ぐか織田家重臣達による緊急会議が行われた(清洲会議)。会議に臨んだのは勝家、秀吉、丹羽長秀、池田恒興だったが、周知の通りこの会議は「主君の仇・明智光秀を討ち取った。」という手柄を挙げていた秀吉が大きな発言権を持っていた。
 会議では信長・信忠の後継者選定と織田家領土の配分が議題となったが、後継者は信忠嫡男の三法師(織田秀信)に決まった。このとき三法師は僅か三歳で、勝家は如何に信長嫡孫とはいえ、幼少の三法師よりもすでに成人していた信長三男(実際は次男)の信孝を推したが、前述の発言力や、丹羽長秀への根回しもあって、勝家の主張は退けられた。
 これにより、勝家と秀吉の対立は決定的なものとなった。

 織田家家督を諦め切れない信孝は、信長の妹(つまり自分の叔母)で、浅井長政未亡人でもあったお市を勝家に娶せ、自分との結び付きを強めて兄(実際は弟)・信勝、秀吉に対抗戦とした。
 秀吉と対立する勝家は、秀吉が自分の養子で、信長四男でもあった羽柴秀勝を(名目上の)喪主とした信長の百箇日法要にもお市とともに参加しなかった。
 結局、秀吉との対立は武力抗争に発展し、天正一一(1583)年三月一二日に、賤ケ岳の戦いが勃発したが、勝家はこれに大敗し、居城である越前北ノ庄城に追い込まれた。
 盟友・前田利家からの降伏勧告も拒絶した同年四月一六日に勝家はお市共々壮絶に自害して果てた(その壮絶さは過去作・『切腹七選』参照)。柴田勝家享年六二歳。



鬼の働き場 柴田勝家の名を聞いて、即座に「猛将」と連想する人は多いだろう。
 歴史漫画における描かれようも厳つい髭面の猛将然としたものが多く、ドラマで勝家を演じる俳優も、宍戸錠、綿引勝彦、中尾彬、大地康雄、菅田俊氏、といった強面の方々が多い(ファンの方々に怒られないかな………)。

 実際、勝家は厳格な、戦場の鬼であり、仕事の鬼でもあった。
 略歴に書いたように、織田信行から織田信長に降った当初こそ、前歴の為に重要な戦いを任されなかったが、いざ戦場に出ると獅子奮迅の奮闘で織田家四天王の筆頭にのし上がった。
 道場主が小学生の頃、最初に買って読んだ日本人の伝記は織田信長だったが、本能寺の変に際し信長を守ってくれる筈の重臣達が各地で従軍していたために信長を助けられなかった事への記述において、勝家は「最も強く、頼りになる勝家は」と記されていた。
 それだけ勝家の武威はかなりの定着を現代においても為していた。

 織田家中の重臣達の活躍と重要性を例えた表現に、「木綿藤吉郎、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」というものがある。
 前から順に、藤吉郎=木下藤吉郎(豊臣秀吉)は木綿布の様に使い勝手が良く、五郎左=丹羽五郎左長秀は米の如く欠かせない人材で、柴田勝家と佐久間=佐久間信盛は戦の進退における重責を担う名将とされたと意味している。
 勿論四者四様に織田家中に欠かせない人物と見られた訳だが、単純に軍事上の活躍で見れば勝家と佐久間は特に重視されていたことが分かる。

 そして勝家が鬼の様に厳格だったのは、敵兵や同僚だけではなく、主君・信長に対しても同様だった。
 それを物語るのは、勝家が先陣大将に任じられた時のエピソードである。
 当初、勝家は先陣大将拝命を固辞した。だが信長は先陣大将就任を強要した。
 そしてある日、安土城下で勝家の隊列に信長の旗本が衝突したとき、勝家はこの旗本を無礼討ちにし、これに信長が激怒した。
 だが勝家「だから私は先に御辞退申し上げたのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものでは御座いませぬ。」と云い切り、これには信長もぐうの音が出なかったと云う。

 とかく、世においてパワハラを頻発する鬼上司ほど、部下にばかり鬼であり、上司には丸っ切り弱いことが多い。しかしそのような狭量な人物はどんなに怖くても「鬼」と呼ぶには値しないと薩摩守は考える。

 少し話が逸れたが、「鬼」としての勝家は、戦場や将としての在り様のみならず、指揮官としても有名である。
 これも比較的な有名なエピソードだが、籠城に際し、飲み水が残り少ない状態で部下達にたっぷり水を飲ませると残った水瓶を叩き割って不退転の決意を促した「瓶割り柴田」の逸話も「鬼の柴田」を語るには欠かせないだろう。



鬼の裏側 柴田勝家賤ケ岳の戦いに敗れ、その後呆気なく羽柴秀吉の前に滅亡に追いやられた過程の中に、滅亡の歴史によくある「櫛の歯現象」があった。
 甥の柴田勝豊に裏切られ、頼りとした盟友前田利家も秀吉につき、賤ケ岳から北ノ庄に至る敗走途上で多くの家臣が離反した。
 だが、勝家はそれ等の者達に一言の怨み事も述べず、北ノ庄での終焉においてもお市や家臣達に落ち延びること勧めた。敵や同僚に厳しく、主君に対しても云うべきは云ってのけた漢(おとこ)は意外にも部下には優しかった。

 後、柴田勝家の人物像を捉えるに際して、豊臣秀吉との対比から距離を置く必要があると薩摩守は考える。
 二〇年程前まで、秀吉を主人公としたドラマや小説、漫画における勝家は二言目には秀吉を「猿!」と罵って、重臣筆頭としての膂力をちらつかせてパワハラの権化のように振る舞う人物に描かれ、織田家中における秀吉の天敵としか思えない扱いだった。
 勝家に殉じた市姫もまた秀吉を徹底的に嫌い抜いた女性と描かれ、勝家は自分に再嫁したばかりにたった半年ほどの夫婦関係の為に人生二度目の落城の憂き目に遭ったお市を憐れみ、三人の娘と共に落ち延びることを勧めたが、お市は秀吉の世話になるぐらいなら文字通り死んだ方がマシと云わんばかりの姿勢で勝家に殉じた(まあ、兄貴に命ぜられたとはいえ、お市にとって秀吉は夫と息子の命を奪った急先鋒だった訳だが)。

 だが、少し調べれば分かるが、勝家は自らの武威に物を云わせてふんぞり返っているだけの男では決してなかった。
 信行に味方して信長に敗れたことを初め、失敗も成功も多く、秀吉や明智光秀に負けず劣らず苦労もしている。
 「墨俣の一夜城」築城では自らが失敗したのを秀吉に成功され、長島一向一揆との戦いでは負傷し、織田家重臣中最初の城持ち大名となる栄誉は明智光秀に奪われている(道場主も、十数年前まで、織田家重臣で最初に城持ち大名となったのは勝家と思っていた)。
 そして後輩にして、数々の成功を収めて来た秀吉も信長晩年には勝家と対等に振る舞っており、北陸攻めに際しては軍議でもめたのに立腹した秀吉が勝家の旗下から離脱するなんてことまでしている(←普通に考えるなら勝手な戦線離脱で打ち首もの)。

 とかく、「秀吉にパワハラを働いた男」とのイメージが強い勝家だったが、配下としては秀吉よりも遥かに信長に信用され、信長が足利義昭と対立し、一度は和睦した際に取り交わされた誓書に勝家も連署している。
 そんな柴田勝家の人となりを秀吉に偏った記録で見るのはかなりの色眼鏡を通すものとなる。だが、第三者として勝家の人となりをしっかり見ていた意外な人物がいた。

 ルイス・フロイスである。
 信長と懇意だったことで有名なこの宣教師は信長に関する記録を残す中、勝家のことを、「甚だ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」、「信長の時代の日本で最も勇猛な武将でありながら果敢な人」と評している。
 また宗教人としてフロイスは、勝家が自らの信仰(禅宗)以外の宗派にも寛容で、北ノ庄での布教活動に対しても、「邪魔しない代わりに助けもしない。」という態度に終始し、北ノ庄にキリスト教が広まるかどうかは「宣教師の努力次第」としたと云うから如何にも勝家らしいエピソードと云えよう。



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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新