第参頁 佐竹義重‥……強弱を見抜く慧眼も「鬼」並

名前名前 佐竹義重(さたけよししげ)
生没年天文一六(1547)年二月一六日〜慶長一七(1612)年四月九日
身分佐竹家一八代当主
通称次郎、鬼義重、坂東太郎
略歴 天文一六(1547)年二月一六日、常陸の戦国大名で佐竹氏の第一七代当主・佐竹義昭の子として誕生。幼名は徳寿丸

 永禄五(1562)年、父・義昭の隠居を受けて家督を継ぎ、佐竹家第一八代当主となった。当主となった後の義重は越後の上杉謙信と提携して常陸の小田氏治、下野那須郡の武茂氏、白河氏と戦い、北関東に覇を唱えた。
 その一方で関東の雄・相模の北条氏政と関東諸氏族とともに対立。氏政は元亀二(1571)年に蘆名盛氏・結城晴朝等と同盟を結んで、佐竹氏に従属する多賀谷政経を攻めたが、義重は援軍を送って北条方を撃退した。

 元亀から天正にかけては結城氏、岩城氏を傘下に収め、那須氏とも講和を結んで活発に勢力を拡大していったが、急速な勢力拡大は周辺の諸大名に危機感を抱かせ、北条氏政や蘆名盛氏等との対立が深刻化したが、蘆名とは後に同盟した。
 そんな状況下にあって義重は、近場では結城氏・宇都宮氏と婚姻関係を結び、遠くは勢力急上昇中だった羽柴秀吉と懇意になって北条に対抗せんとした。
 一方、東北方面では蘆名との同盟を強みに「北は伊達、南は佐竹」と目される程の一大勢力を築き、自他ともに「奥州一統を為した。」と認めるに至った。

 だが、勢力を拡大すればする程より強い敵と対面することになり、天正一三(1585)年に北条軍に下野長沼城を奪われ、不利な状況下においての和睦を結ばざるを得ず、同盟相手であった蘆名氏が盛氏以後の当主が次々と早世したため勢力が衰退し、伊達との対立が深刻化した。
 蘆名氏の家督問題に対して義重は幼少の亀王丸をいち早く支持して、伊達輝宗を牽制した(輝宗は次男の小次郎を蘆名家の養子に送り込もうとしていた)。そして輝宗の後を継いだ政宗は義重が破った田村清顕の一人娘を正室に迎えていて、政宗の叔母を正室としていた義重としても複雑な問題だった(ちなみに亀王丸夭折後、蘆名に養子入りしたのは義重の次男で、白河家に養子に行っていた義広だった)。

 同年、義重は伊達氏と対立する二本松氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して政宗と戦った(人取橋の戦い)。義重は戦いを有利に進めた(政宗は重臣の鬼庭左月を失った)が、後一歩のところで留守中の常陸で江戸氏等が不穏な動きを示したため撤退した。
 その後、天正一四(1586)年から天正一七(1589)年に掛けて政宗とは戦ったり、和睦したりを繰り返したが、蘆名義広が摺上原の戦いにて政宗に大敗し、翌年に滅亡したことで結城・石川・その他陸奥南部の諸大名が政宗に寝返ったため、佐竹は南の北条氏直、北の伊達政宗という二大勢力に挟まれ、滅亡の危機に瀕した。
 そんな中、義重は長男・義宣に家督を譲って隠居したが、実権は………(以下、同文)。

 伊達と北条に挟まれた危機的状況を救ってくれたのは、懇意にしていた豊臣秀吉だった。
 天正一八(1590)年、秀吉は小田原征伐を開始し、義重は義宣とともに小田原に参陣して石田三成の忍城攻めに加わった。
 周知の通り、北条氏政は秀吉によって滅亡に追いやられ、伊達政宗も事実上の降伏し、蘆名氏から奪取した領土の殆どを没収された。これにより義重は危地を脱するとともに常陸五四万石の支配を秀吉から認められ、関東の一雄となった(ま、すぐに徳川家康が関東にやって来たので関東一にはなれなかったが)。

 一段落したことで安心した義重は当主としての実権も義宣に譲り、太田城にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。
 しかし、慶長三(1598)年に豊臣秀吉が薨去すると徳川家康と石田三成の対立が静かに進み、義宣が三成と懇意だったことから平穏な時は終わった。慶長四(1599)年に前田利家が亡くなったことで三成に反感を持つ武断派(加藤清正・福島正則・加藤嘉明等)が三成を襲撃せんとした際には、義宣はそのことを三成に知らせ、家康に助けを求めることを勧めまでした。
 一方の隠居・義重は家康の天下を見据えていたので、義宣に対しても家康に味方するよう告げていたが、父と友の狭間で旗色を鮮明にしなかった義宣は関ヶ原の戦いが家康の大勝に終わると曖昧な態度が祟って出羽久保田二〇万石への減封を食らった。
 佐竹家が改易を免れたのは、義宣とは正反対に義重が家康・秀忠と誼を通じ、減刑嘆願したからに他ならなかった。

 久保田移封後、新領地では反佐竹の一揆が相次いだため、義重は義宣とは別に六郷城(現・仙北郡美郷町)に居を構え、鎮撫にも尽力していたが、慶長一七(1612)年四月一九日、狩猟中に落馬したことで事故死した。佐竹義重享年六六歳。



鬼の働き場 佐竹義重は戦に強いだけではなく、政治にも外交にも優れていた。
 単純に戦闘力だけで見ても、北条勢との戦闘において七人の敵を一瞬で斬り伏せたとの逸話があり、その勇猛さから「鬼義重」、「坂東太郎」との異名を取り、恐れられた。
 愛刀家で、上杉輝虎(謙信)から名刀・備前三郎国宗を送られており、南北朝時代に鍛えられた八文字長義なる名刀を持ち、北条の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたと云うから、話半分としても尋常ではない腕力を持っていたのだろう。



鬼の裏側 「文武両道」という言葉があるが、実際に両道に秀でている人間は多いのか少ないのか、いまだに良く分からないと薩摩守は考えている。
 余談だが、道場主は関西では一応は名の通った私立大学を出ているが、その大学には「旧帝大系の国立大学に行く力が充分にあるな。」と思われる天賦の才に恵まれているとしか思えない者もいれば、「かなり努力と少しの運とでこの大学に来たんだな。」と思われる努力型の者もいた(勿論、二分化できるほど人間は単純ではないが)。

 そして当時強く思っていたのは、「真に優れた人間は何をやらせても高水準に達するんだよなぁ………。」という羨望とも嫉妬ともつかない想いだった。
 殊に、体育会に所属していたので、勉強も部活もトップクラスの仲間を見ていても、そして旧帝大系の大学チームが多くの部で強豪の地位を占めているのを見ていても、その想いを強くしていた。
 勿論、勉学でも部活でも天賦の才や素質による差を血のにじむ努力で埋めた人間は数多くいるだろうし、道場主が死ぬほどの努力をしたか?と云えば答えは「否」なので、上記の話を「道場主の努力不足を棚に上げた愚痴」と云い切ればそこまでである。
 ただ、佐竹義重の人生と、武力・交渉能力・洞察力といった能力を見ていると、先天的にありとあらゆる面において秀でた人間に対する羨望が心の中で鎌首をもたげたのは偽らざる本音である。

 ただ、逆の見方をすれば、それほどの能力を発揮しないと生き残ったり、勢力を保持したりするのが困難な時代だったことに同時代人への同情と悲しみを覚える。
 混迷を極めた関東・東北南部にあって、義重に限らず多くの大名は能力のあるなしに関わらず陰に日向に戦いの日々を強いられ、強くなければ忽ち滅ぼされただろうし、強くても相手が悪かったり、弱ったところを攻められたり、仲間に裏切られたり、運が悪かったりで天寿を全うできなかった者は枚挙に暇がないだろう。
 実際、佐竹家よりも遥かに大勢力を築いた北条・蘆名とて次世代に家名を残せなかった(厳密には残しているが、最盛期とは比較にならない小身としてである)。

 ともあれ、強くなければ生き残れなかった時代、佐竹義重は鬼の様に万事に優れた能力を発揮したが、それでも戦った相手もまた強く、同時に「戦わざるべき相手」を正しく見極めないと身の破滅に繋がりかねないことをその人生を通じて暗に示してくれている。
 戦国時代を織田信長→豊臣秀吉→徳川家康の三英傑の流れで見ると、義重よりも息子の義宣の方が有名だが、これは関ヶ原の戦いに前後して石田三成と絡んだことによるものだろう。
 だが前述した様に、この戦いにおいて佐竹家は旗色を明らかにしなかった。
 通常その様な曖昧な態度は双方からは信用されず、関ヶ原の戦い後の西軍方への(そして一部の東軍方への)苛斂誅求を極めた論功行賞を見れば、佐竹家は取り潰されてもおかしくなかった。
 それを辛うじて救ったのは、(これも前述したが)その時点で隠居だった義重だった。秀吉亡き後、徳川の天下到来を的確に見抜いていた義重(黒田長政・藤堂高虎・山内一豊等もその辺りの慧眼は同様である)は三成と懇意だった義宣に忠告するとともに自らも家康・秀忠と誼を通じていた。

 結局、西軍方の多くが改易に処せられ(義重の実子・蘆名義広もその対象)、五家が減封という形で何とか家格を存続させた。その五家とは、上杉・毛利・吉川・藤掛そして佐竹家だった。
 鬼の如く強く、鬼の如く後々を見通す目を持っていても、生き残るのが精いっぱいだったとは悲しい時代だし、恐らく義重の人生はほんの一時期を除いて心の休まる間も無かったことだろう。

 余談だが、義重の末子の義直は義重の死後に生まれている。つまりアッチの方も生涯鬼の如く戦い続けていた訳だ(笑)。
 まぁ、当時六〇過ぎで子供を作った例は何ぼでもあるが。


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令和元(2019)年五月一四日 最終更新