第弐頁 吉川経基‥……戦闘力も生命力も鬼並

名前吉川経基(きっかわつねもと)
生没年正長元(1428)年〜永正一七(1520)年一月二八日
身分安芸国人、吉川氏第一一代当主
通称次郎三郎、鬼吉川、俎板吉川
略歴 正長元(1428)年、吉川之経の嫡男として誕生。幼名は千若。安芸国の国人だったが、頑健な体に恵まれ、武勇に優れたことから長禄四(1460)年には室町幕府八代将軍・足利義政の命を受け、管領家である畠山氏の内紛にて当主の畠山政長を助けた。

 応仁元(1467)年、室町時代が戦国時代へ突入する要因となった応仁の乱が勃発すると細川勝元率いる東軍に従軍し、西軍相手に壮絶な戦いを展開した。その戦功により、経基は義政より石見、安芸の各地に領土を賜り、経基「吉川氏中興の英君」と呼ばれるようになった。

 応仁の乱が双方痛み分けの形で有耶無耶に収束する最中の文明九(1477)年一月七日、父・之経が世を去り、吉川経基は正式に吉川家第一一代当主となった(それ以前に実質的に家督は譲られていたとの説もある)。
 その後、応仁の乱の影響で日本全国が戦国化する中、経基は備後国人衆と戦い続け、文明一四(1482)年には幕命により河内で、長享元(1487)年には播磨の赤松政則の要請により播磨に、と遠征・奮戦した。

 永正六(1509)年に八二歳になってようやく家督を息子の国経に譲った経基は、一一年後の永正一七(1520)年にこの世を去った。享年は九三歳で、当時としてはそれこそ鬼並の長寿で、周囲に驚かれたであろうことは想像に難くない(ちなみに息子の国経は八九歳まで生き、その国経に先立った孫の元経も六四歳まで生きた長寿一族だった)。



鬼の働き場 応仁の乱を初めとする吉川経基の戦場での戦働きにはまず文句の付け様がない。
 細川勝元に従って畠山義就と京都相国寺付近で死闘を繰り広げた際、細川勢は劣勢で逃亡者が続出するという状況だった。そんな中経基は配下を叱咤激励して陣地を死守し、畠山勢に徹底的な反撃を加えた。
 結果、細川勢は勢いを取り戻し、畠山義就の撃退に成功した。その戦いぶりから、世に「鬼吉川」「俎板吉川」と異名され、その武勇は全国に響き渡った。そしてその勇猛さを共に戦った尼子経久に見込まれ、その娘を正室に迎えた。

 そしてその「鬼吉川」の異名は経基自身に留まらず、吉川氏そのものが代々異名され、皮肉なことに、謀略で吉川家を乗っ取った毛利元就の次男・吉川元春は最もその異名を具現化したのだった。

 ちなみに、吉川元春を産んだ元就正室は経基の孫娘で、元春は経基の外曾孫に当たるので、経基の血筋は吉川家の中に残り続けた(まあ、その血筋を逆手に取ったのが元就の謀略だった訳だが……)。



鬼の裏側 戦場では鬼だった吉川経基だったが、戦場を離れれば文化と政治に優れた名君でもあった。

 経基は文学・書道・禅にも秀で、吉川家には経基が自分で写本したの『古今和歌集』『年中日発句』『拾遺和歌集』等が現存している。また東福寺の僧虎関の編による『元亨釈書』を愛読し、僧達とその内容に対して議論を交えたこともあった。
 同じ「経基」でも、臣籍降下をきっかけに地方での横暴や略奪に走り、勢力争い負けたら讒言して逆に敗訴して罰せられた源さんところの「経基」とは大違いだ(笑)。

 経基の曾孫で、毛利家から吉川家を乗っ取った吉川元春も、兄弟(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)の中で最も勇猛に戦いつつも、陣中において『太平記』を写本していたと云う。誠、興味深くもどこか皮肉な史実と云えようか。


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令和三(2021)年三月一六日 最終更新