第漆頁 森長可‥……弟と対照的な鬼振り

名前森長可(もりながよし)
生没年永禄元(1558)年〜天正一二(1584)年四月九日
身分織田家重臣
通称武蔵守、鬼武蔵
略歴 永禄元(1558)年、森可成の次男に生まれる。弟・成利は信長の小姓を務めたことで有名な森蘭丸。
 可成は美濃土岐氏の臣だったが、後に織田信長に属し、信長の尾張統一、桶狭間の戦い、対斎藤氏、対浅井・朝倉氏との戦いに尽力したが、元亀元(1570)年に討ち死にした。
 可成の討ち死には窮地に陥った織田勢を浅井・朝倉軍の追撃から守ってのもので、必然可成の討ち死には信長から称賛され、長兄・可隆も五ヶ月前の初陣で討ち死にしていたため、図らずも若干一三歳で森家の家督を継ぐこととなった。その際に信長から「」の偏諱を与えられ、「森長可」となった。

 元亀四(1573)年に長島一向一揆との戦いで初陣を果たしたのを皮切りに各地を転戦したが、その都度常に先陣を切って猛々しく戦った。
 甲州征伐では織田信忠に従って甲斐・信濃攻めの功を賞され、海津城を与えられたが、信濃では武田家を慕う気風が強く、長可は宣撫に難渋しつつ、柴田勝家の越後攻めを補佐せんとしていたが、そこに本能寺の変が起き、主君・信長、弟・成利が横死した。
 長可は向背定かならぬ武田残党の報復をかわしながら美濃に戻り、本能寺の変から二十二日が経過した天正一〇(1582)年六月二四日に織田信雄・信孝・三法師(信忠嫡子・信長嫡孫)に面会し、信長・信忠への悔やみを述べた。

 周知の通り、この時点ですでに謀叛人・明智光秀は討たれており、織田家中は信長後継と、旧領分配に紛糾していた。長可自身、旧領美濃を抑えんとしたが、直臣達の面子も変遷しており、織田家中において自分の地位を確保するのに苦労した。
 そんな苦境に際して、長可は主君の仇を討って発言力を高めていた羽柴秀吉に接近した。周知の通りこの選択は正解で、秀吉は賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破ってその勢力を益々強め、長可は岳父・池田恒興と共にこれに追随した。

 賤ケ岳の戦いに勝利した秀吉は信雄に預けていた信孝まで切腹させ、やがて信雄とも対立した。旧主の遺児達に対する仕打ちに反感を抱く者も多く、信雄は徳川家康と組んで反秀吉の兵を挙げたが、長可・恒興はやはり秀吉に追随した。
 天正一二(1854)年三月一六日、長可は小牧山に進軍した。既に恒興が犬山城を攻めており、長可は徳川方に落ちた小牧山を落とすことが戦略的にも大手柄になると踏んでいた。  小牧山城にほど近い羽黒に陣を張った長可だったが、その動きは徳川方の間者に察知されており、翌日森軍は徳川方の奇襲を受けた。
 長可自身は隊を分けて奮戦したが見方は総崩れとなり、長可はほうほうの態で羽黒を脱し、戦いは膠着状態となった。

 膠着状態を打破すべく、恒興は別動隊三万が家康の本拠・岡崎城を攻め、これに驚いた徳川勢が追撃に掛かったところを秀吉本隊が追い、挟撃する作戦を打診した。
 秀吉は乗り気ではなかったが、上手くいけば甥の三好秀次(後の豊臣秀次)の名を成さしめる好機と捉え、これを許可し、長可も岳父と共に秀次勢に加わった。
 だがこの動きはまたも徳川方に察知され、家康は先回りして長久手にてこれを迎撃した。所謂、小牧・長久手の戦いにおける激戦で、奇襲を受けた秀次勢は大敗を喫した。
 大将の秀次は早々に撤退し、先鋒隊として突出していた池田勢・森勢は進むも退くもならず、恒興は嫡男で長可義兄に当たる元助共々討ち死に。長可も水野勝成配下の足軽鉄砲隊の銃撃で眉間を撃ち抜かれて即死した。森武蔵守長可享年二七歳。



鬼の働き場 森長可の父・可成は槍に優れており、長可はその才と、筋骨逞しい偉丈夫振りとを見事に受け継いでいた。織田信長が家督を既に継いでいた状態で可成が仕えた、家中にあっていわば新参だったが、瞬く間に他の重臣達と肩を並べたのには、弟・蘭丸成利を初めとする信長の森一族への寵愛も確かにあったが、長可の卓越した武勇もその一因だったのは間違いない。

 織田勢が信長が降伏の約束を反故にしたことへの報復で一揆勢にさんざっぱら苦戦する中でも先頭切って斬り込み、二七もの首級を挙げている。
 甲州征伐でも高遠城攻めにおいて三の丸の屋根の上って屋根板を引きはがして後続部隊による銃撃を可能ならしめたという荒業を敢行している。
 そしてその武勇と気性の激しさから武蔵守の通称と併せて、「鬼武蔵」と渾名された。

 これほどの奮闘振りには多分に長可自身の性格もあり、甲州征伐においては抜け駆けの多さを、総大将を務めた織田信忠からも二度に渡って叱責された。
 重大な処分に至らなかったものの、信長からも度々処罰されており、逆に信長からの寵愛があったから軽い処分に留まったと見られている。
 何せ、気性の激しさから他の織田家中の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したこともあり、同僚に対する暴言も度々だったと云うから悪い意味でも「」だった。薩摩守なら絶対に近づくまいとする人物の典型である。

 森長可の戦い振りを見ていると、「個人が強いのは結構だが、部下のことを考えているか?」と云いたくなる側面が多い。
 つまり武器を振るって戦う分には頼もしくても、「大将」となると、従う者は堪ったものじゃないだろうな、と云いたいのである。実際、先頭切っての戦働きでは目覚ましい活躍をし、負け戦にあっても動揺せず奮闘していたが、羽黒の戦いでは挟撃によって軍勢が総崩れになったことで大敗したし、長久手の戦いでは突出し過ぎたことで進むも退くもならず、自身討ち死にすることとなった。塙団右衛門みたいな奴だ(苦笑)。
ただ、詳細は後述するが、戦を離れれば長可は決して気配りが出来ない人間ではない。



鬼の裏側 若くして織田家重臣に名を連ね、甲州征伐の功績では海津二〇万石という破格の恩賞を賜った森長可だったが、これは戦働きや主君の寵愛だけで得られるものではない。

 勿論、信長の寵愛も尋常ではなく、海津二〇万石を拝領した際には旧領の美濃金山は弟の成利の領土となったのだから、合理主義者・織田信長とは思えないほどの依怙贔屓人事と云いたくなる。
 だが長可は若くして政治にも参画しており、殊に金山を統治することに関しては並々ならぬこだわりを見せていた。実際、本能寺の変で織田家中面々の運命が大きく変遷せんとしていた中、長可は拝領した新領・海津よりも旧領・金山の確保に努めた(海津が難治だったこともあるが)。

 また、茶道に造詣も深く、決して武勇一辺倒の男ではなく、そんな面も信長に愛されたのだろう。

 視点を変えると、長可は「」だった故に、父や兄同様に自分がいつ死んでもおかしくないとの覚悟は人一倍で、自分の在り様が決して好ましいものではないと常々考えていた節がある。
 果たして、長可長久手の戦いで落命した後、遺書が残されていたことが判明し、その内容は森氏による金山領有継続と、残された娘が武家に嫁がないことを懇願するものだった。

 弟の成利は、有名過ぎる上、当時よくあった殿様(織田信長)と小姓(森蘭丸)との衆道関係の代表選手的なイメージが様々なジャンルの書籍でクローズアップされているため、巷間に流布している森蘭丸のイメージと比較すると森長可はかなり対照的に見える。  ただ、森蘭丸は本能寺の変の為に僅か一八歳で落命しているため、成長していれば長可同様の猛将となっていたかも知れない。
 そう考えると、森長可という男は、様々な立場の変遷の中、「」であり続けなければならなかった、現代風に云えばツッパリ続けることを余儀なくされた男かも知れない。だが、誰かれ無しに常に噛み付き、最前線に立ち続ける者の運命は長くないことが多い。
 鬼に限らず、牙を持つ者は多く、牙自体は大切だが、常に剥き続けなければならない人生は薩摩守なら御免蒙りたい。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新