第弐頁 北条時政 子孫達から初代と認められず
毒親File弐
名前 北条時政(ほうじょうときまさ) 生没年 保延四(1138)年〜建保三(1215)年一月六日 地位 鎌倉幕府初代執権 著名な子 北条義時、北条時房、北条政子 周囲への「毒」 漆 子への「毒」 陸 毒素 血縁軽視
略歴 桓武平氏の末裔で、保延四(1138)年に伊豆の豪族・北条時方(時兼とも)の子として生まれた。通称は四郎。地方豪族に過ぎなかったこともあり、前半生は不明で、後に子孫が鎌倉幕府の執権となったことで様々な古書にその家系図が掲載されたが、そのすべてが違う内容となっている(苦笑)。
北条時政が世に出るきっかけとなったのは、平治元(1159)年に清和源氏の御曹司・源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆に流されて来たことへの監視役を命じられたことにあった。流刑人としての頼朝の生活は、監視付きではあったが比較的自由だった。
当初、時政にとって頼朝は「監視対象の罪人」に過ぎず、如何に清和源氏の御曹司とはいえ、平家の命令に従って監視するだけだった。
だが、この頼朝、血統と都育ちの立ち居振る舞いが働いたものか、同輩にして岳父でもある伊東祐親の娘と恋仲となり、子供まで出来た。二人の仲が認められれば、時政と頼朝は義兄弟になるところだった。
だが、公務で云っていた都から帰還した祐親は娘が頼朝の子を産んだと聞くと大激怒。平家に睨まれることを恐れ、娘と頼朝の子(つまり実の孫)を殺してしまった(この因縁で後に頼朝が天下を取った際に、祐親は自害の道を選んだ)。
だが、源頼朝の辞書に「懲りる」という字は無い、特に女に関連しては(笑)。
頼朝はいつの間にか時政の娘・政子と恋仲になっていた。勿論時政も祐親と同じく平家に睨まれることを恐れ、政子を同じ平氏である伊豆の代官・山木兼隆の元に輿入れさせたが、政子はすぐに脱走し(←この父にして、この娘在り、である)、頼朝の元に走り、結局は時政も頼朝岳父としてその旗揚げに合力することとなった(それにしても、伊東祐親、娘だけじゃなく、孫娘迄頼朝に手を出されたとは…………)。
治承四(1180)年四月二七日、以仁王(後白河法皇第二皇子)の令旨を叔父・源行家から渡された頼朝は(すぐではなかったが)挙兵を決意。時政邸は頼朝軍の本拠となり、山木兼隆襲撃には時政も従軍した。
続く石橋山の戦い時には時政は頼朝とは別行動で甲斐に赴き、甲斐源氏の武田信義を味方に引き入れる工作を担った。石橋山の戦いで頼朝は大庭景親に大敗し、時政の長男・宗時が戦死したが、頼朝は安房に逃れ、坂東武者を率いて舞い戻り、時政と駿河で合流した。
頼朝と時政は富士川の戦いに勝利(というか、平維盛が勝手に崩れた)。頼朝は二一年振りに再会(←殆ど初対面)した弟・義経に平家追討を託すと鎌倉にて地固めを行い、時政もこれに協力した。
元暦二(1185)年三月二四日、壇ノ浦の戦いで平家が滅びると頼朝と義経が対立。文治元(1185)年一〇月一八日、後白河法皇は義経に頼朝追討の院宣を出すが、義経は兄と戦うことを避けて逃亡。頼朝の命を受けて一〇〇〇の兵と共に上洛した時政は一一月二四日に法皇と面会し、院宣に対する頼朝の怒りを伝えた。
勿論自分の非を認める珠ではない法皇は「義経に脅されて出した。」と弁明し、時政はそれを言質に義経追討の院宣を出させ、義経追捕を理由に全国に守護・地頭を置くことの勅許を得た。このとき時政は公的には無位無官であったが、頼朝岳父として鎌倉幕府の全国支配基盤形成に大きく貢献した。
京都から鎌倉に戻った後、時政は目立った活動を見せなかったが、頼朝存命中に伊豆・駿河・遠江の三国を領有する実力者となり、建久一〇(1199)年一月一三日に頼朝が逝去すると後を継いだ孫・頼家が若年のため、これを補佐することを名目に有力後家に任による合議制をしいた(十三人の合議制)。
だが、頼家はこれに反発。その中で頼家に味方せんとした梶原景時が失脚したが、頼家は岳父・比企能員との連携を強めた。正治二(1200)年四月一日に正式に遠江守に任じられ、御家人初の国司となった時政は比企との対立を増々強めた。
建仁三(1203)年七月に頼家が病に倒れると、九月二日に時政は比企を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡(つまり時政の曾孫)の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼし、そのどさくさで一幡も殺された(比企能員の変)。
直後、奇跡的に病が治り、我が子と岳父一族の死を知った頼家は激怒して時政を討たんとしたが、母・政子がこれに味方せず、頼家は強制的に出家させられた上で将軍位を追われ、伊豆修善寺に幽閉された(頼家は翌年七月一八日に殺された)。
時政は頼家の弟で、自身の孫である実朝を三代将軍とし、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。つまりは摂関時代の藤原氏宜しく、天皇ならぬ将軍の外祖父としてまだ一二歳の実朝に代わって実権を握り、御家人達の所領安堵以下の政務を行い、一〇月九日には大江広元と並んで政所別当に就任し、鎌倉幕府初代執権となった。
翌元久元(1204)年一月一八日……………本筋に全然関係ないが、短期間で元号変わり過ぎてややこしいぞ!!…………まあ、それはさて置き、時政は畠山重忠と争い、三月六日には次男・義時が相模守に任じられた。
このとき時政は上洛中だった娘婿・平賀朝雅が就任していた武蔵国国司の代行もしており、父子で幕府の中枢である武蔵・相模の国務を掌握していた。
そして元久二(1205)年六月、他の御家人達の取り成しを受けて重忠と和解した時政だったが、朝雅の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼした。
だが、北条時政の栄耀栄華(と書いて「やりたいほうだい」と読む)はここまでだった。
閏七月、時政は後妻・牧の方と共謀して将軍実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。これに対して政子と義時は同月一九日に結城朝光、三浦義村、長沼宗政等を遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。
時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、時政は大義名分を失い、陰謀は完全に失敗した。
幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国北条へ隠居させられた(牧氏事件)。以後の時政は二度と表舞台に立つことなく、建保三(1215)年一月六日、腫物のため伊豆で死去した。北条時政享年七八歳。
毒親振り まず北条時政を「素晴らしい人格者」と宣う者が居れば、御目にかかりたい(苦笑)。
いくら鎌倉幕府創設者・源頼朝の姻族とはいえ、北条氏は本来御家人の一角に過ぎず、朝廷的には無位無官で、後々の鎌倉幕府における「執権」の地位も、本来の意味は「執事」に過ぎない。
実際、時政は平治の乱終結時点では伊豆に地方豪族に過ぎなかった。十三人の合議制が敷かれた際も、一三人の立場は(一応は)同格だった。それが征夷大将軍を凌ぐ権勢を得る基を作った訳だから、時政の苦労は並大抵のものではない。
頼朝に味方した時から、一歩間違えば一族郎党が滅びかねない綱渡り、危険な賭けも多く、少し運が悪かったり、読みを間違えたりしただけで命を落としかねなかった場面も一度や二度ではなかっただろう(実際に長男を失っている)。
当然、後ろ暗い暗闘も多く、頼朝の(一般には落馬が原因とされる)死にも一枚噛んでいると云われ、詳細は割愛するが、曽我兄弟の仇討ちで有名な富士の巻狩りにて頼朝が襲撃されかけたことの黒幕を時政とする説もある。
それゆえ、薩摩守は時政が陰謀を巡らせ、梶原景時、比企能員、畠山重忠と云った豪族を死に追いやったことを取り立てて悪し様に云うつもりはない。殺らなきゃ殺られていた局面も間違いなく存在したことだろう。
だが、策謀家・陰謀家という面に目を瞑ったとしても、薩摩守は時政を好きになれない……………否、有り体に云おう、大嫌いである。元々時政が孫である頼家、曾孫である一幡を手に掛けたことを知ったときから、彼の行跡には眉を顰めていた。勿論、骨肉の争いを現代と同じ視点で語るのは適切でない面もあろう。身内を手に掛けたのは時政だけではないし、頼家や一幡が命を落としたことを本当に時政の仕業なのかを疑問視する声も聞いたことはある。
だが、最終的に時政は政子や義時にとっても毒親だった。それも猛毒である。
それを証明する存在が、後妻である牧の方とその娘婿・平賀朝雅である。
時政には一五人の子がいた記録がある。有名なのは伊東祐親の娘との間に生まれた政子・義時である。時政に政子・義時に対する愛情が無かったとは云わないが、はっきり云って、我が子以上に牧の方及び彼女との間に生まれた子を偏愛する様になったとしか思えない。
何と云っても、血の繋がった孫・頼家を殺し、実朝も殺そうとした。頼家追放に賛成した政子も頼家の死を願っていたとは思えないし、仮に時政の頼家暗殺・実朝暗殺未遂が濡れ衣だったとしても、将軍位から廃そうとしていたのは疑いの余地はなく、後妻の娘婿・朝雅を将軍に据えようとしたとあっては、政子・義時がブチ切れたのは当然と云えよう。
時政が北条一族の隆盛と存続を第一に考え、その結果源氏の血を引く頼家・実朝・一幡を死に追いやった、追いやろうとしたことは時代を考えれば全く理解出来ない訳では無い(嫌悪感は全く拭えんが)。だが、孫を差し置いて娘婿を将軍に据えようとしたのは、後妻の色香に骨抜きにされたとしか云い様がない。
道場主の亡父なら、血の繋がらない娘婿より、血の繋がった孫を絶対に優先するだろう。そう、血縁的に見ても親としての北条時政は異常と断じざるを得ない人物である。
子のその後 北条時政が如何に毒親であったかは、時政の子孫が証明している。何せ鎌倉幕府の政治と歴史にあって、「初代執権」とされている時政が、北条得宗家に在っては初代と認められていないのである。
義時と政子とが時政を領国への強制隠居に留めたのも、親に対する最低限の想いからだろう。腹を痛めて産んだ長男を殺され、次男迄殺そうとした相手とあっては、政子が時政に殺意を抱いたとしても全くおかしくない。殊に実朝は政子の子であるだけでなく、政子の異腹妹で頼朝の弟・阿野全成に嫁いだ阿波局が乳母を務めており、北条家にとって切っても切れない大切な一族だったのである。
一応、北条家を正統とする史書には実朝と血の繋がらない牧の方を、「時政を唆した悪女」として時政も実朝に対する殺意まではなかったとするものもあるが、唆しに乗る時点で責任無しとは云えないし、「外聞が悪いから伏せられているただけ」だとしても全くおかしくない。
いずれにしても、孫殺し・曾孫殺しに関して時政が全くの潔白であれば、北条家始祖としての立場が一族内で外されることはあり得ない。
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令和七(2025)年一一月一三日 最終更新