第肆頁 本多重次‥……鬼と仏とどちへんなし

名前本多重次(ほんだしげつぐ)
生没年享禄二(1529)年〜文禄五(1596)年七月一六日
身分三河松平家重臣、岡崎城城代家老
通称作左衛門
略歴 享禄二(1529)年、三河武士本多重正の子として生まれた。後に主君となる松平元康(徳川家康)より一三歳年長。
 幼名は八蔵。長じて通称を作左衛門、怒りっぽさと、鬼のような厳格さからいつしか「鬼の作左衛門」、略して「鬼作左」と呼ばれるようになり、本名の重次よりも作左衛門の方が有名なので、本作でも「作左衛門」で通します(お約束)。

 年齢的に元康の父・松平広忠の代から出仕したと見られ、嫡男竹千代(元康)が人質にされたり、主君広忠が暗殺されたり、城代としてやってきた今川家臣への臣従を強要されたり、といった松平家冬の時代を同年代の石川数正等と忍従し、戦場に内政に尽力した。
 殊に戦にあっては松平党は今川義元から先鋒を命じられることが多く、戦死率の高い最前線での連戦は過酷で、松平党では戦の度に家中の誰かが帰らぬ人となり、作左衛門も連戦の渦中で片目や指等を失ったと云われている。

 周知のように永禄三(1560)年、桶狭間の戦いにて今川義元がまさかの戦死を遂げると、主君元康が一三年振りに岡崎に帰って来たことが、元康にも作左衛門にも大きな転換点となった。
 義元の戦死で今川家が代替わりをすると元康はやがて今川家との手切れに走り、嫡男信康の正室に織田信長の娘を迎えて織田と結び、姓名も徳川家康と改め、本拠も浜松に移ると作左衛門は岡崎に残った信康を補佐する三河三奉行の一人に就任した。

 これらの松平から徳川への過渡期にあって、家臣団も本多忠勝、榊原康政、井伊直政といった若手が幅を利かすように推移する中、作左衛門は石川数正とともに家臣団の筆頭格・長老格として尽力し、腫物で一時危篤に陥った家康を叱咤して荒療治による完治に向かわしめたり、三方ヶ原の戦いで大惨敗した家康の為に鉄砲隊を率いて殿軍・武田軍への牽制に努めたり、命懸けの尽力を続けた。
 そんな中、時には主君に対して怒鳴りつける程の諫言も辞さなかった直言居士振りは内外で一目を置かれたが、時代の大きな流れと、世代交代の流れにはさすがの鬼作左にも抗するのに限界があった。

 天正七(1579)年の信康事件(徳川信康が切腹)、武田家滅亡、本能寺の変、羽柴秀吉台頭、と時代は激変。それに伴って徳川家の勢力も拡大したが、愚直な三河武士達は苦手な政治的駆け引きを強いられるようになり、必然的にその役割は作左衛門・数正に振られるようになった。

 殊に小牧・長久手の戦いで対峙した羽柴秀吉に対し、徳川軍は戦闘では引けを取らなかったが、政治力に抗し得ず、家康が大義名分とした織田信雄(信長遺児)と秀吉が和睦を結んだため徳川家は戦う理由をなくし、直後の関白に就任し、名も改めた豊臣秀吉は今までとは勝手が違い過ぎた。
 その秀吉に対して家康は和睦し、限りなく同盟に近い臣従を選んだ。
 秀吉も家康を手強しと見て、和睦に際しては他家に嫁していた実妹・朝日姫を強引に家康の継室として娶せ、家康の次男於義丸を養子に迎え、実母のなかに岡崎の朝日を見舞わせてまで敵意の無いところを示した。そしてその殆どに作左衛門は一枚噛んでいた(詳細後述)。

 形はどうあれ、家康を(関白に対して)臣従せしめた秀吉はやがて北条家を滅ぼして天下を統一。国内に敵のなくなった秀吉は手強い家康を中央から遠ざけることを兼ねて、論功行賞の一環として北条家の旧領関八州を家康に賜った。
 それに伴って家康麾下の武将達も万石クラスの城持ちになる者が続出した。そんな中、作左衛門は下総小井戸に三〇〇〇石という、それまでの尽力からは信じられないような微禄に封ぜられた(詳細後述)。
 家康の関東入りから六年後の文禄五(1596)七月一六日、本多作左衛門重次死去。享年六八歳。



鬼の働き場 本多作左衛門重次が徳川家にあって最も活躍したのが、岡崎城主となった徳川信康の家老を務めた時期だった。
 桶狭間の戦い後、今川家と手を切り、織田信長と手を結んだ徳川家康は、遠江の要地・浜松に城を築いて本拠とすると、三河松平家発祥の地である岡崎城を嫡男・信康に任せた。

 その岡崎にて、信康を補佐する為に置かれたのが作左衛門、高力清長、天野康景の三奉行だった。この三人を例えた有名な文言に、鬼の作左、仏高力、どちへんなしの天野三平」というものがある。
 まあ、意味は説明するまでもないと思うが、三者はそれぞれの個性を上手く噛み合わせ、岡崎を恙なく治め、信康は血筋的にも、能力的にも、押しも押されもせぬ徳川家後継者として成長しつつあった。

 ただ問題は信康の生母にして、家康の正室だった築山殿にあった(←かなり語弊のある書き方だが)。
 築山殿は今川義元の姪で、家康にとっては松平家を今川家に取り込む為に命ぜられての結婚だった。それゆえ家康にとってはどこか苦手意識の抜けきらない年上女房で、岡崎帰還後の家康は築山殿を「信康の母」と見ても、「自分の女房」としてはまず見なくなった。
 そして「名ばかりの正室」に追いやられた築山殿にとっても岡崎での生活は針の筵だった。桶狭間でまさかの戦死を遂げたのは実の伯父で、夫がその伯父の家を離れ、伯父の仇である織田と結んだのは裏切りとしか映らなかった。
 加えて、息子・信康の室に迎えられたのはにっくき織田の娘………大河ドラマや歴史小説における築山殿像に誇張があるのを差っ引いても、彼女が憂悶の日々を送っていてもおかしくなかったであろうことは想像に難くない。

 そんな岡崎にあって、作左衛門は気性の激しさを増してくる信康を導き、家康のお手付きで身籠ったことで築山殿に殺されそうになったお万の方を匿って子供(結城秀康)を産ませ、信康処分を巡って血気に走らんとする若衆を抑え、武田家との内通も未然に防いだ。
 これは「鬼」と恐れられた作左衛門以外には出来なかっただろう。否、出来たかも知れないが、更なる犠牲を出していたことだろう。

 何せ、最後には天下を取ったとはいえ、豊臣秀吉内のナンバーワン勢力になるまでの家康は数々の危機に見舞われ、いつ死んだり、滅んだりしてもおかしくない状態にあった。
 人質時代は云うに及ばず、岡崎帰還直後は三河すら統一されておらず、三河一向一揆と戦った折には腕に銃弾も受けている。
 武田信玄と対峙した折には三方ヶ原の戦いにおける大惨敗を初め、いつ武田軍の前に戦死してもおかしくなかった。
 これらの苦難を乗り越えられたのは、勿論家康本人の能力や強運もあり、三河武士の団結もあった。殊に作左衛門ならずとも三河武士は主君の為に一命を捨てることも辞さない忠誠心を持つ一方で、主君相手にも堂々と正論を貫き通さんとする直言居士も多かった。ただ、直言居士が個々に自説にこだわり、それが多数に及ぶと「船頭多くして船山に登る。」となる。

 そんな難しい統率を、浜松の銃後と云える岡崎にて成し得たのは作左衛門なればこそだろう。
 恐らく言葉少なく、短気な作左衛門のことだから、岡崎家中の中には日常的に作左衛門に殴られた者も少なくないだろうし、三奉行の一人としての作左衛門に裁かれたことで死に追いやられた者もいたことだろう。
 ただ、鬼上司だった作左衛門は、依怙贔屓が無く、それこそ鬼の様に厳格で公正公平だったからこそ、頑固者揃いの三河武士もまとまったのだろう。

 彼の鬼振りの本質はそこにこそあったと云えよう。



鬼の裏側 徳川家康壮年期の両腕として、石川数正と共に戦場に、内政に尽力して来た本多作左衛門重次だったが、豊臣秀吉による天下統一に前後して急速にその存在感を薄め出した。
 それは、取りも直さず作左衛門が最も活躍した岡崎の存在感が薄れ、天下人となった秀吉を敵に回したことにあった。

 直言居士揃いの三河武士達は、小牧・長久手の戦いで局地戦を優位に展開しながら、秀吉の政治力の前に講和に応じざるを得なかったことに等しく面白からざる感情を抱いていた。
 加えて、和睦の条件もまた面白くないものだった。
 於義丸が養子に行くのは人質に行くようなものだった。
 秀吉の妹の朝日姫を継室に迎えるのも、当時朝日姫は佐治日向守の妻で、年齢も四三歳だった。当時の感覚では、「四〇過ぎの古女房を寄越すなんて、馬鹿にしてんのか?」と映る話だった。四〇過ぎの人妻が手に入るなんて、うちの道場主なら喜び………ぐげげげげげげげげげげ……(←道場主の鬼畜襟締めを食らっている)。

 そんな秀吉の「舐めた好意」に家中が血気に走りかねないのを防止しつつ、家中の云いたいことを一人で代弁し、自らが犠牲となって決して家康への風当たりにならないように細心したのが作左衛門だった。
 於義丸が秀吉の元に養子に行った際は石川数正とともに自分の子を小姓として同行させた(後に甥と交代させたが)。
 また、有名な話だが、大政所(秀吉実母)が朝日に会いに来たことで重い腰を上げた家康が秀吉に謁見した際には母娘が会っていた離れに薪を積み上げ、家康に万一のことがあれば二人を焼き殺さんとの意志を見せて秀吉を恫喝するという暴挙さえ担った。

 かかる鬼の如き、決然とした対決姿勢を見せられてはさしもの秀吉も心中穏やかにはおれず、表向きは家康に物怖じしない家臣の忠烈振りを褒める姿を見せていたが、暗に作左衛門を重要な場に姿を見せない様にとの圧力を掛け続けた。
 結局このことが、家康の心情はどうあれ、晩年の作左衛門を蟄居に等しい冷遇へと追いやった。

 少し話は逸れるが、家康の関東入りは徳川家中の世代交代期でもあった。
 徳川四天王と称された酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の内、最年長で既に隠居状態にあった酒井忠次は、息子・家次に与えられた石高が三万石で、他の三名よりも少なかったことを家康に抗議したということがあった。
 これは徳川四天王の立場では三万石は明らかに微禄と云うことだろう。そして忠次の抗議に対して、家康は「お前も我が子が可愛いか?」と強烈な皮肉を返している。というのも、かつて信康事件において信康の不行状を尋ねた織田信長に対して、忠次はあろうことか訊問内容の大部分を事実と認めてしまった。
 謂わば、信康は忠次の落ち度で死んだとも取れ、それゆえ家康は報復人事で忠次の子・家次を微禄の身に封じたことになる。そしてその当てつけとして三万石は家康にとっても忠次にとっても通る石高だった訳である。

 ここで話が作左衛門に戻るが、同時期の関東入国に当たって作左衛門に宛がわれたのは三〇〇〇石で、酒井父子のこれまでの功績に報いるには微禄とされた三万石の一〇分の一である。
 悪く考えて、これが作左衛門が信康を補佐し切れなかったことへの報復人事だとしても、それならそれで同役だった高力清長も報復人事を受けなければおかしいことになる(関東入国に際し、天野康景は作左衛門と同じ三〇〇〇石、高力は二万石に封ぜられた)。
 これはもう天下人・豊臣秀吉の意向を慮ったとしか考えられないだろう。

 後世、江戸時代中期きっての学者・新井白石の言によると、本多作左衛門という人物は典型的な武骨者で、奉行の柄ではなかったとのことだった。そんな作左衛門が奉行として名を馳せたのもその公正公平な人格と、民への思いやりにあったと白石は分析している。

 鬼の様に厳格でも、誰かれなく鬼だった訳ではなかったと云うことだろう。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新