第伍頁 井伊直政‥……最後の赤備え、最期の赤鬼

名前井伊直政(いいなおまさ)
生没年永禄四(1561)年二月一九日〜慶長七(1602)年二月一日
身分徳川家重臣、彦根城主
通称万千代、井伊の赤鬼、人斬り兵部
略歴 永禄四(1561)年二月一九日、遠江井伊谷(現・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の国人領主にして、今川家家臣・井伊直親の嫡男に生まれた。幼名は虎松(とらまつ)。
 虎松誕生の前年、今川家では当主・義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げ、家運は大きく衰退に向かっていた。井伊家でも、当主・直盛(虎松の父・直親の従兄)は同戦で戦死しており、直親も虎町が二歳の時に今川氏真から謀反の嫌疑を受けて誅殺されるなど、族滅の危機にすらあった。

 虎松は直盛の娘で出家していた次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となるとともに、虎松の養育も担った。
 その後も今川氏から命を狙われる危うい立場にあったが、何とか乗り切り、天正二(1574)年父・直親の一三回忌の為に龍潭寺を訪れた際に直虎と住職・南渓瑞聞が相談し、徳川家康に仕えることとなった。
 翌天正三(1575)年、家康から井伊氏再興を許されると名を井伊万千代(いいまんちよ)と改め、旧領・井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。

 天正一〇(1582)年に元服。直政と名乗り、その年に起きた本能寺の変では、家康と伊賀越えを供にし、その身辺を護った。
 徳川主従が辛うじて三河に帰還した後、直政は北条氏との講和交渉を担い、武田氏の旧領だった信濃・甲斐の併呑、武田家旧臣の編入に尽力した。
 その過程において直政は人員と共に武田流の兵法・軍装も取り入れ、名将・山県昌景の「赤備え」も継承した。

 赤備えは天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いがデビュー戦となった。
 周知の通り、小牧・長久手の戦いは小牧山では対峙に終わったが、長久手では池田恒興・森長可等を討ち取った様に徳川方の大勝だった。そんな中、四天王の中でも最も若い直政(当時二四歳)は、体つきも小柄だった子で逆にその奮闘は目立ち、赤備えに角付き兜で長槍を振るって敵を蹴散らしていく姿から「井伊の赤鬼」と称され、内外に恐れられるようになった。

 若く、勇猛果敢な活躍は時の天下人・豊臣秀吉にも愛でられ、直政小田原攻めでも数多くの武将が参戦した中で、夜襲にて小田原城内まで攻め込んだ唯一の武将となった。
 天下統一後、徳川家が関八州に封じられると直政も上野国高崎にて城持ちとなったが、その石高一二万石は徳川家臣団の中で最大の物だった。

 慶長三(1598)年八月一八日、秀吉が薨去すると、京都にて番役として家康と共にいた直政は豊臣家中における武断派と文治派(「北政所派と淀殿派」、「尾張派と近江派」とも云う)による抗争を仲裁し、それを機に武将派を家康の味方に引き入れることに成功した(特に黒田長政を引き入れたのは大きかった)。

 そして慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いに際して直政は娘婿にして家康四男の松平忠吉とともに家康本軍に随行。本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、諸大名を東軍につける工作を行った。
 そして九月一五日の決戦当日。先陣は福島正則と決まっていたが、直政は「忠吉殿の後学の為。」との云い分で最前線に出て、宇喜多秀家隊に発砲させて忠吉先陣の花を持たせると共に、戦端を開いた。

 その後、上手く出し抜かれた形で怒り心頭となった福島正則と競い合う形で宇喜多隊と激戦を繰り広げた直政・忠吉隊だったが、西軍諸将の多くが日和見を決め込む中、宇喜多隊の奮闘は目覚ましく、直政・忠吉・忠勝・正則の猛将揃いをもってしても容易には撃破出来ず、一進一退の攻防が続いた。
 やがて戦局は有名な小早川秀秋の裏切りで東軍優位に動き、直政達は宇喜多勢を総崩れに追いやり、返す刀で敵中突破を図る島津義弘・豊久勢と激突した。
 僅か一八〇〇の寡兵でありながら薩摩隼人達は強く、次々と捨身でかかってくる島津殿軍の前に東軍勢も少なからぬ被害を受けた。そんな激闘の果てに、井伊・松平勢は義弘の身代わりを買って出た長寿院盛淳・島津豊久を討ち取り、総大将・義弘をも今一歩のところに追い込んだが、直政は島津軍・柏木源藤の放った銃弾を右肘関節に受けて落馬。大魚を逸してしまったのだった。

 かくして大怪我を負った井伊直政だったが、鬼の仕事は戦場を離れても終わらなかった。直政は重傷の身を押して戦後処理に努め、西軍総大将・毛利輝元を説いて大坂城退去せしめることに成功した。
 このとき取り交わされた毛利家の本領安堵は物の見事に反故にされたのだが、それでも輝元は直政に感謝の意を持ち続け、それどころか薩摩に逃げ帰った島津義弘が徳川との和解に頼った伝は誰あろう、自分達が重傷を負わせたはずの直政だった。
 更には同じく敗将となった長宗我部盛親が頼ったのも直政だった。この仲介は功を奏さず、盛親は改易となったが、盛親が直政を頼ったのは、盛親の亡父・元親が直政と昵懇だった縁によるものだった。
 武勇の目立ち勝ちな直政だが、戦後処理に注目すると交流・処世においても多くの人々から尊敬され、頼られていたことに驚かされる。

 他にも、真田信幸(信之)の要請を入れて、西軍についたその父・真田昌幸、弟・信繁(幸村)の助命にも尽力したと云われているが、両名の命が助かったのは、信幸の岳父に当たる本多忠勝の影響の方が大きいと見るべきだろう。

そして戦後処理が終わると、直政自身はこれらの功によって、石田三成の旧領である近江佐和山一八万石と従四位下の任官が与えられた。この佐和山が後に彦根三〇万石となったのは云うまでもない。
 家康の譜代家臣達の中では最も西にして、大坂近くに居を構えさせられたのも、西国の豊臣恩顧大名、朝廷、豊臣家への抑えを担う為で、それだけ家康の信任が厚かった証左でもある。
 その後直政は、家康の後継者がはっきりしない状況下で、暗に娘婿の松平忠吉を推すのに尽力したと思われるが、関ヶ原で受けた銃創の悪化により、戦から二年も経たない  慶長七(1602)年二月一日にこの世を去った。井伊直政享年四二歳。

 直政死後、忠吉は五年後に夭折したために自分の血筋を将軍家には残せなかったが、次男の直孝が大老になったのを皮切りに井伊家は譜代大名として重きを為し、幕末に有名な井伊直弼を輩出するまで幕府に尽くし続けた。



鬼の働き場 前述した様に、井伊直政は戦場で目覚ましい戦働きを続け、その勇猛さゆえに「井伊の赤鬼」と称えられ、恐れられたが、彼が鬼だったのは戦場だけの話ではなかった。
 有り体に云えば、「部下にとっても鬼」だった。また元来が寡黙な性質だった直政は他の重臣達との仲も良い方ではなく、相手が誰であれ媚びることはなかった。「媚びなかった。」と云えば聞こえは良いが、見方を変えれば意固地な反発男ともいえ、同じ「鬼」と呼ばれた本多作左衛門重次とのやり取りは挑発的でさえあった。

 それらのことに関して少し例を挙げると、まず部下に対してだが、普段から部下に厳しく、生来の気性の激しさもあって、僅かな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、官名から「人斬り兵部」とまで呼ばれた。
 家臣に気安く声を掛けることも殆ど無く、家臣の中には直政の厳さに耐えられず、本多忠勝の下に去る者達も多かったと云う。
 近藤秀用・庵原朝昌は井伊家を出奔し、筆頭家老の木俣守勝までもが直政の下にいるのが怖くなり、家康に旗本に戻してくれるように頼んだことがあった。
 これを受けた家康は、自分を支える軍団育成を直政に期待していたことからも初期の井伊家の重臣の人事や軍の編成に直接介入し、直政は家康の許可なく家中の人事が行えなくなったが、一方で重臣達は家康の許可なく勝手に直政の下を離れられなかった。
ただ、同じ「部下」でも家中と領民は別で、政治にも優れていたこともあって、直政は領民には慕われていた。

 そして他の徳川家中とのことだが、直政よりも遥かに先輩格で、累代の家臣でもあった本多作左衛門・石川数正に対しても直政は容赦を知らなかった。
 直政がまだ軽輩の頃、家康にねだって名馬を一頭拝領したことがあった。これを聞いた作左衛門は直政に聞こえる様に、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか?」といった意味のことを放言した。
 後に家康が関東に移って、一二万石を賜った直政は三〇〇〇石しか与えられなかった作左衛門に対して、「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな。」と云い放ったと云う。
 ここまで来ると、「負けず嫌い」というよりは、それが高じて「根に持つタイプ」という色合いの方が濃く感じる。

 また石川数正との絡みだが、それは数正が家康の元を出奔した後の話だった。
 豊臣秀吉が小牧・長久手の戦いの和解の為、家康の上洛を求める一方で、家康を安心させるため、大政所を三河に送ってきた後、直政は大政所を大坂に送り返す際の護衛を命じられた(←大政所が直政による警護を懇願したらしい)。
 この護衛行に際して直政は手厚い保護に努め、これを喜んだ秀吉は自ら茶を立てて直政を労わんとした。ところがその茶席に石川数正が同席していたのを見た直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す!」と怒鳴ったと云う。

 主君と職務には何処までも忠実で、武人としての誇りも高い故、主君や同格の大名には信頼され、領民には慕われた井伊直政だったが、その期待に応えんとし、同時にスピード出世に対する反感を跳ねのけんとしてことで鬼にならざるを得なかった。
 故に鬼の対戦相手と見做された先輩・同僚、戦場での対戦相手には難敵に映ったことだろう。
 そして、その強要振りが影響したものか、直政の生き様は後世の井伊家の在り様にも大きく影響した。井伊家の子孫達は直政が見ることのなかった江戸幕府による治世の中でも武にこだわり、直政の後継で後に大老にまでなった直孝は大坂夏の陣でも豊臣秀頼母子を追い詰めた。
 曾孫にして、彦根藩第四代藩主の井伊直興は「万一戦が起きたときには先鋒を務める。」と宣言した水戸光圀に対して「戦場で先鋒を務めるのは井伊家の使命。水戸様と雖も御遠慮願いたい。」と云ってのける硬骨漢振りを示した。
 そして桜田門外の変で命を落とした井伊直弼も、その最期は呆気なかったが、それも最初の狙撃で腰骨を砕かれたからで、実際に直弼の戦闘能力は相当なものだったと云われている。



鬼の裏側 井伊直政がかくも鬼であり続けなければならなかった背景に、彼が徳川家中に在っては「新参者」と見られていたことにあった。
 四天王の中で最若年であるだけでなく、先祖代々徳川家に仕えて来た他の三名にとって直政は「外様」でもあった。そんな直政が戦働きや主君の寵愛(余り書きたくないが、両刀使いが多かった戦国大名にあって、殆ど衆道に関心の無かった家康が唯一肉体関係を持ったのが直政らしい)で徳川家臣随一の領国を与えられていたのから、三河譜代からの家臣の中には嫉妬、反発する者も少なくなかった。
 そんな冷視線に対して、直政は家康に対する、それこそ鬼の如き厳格な奉公で跳ね返さんとした。そしてその余りに厳し過ぎる奉公ぶりを自らのみならず、周囲にも強要したため、直政に側近くで近侍する者程、その鬼振りに辟易し、恐怖することとなった。

 勿論その厳格さは自分自身に対しても例外ではなかった(自分に甘ければただの自己中・横暴野郎でしかない)。
 そもそも赤備えは戦場にて目立つことを第一義として軍装を赤一色にしたものだった。武田信玄の重臣で、信玄嫡男・義宣の養育係も担った知勇兼備の名将・飯富虎昌(おぶとらまさ)が始めたもので、目立つ軍装は戦場にて目立つがゆえに否が応でも卑怯・臆病な振る舞いは出来ず、勇猛果敢に戦わざるを得なかった。当然、精鋭が集められ、育てられるゆえに敵軍にしてみれば赤備えの首を取ることはそこいらの雑兵の首を取るより価値のある手柄となる故、赤備えには次々と難敵が打ち掛かって来ることにもなる。
 その姿勢並びに軍装を受け継いだのが、虎昌の実弟で三方ヶ原の戦いにて家康の心胆を寒からしめた山県昌景であり、武田家滅亡後に武田流の在り様を受け継いだ真田幸村(信繁)であり、家康から武田流継承を命じられた井伊直政であった。

 そんな任務と立場とプレッシャーを背負った直政は、戦場に出る度に傷を負う奮闘を繰り返し、最後には銃弾による鉛毒で若くして命を落とした。このことは同じ家康配下の猛将でも、生涯に五七回の戦で一度も傷を負わなかった本多忠勝とよく比較される。

 そんな万事に対して鬼で、何者にも怯むことなく突き進んでいった直政だったが、ただ一つ怖いものがあった。かみさんである(笑)。
 直政の唐梅院は松平一族の一人・松平安元の娘を家康養女として娶ったものだった。詳細は不明だが直政はこの正室に頭が上がらなかった。直政が唐梅院の侍女に手を付けて懐妊させた際、唐梅院は侍女を実家に放逐したが、直政はこれを止められず、生まれた子(後の直孝)を自分の元に召すことが出来たのは死の一年前だった。
 ちなみに関ヶ原の戦いで先陣を争った猛将・福島正則も恐妻家だったが、何か共通点でもあるのだろうか?


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新