第壱頁 鳥羽天皇 露骨な報復

毒親File壱
名前鳥羽天皇(とばてんのう)
生没年康和五(1103)年一月一六日〜保元元(1156)年七月二日
地位第七四代天皇(保安四(1123)年から上皇、康治元(1142)年から法皇)
著名な子崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇
周囲への「毒」
子への「毒」
毒素えげつない報復感情


略歴 父は堀河天皇、母は苡子(いし。藤原実季の娘)で、康和五(1103)年一月一六日に第一皇子として生まれた諱は宗仁(むねひと)。
 生後僅か九日で苡子は珊瑚の肥立ちが悪くて没し、祖父である白河法皇の元で養育され、七ヶ月で立太子された。
 父である堀河天皇は上品で誠実な人柄、雅楽に秀でた高雅さ、聡明さを期待された人物だったが、健康には恵まれず、宗仁が五歳の時に宝算二九歳の若さで崩御した。それがために宗仁は嘉承二(1107)年七月一九日に即位して鳥羽天皇となった。

 勿論年齢的に政務を執るのは無理で、院政を執っていた白河法皇が引き続き政務を担った。そして保安四(1123)年一月二八日、その白河法皇から、まだ二一歳の若さだったにもかかわらず、第一皇子であった崇徳天皇への譲位を強要され、退位した。
 勿論実権は白河法皇が握り続け、鳥羽上皇には何の権限も与えられなかった(若くして崩じた堀河天皇はある程度は握っていた)。
 だが、堀河・鳥羽・崇徳の三代に渡って院政を執り続けた白河法皇も天寿が尽き、大治四(1129)年七月七日に七七歳で崩御するとようやくにして鳥羽上皇に実権を握れるようになった。

 院政を開始した鳥羽上皇の人事は報復的なものだった。
 白河法皇によって蟄居させられていた前の関白・藤原忠実を呼び戻すと白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固め、伊勢平氏・平忠盛の昇殿を許し、自前の武力とした。
 永治元(1141)年、まだ二三歳であった崇徳天皇を譲位させ、自身の第九皇子で、崇徳天皇の異母弟である三歳の躰仁親王を即位させた(近衛天皇)。

 翌康治元年(1142年)、東大寺戒壇院で受戒して法皇となり、形の上では俗世間を離れた訳だが、こういう奴が実権を手放すことはまずない(笑)。
 そして久寿二(1155)年、近衛天皇が一七歳の若さで崩御すると、第四皇子・雅仁親王を即位させ(後白河天皇)、このことは崇徳上皇を激しく怒らせ、絶望させた(詳細後述)。
 だが、それから一年も経ない保元元(1156)年七月二日、宝算五四歳で崩御した。保元の乱が勃発したのはその九日後だった。


毒親振り 何と云っても、崇徳天皇に対する数々の仕打ちがえげつなかった。
 息子や孫を無理矢理退位させ、政治の実権を譲らなかったという意味においては、白河法皇も、後白河天皇も同類なのだが、鳥羽上皇は数いる息子達の中でも明らかに崇徳天皇を嫌い抜いていた。

 崇徳天皇を退位させただけなら、「自らの院政体制を固める為。」と解釈できなくもない。鳥羽上皇自身、祖父・白河法皇から二一歳の若さで退位させられている。崇徳天皇を二三歳で退位させたのも、祖父の前例に倣って崇徳天皇が天皇として一人前になる前に退位させることで実権を己がものとして保持せんとしたのだろう。だが、近衛天皇が一七歳で崩御した際、その後を継がせたのが後白河天皇だったというのが崇徳天皇に怒りと絶望を突き付けた。

 ここで話を分かり易くする為に下の家系図を参照頂きたい。

※漢数字は天皇としての即位順
鳥羽天皇の第六、第七皇子は母の身分が低く、若くして僧籍に入った。
※第八皇子は薩摩守の研究不足で不詳。

 上の系図で皇女については端折っているが、鳥羽上皇は藤原璋子(待賢門院)との間に崇徳天皇を初めとする五男二女を儲けている。後に寵愛は藤原得子(美福門院)に移ったが、璋子崩御の際には枕元に駆け付け、臨終が告げられると大号泣したと云うから、妻や子に対する愛情は人並に持っていた。だが、崇徳天皇だけは例外だった。

 崇徳天皇に関連する過去作「チョット待て!その呪詛おかしくないか?」「屈辱の退位」「注目の夜討ち集」でも必ずと云って良いほど述べているが、鳥羽上皇崇徳天皇を自分の子ではなく、「祖父・白河法皇が璋子に手を付けて産ませた子」と見ていて、崇徳天皇ことを陰で「あの叔父御」と呼んでいた。
 事の真偽はさて置き、鳥羽上皇自身は崇徳天皇を我が子と思っていなかったので、彼の皇位、院政への期待を悉く叩き潰した
 近衛天皇への譲位強要は、鳥羽天皇が白河法皇から同じ目に遭わされたことを思えばそれ程えげつない話でもなかったし、近衛天皇崇徳天皇の妃の養子となっていたから、手続き上全くの不自然でもなかった。だが、文書には近衛天皇を「皇太子」と記すべきところを、「皇太弟」としていた。つまり、暗に崇徳上皇に対して、「新帝の「兄」であるお前が院政をする資格はないぞ。」と伝えていた。
 ただこの時点では崇徳上皇にも希望はあった。崇徳上皇の子・重仁親王が得子の養子となっていたことから、病弱の近衛天皇が嗣子を儲けぬままに崩御すれば(←実際にそうなった)、重仁が皇位を継ぎ、改めて「天皇の父」として崇徳院政を敷ける余地はあった。
 だが、近衛天皇が崩御するとその希望をも様々な形で打ち砕かれた。

 近衛天皇崩御後、新帝となったのは鳥羽法皇の第四皇子で、崇徳上皇の同母弟・雅仁親王(後白河天皇)だった。これまた過去作に書いているが、後白河天皇近衛天皇より一二歳年上で、即位するなら近衛天皇より先に即位して然るべき人物だった。
 だが若き日の後白河天皇は「芸能好きの愚か者」と周囲から見られていて、崇徳天皇退位時に候補にも挙がらなかった。崇徳上皇にしてみれば、「何でこの弟が今更?!」と驚いたことだろう。
 また、この後白河天皇の即位は、正式には彼の皇子で得子の養子となっていた守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとしたもので、後白河天皇自身は立太子を経ずして即位したのだが、これは同時に「崇徳上皇の子・孫には皇位を継がせないぞ。」と宣言したに等しかった。

 これで譲位強要から子々孫々への皇位継承権剥奪といった一連の流れに遺恨を抱かなかったとしたら、崇徳上皇は海より広い心の持ち主と云えるだろう。この衝撃の皇位継承路線決定から一年を経ずして鳥羽法皇は崩御した訳だが、臨終に際して鳥羽法皇崇徳上皇の見舞いを阻止させ、自分の遺体を崇徳上皇に見せないように命じたと云うから、「我が子ではない!」ということを頑迷に信じていたことを考慮に入れても酷い嫌い方だった。

 DNA鑑定も無い時代の話、鳥羽法皇崇徳上皇の血縁が如何なるものだったかは完全な確証を得ることは出来ないが、鳥羽法皇崇徳上皇を我が子と思っていなかったのは間違いないだろう。だがもし、実の親子でありながらそう思えずに鳥羽法皇崇徳上皇に対して毒親と化していたとすれば………………双方にとって非常に悲劇としか云いようのない話である。


子のその後 鳥羽法皇の崩御からたったの九日しか経ない保元元(1156)年七月一一日、保元の乱が勃発した………………もうこれで充分だろう。あくまで相手が「父」故に逆らことをしなかっただけで、鳥羽法皇崇徳上皇に対する仕打ちを崇徳上皇が如何に腹に据えかねていたかは火を見るより明らかである。

 また保元の乱という兄弟相克に摂関家、源氏、平氏が巻き込まれた醜争に至ったのも、鳥羽法皇崇徳上皇を追い込みまくり、誰もがそれを周知していたことが挙げられる。
 上述した様に鳥羽法皇は、臨終時はおろか、死後も崇徳上皇が自分に合うことを許さなかった。そしてそのことが如何に崇徳上皇の心に暗い影を落とすかを自身も自覚していたし、後白河天皇も兄の凄まじい遺恨を察知していた。

 鳥羽法皇の崩御は保元元(1156)年七月二日のことだったが、病の為に重体に陥ったのは五月で、容態が絶望的になった六月一日、鳥羽法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ兵を率いて警護を始めた。鳥羽法皇のみならず、美福門院も、後白河天皇崇徳上皇と彼に従う周囲の武士の動きを懸念していた訳で、父の子に対する仕打ちが如何に尋常でなかったかを(敵味方関係はどうあれ)誰もが知っていたのだろう。
 そして崩御に際して臨終の直前の見舞いに対面すら許されなかった崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返したのだが、三日後の七月五日、後白河天皇は兄の報復を懸念し、検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康を召集し、洛中の武士の動きを停止する勅命を出した。
 更に翌六日には崇徳上皇と親しい藤原頼長の命で京に潜伏していたとして源親治が基盛に捕らえられ、鳥羽法皇の初七日であった七月八日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の綸旨が諸国に下され、蔵人・高階俊成と源義朝の兵が頼長の東三条殿に乱入して邸宅を没官(謀反人に対する財産没収)するに至った。

 ここまでされては敵対しない方がどうかしているだろう。
 後白河天皇にしてみれば、「天皇である自分の身を守る為の皇位に過ぎない。」と自己弁護したいところだと思われるが、崇徳上皇から見れば。、頼長共々尋常じゃない追い詰められ様で、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
 結果、崇徳上皇は翌九日の夜中、少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある同母妹・統子内親王の御所に押し入った。
 白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。

 この一連の歴史の推移、薩摩守はどちらにも味方するつもりはないが、最も罪深いのは崇徳上皇に対する酷い毒親振りで兄弟相克を不可避なものにした鳥羽法皇に有り、それが為に摂関家、源氏、平氏までもが親子兄弟で争い、乱後の処置も過酷を極めたことからも鳥羽法皇は毒親として、身内間相克の火種を燻ぶらせ、残した人物として、歴史的にもっと糾弾されて然るべき人物と捉えている次第である。


次頁へ
前頁(冒頭)へ戻る
戦国房へ戻る

令和七(2025)年一一月八日 最終更新