第陸頁 原虎胤………激しさと繊細さを併せ持った鬼美濃

名前原虎胤(はらとらたね)
生没年明応六(1497)年〜永禄七(1564)年一月二八日
身分下総千葉家家臣→甲斐武田家家臣→相模北条家家臣→甲斐武田家家臣
通称鬼美濃、夜叉美濃
略歴 明応六(1497)年、父:原友胤の子として生まれ、初めは下総千葉氏当主千葉勝胤に仕えたが、永正一〇(1513)年、小弓公方・足利義明軍との戦いに敗れ、居城・小弓城を追われたために父・友胤とともに甲斐に落ち延び、武田信虎の家臣となったとされている。
 後に父共々信虎の元で活躍し、足軽大将となった際にから「」の偏諱を与えられ、原美濃守虎胤と名乗った。

 武田家累代の家臣ではなかったが、危ないところを拾われた信虎には恩義を強く感じていたようで、晴信(信玄)による信虎追放の際も、晴信に合力した板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌と云った重臣達にも猛抗議したと伝わっている。
 晴信家督継承後は主に信濃方面での勢力拡大に尽力し、平瀬城の城代を任されるなど重用さた。

 天文二二(1553)年、浄土宗信者であった虎胤は信玄から日蓮宗に改宗するように迫られ、これを拒絶したため、一時期甲斐を追放され、北条氏を頼った。
 後に信玄・北条氏康・今川義元による善得寺の会盟にて甲相駿三国同盟が成立したのを機に、氏康に惜しまれつつも武田家に帰参した。

 永禄四(1561)年信濃にて割ヶ嶽城攻略の際に負傷し、第一線を引いて引退状態となり、同年の第四次川中島の戦いには参戦せず、三年後の永禄七(1564)年一月二八日に病没した。原美濃守虎胤享年六八歳。



鬼の働き場 単純に戦場における戦働きが高名だった。
 武田家臣団は武田二十四将といった呼び方が存在するように、名将・智将・猛将が綺羅星の如くだったが、正面切っての戦い振りを「」と称えられる猛将は意外に少ない(もっとも、甲州勢と敵対した周辺国からすれば、武田の将は皆「」みたいなものだったかもしれないが‥……(苦笑))。

 武田家中で「」と呼ばれたのは、原虎胤、馬場信春、小幡虎盛だが、虎胤が残る二人とも関連しているのが興味深い。
 四〇年以上武田信玄を支え、戦場にて大暴れして来た馬場信春は長篠の戦いにて武田勝頼が戦場離脱する為の殿軍にて討ち死にするまで戦場にて疵一つ追わなかった剛の者だったが、当初「馬場民部」と呼ばれていた。
 その馬場が、虎胤死後、「鬼美濃に肖るべし」として名乗りを「馬場美濃守」とした。一猛将としての戦働きや鬼神振りは馬場の方が有名だが、その馬場が肖ったのと云うことが虎胤鬼美濃振りを世に示していると云えよう。

 また小幡虎盛は、彼の子で父に劣らぬ武勇を誇った昌盛が婚姻する際に、信玄から、「の子にはの娘が相応しい。」として、虎胤の娘を正室とするよう取り計らわれたと云う。

 そんな「」ぶりを発揮した虎胤『武田信玄』の作者・新田次郎氏も老いて、畳の上で天寿を全うする終らせ方をしたくなかったようである。
 大河ドラマ『武田信玄』では、虎胤 (宍戸錠)は参加しなかった筈の第四回川中島の戦いにて戦場に立ち、啄木鳥作戦を見破った上杉勢の強襲を劣勢の中、武田典厩信繁(若松武)とともに前線にて奮闘した。
 そして信繁が討ち取られたシーンで、倒れた信繁の首を取らんと上杉勢が群がったところに、駆け付けた虎胤は次々と上杉勢を蹴り飛ばした。
 直後、信繁の討ち死にを確認した虎胤は、「典厩殿……。」と呟き、立ち上がって雄叫びを上げるや、凄まじい形相で上杉勢を斬りまくった。
 そのシーンが放映されてから二三年後、「あの時の宍戸さんは、演技と分かっていても本当に怖かったですよ。」と薩摩守は本人の前で述懐した(←実話である)。

 そして同作品にて、虎胤は、志賀城残党の闇討ちに遭って命を落とした。
 志賀城は信玄がその生涯の中でも最も惨い落とし方をした城で、その過酷な攻めに佐久衆の怨みは骨髄に達し、残党が武田家中の命を狙ったとしても全くおかしくなかった。
 襲撃直後、老人の虎胤は老いて尚衰えない剣術の冴えで襲撃者達の刀を払い落としたが、何故か相手に刀を返し、剣劇の果てに盟友で川中島に散った山本勘助の後を追う様な想いを見せて息を引き取った。
 その回には鬼美濃の死」というサブタイトルが付けられていた。



鬼の裏側 原虎胤は戦場で相対した敵兵にとっては「」だったが、一方で「仏」の一面もあった。
 前述した様に、武田信虎が追放された際は、重臣達に猛抗議を行ったのだが、このとき虎胤は信濃にいたのを、信虎追放の報を聞き付けるや即座に甲斐に取って返した様に、厚情の男だった。

 戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたとする逸話があり、城攻めに際しても無駄に敵味方に犠牲を強いる戦いをしなかったため、虎胤が陥落せしめた城は、補修が最低限で済んだと伝わっている。

 いくら勇猛で武に優れていても、情や心配りを知らぬ狂犬野郎では怖がられるだけで、敬われることはないだろう。恐れられ、且つ、敬われてこその「」であることを鬼美濃は教えてくれている気がする。

 余談だが、宍戸錠氏が『武田信玄』原虎胤を演じた一九年後の大河ドラマ『風林火山』では御子息の宍戸開氏が原虎胤を演じた。これに対して錠氏は、「親子で同じ役やらせてんじゃねぇよ。」と(酒を飲みながら)宣っていた(←くどいが実話である)。


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令和元(2021)年六月一〇日 最終更新