第参頁 後嵯峨天皇 南北対立が延々と続いた元凶

名前後嵯峨天皇(ごさがんのう)
生没年承久二(1220)年二月二六日〜文永九(1272)年二月一七日
地位第八八代天皇
著名な子宗尊親王、後深草天皇、亀山天皇
周囲への「毒」
子への「毒」
毒素凄まじい依怙贔屓


略歴 承久の変の前年である承久二(1220)年二月二六日に、第八三代天皇で、当時既に退位していた土御門上皇を父に、源通子を母に生まれた。諱は邦仁(くにひと)。

 物心つかない二歳の時に、承久の変が勃発し、鎌倉幕府執権北条義時は首謀者である後鳥羽上皇(祖父・第八二代天皇)、土御門上皇、順徳上皇(叔父・第八四代天皇)の三上皇を流刑とし、仲恭天皇(従兄・第八五代天皇)は退位させられた。
 本来、土御門上皇は幕府の処罰対象ではなかったが、責任を感じてか、自分一人助かることを潔しとせずか、自ら望んで土佐に流された。
 このため邦仁親王は母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。

 上述した以外にも、承久の変に対する幕府方の処罰は苛斂誅求を極め、鳥羽天皇系の皇族から天皇を出すことを良しとせず、土御門上皇の従弟でまだ一〇歳の茂仁親王が第八六代天皇に立てられ(後堀河天皇)、邦仁親王は皇位継承者の座から大きく後退させられた。
 加えて土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、二〇歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれた。

 だが、仁治三(1242)年に、後堀河天皇の子で、皇位を譲られていた第八七代四条天皇が一二歳で崩御したため、邦仁親王の命運が変わった。一二歳で崩じた四条天皇には当然子が無く、他に候補者が無く、邦仁親王にお鉢が回って来た。
 九条道家等の有力な公卿達は、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとしたが、執権北条泰時及び六波羅探題の北条重時は、承久の変の首謀者に近かった順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、まだ積極的ではなかった土御門上皇の皇子である邦仁親王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁親王を擁立した。

 加えて、邦仁親王の育ての親であった土御門定通の側室は重時の同母妹という縁もあった。更に当時の鶴岡八幡宮の別当・土御門定親は定通の弟であり、何をか況やである(笑)。
 かくして一一日間の空位期間が発生したものの、仁治三(1242)年三月一八日に邦仁親王は第八八代天皇に即位した時に後嵯峨天皇二三歳。
 尚、文章を追うだけでは訳が分からなくなると思うので(苦笑)、後鳥羽上皇から後嵯峨天皇までの皇位継承に関しては下記の系図を参照頂きたい。


 かように、生まれたときから皇位継承路線の首根っこを幕府から押さえられているに等しかった後嵯峨天皇だった故か、即位すると即座に宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図った。
 そして寛元四(1246)年に在位四年で第三皇子・久仁親王後深草天皇)に譲位し、院政を開始。対立関係にあった九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。

 翌宝治元(1247)年に宝治合戦が起きると執権北条時頼以下幕府要人が後嵯峨上皇の院政への全面的な協力を決定し、その代償に後嵯峨上皇も三代将軍源実朝暗殺以来、摂関家から征夷大将軍を出していたのを、自身の第一皇子・宗尊親王を第六代将軍とすることに合意し、鎌倉幕府との結び付きを強めた。

 正元元(1259)年、後嵯峨上皇はまだ一七歳の後深草天皇に対し、その弟で、自身の第七皇子である恒仁親王亀山天皇)への譲位を強要した。しかもその皇太子を亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)とすることまで命じたのだった。
 文永五(1268)年一〇月に出家して法皇となり、四年後の文永九(1272)年二月一七日に崩御した。後嵯峨法皇宝算五三歳。海の向こうから元が攻めて来た文永の役はその二年後のことで、皇位継承にも、幕府内の勢力争いにも、外交にも火種が燻ぶる中での崩御だった。

 崩御に際し、その後の皇位継承に関しては幕府の意向に従うことを命じた。これが後の南北朝の対立となったのは云うまでもない。


毒親振り 何と云っても偏愛の一言に尽きる。加えて将来に対する無責任さにおいても、である。
 「略歴」にて上述したが、後嵯峨天皇は二七歳の時に在位四年で四歳の第三皇子だった後深草天皇に譲位して院政を開始し、その一三年後に一七歳の彼に、第九皇子だった亀山天皇への譲位を強要した。

 若くして譲位し、院政を開始したのは何も後嵯峨上皇に限った話ではない。この時代、皇室にあっては院政を執る者が真の権力者としてのイメージが強かった為か、二〇代で退位して幼少の皇子を即位させ、これを補佐する名分で「治天の君」となることはパターン化していたと云って良い。
 後嵯峨上皇の叔父・順徳上皇など、父である後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府を倒す意を固める為に皇子の仲恭天皇に譲位していた(その為に承久の変後、仲恭天皇は在位八〇日で退位させられた)。
 ただ、やはり後深草天皇に対する譲位強要は酷いだろう。

 上述した様に退位を命じられた時の後深草天皇は一七歳。数え年なので、現代で云えば高校一、二年である。幼稚園児になるかならないかの右も左も分からない状態で即位させられ、現代ならまだまだ学生真っ只中の身空で退位させられたのである。
 これが後深草天皇に重大な落ち度があるならまだ分からないでもない。また、後嵯峨上皇後深草天皇−伏見天皇という皇位継承ラインを固めるという政治的目的の為に敢えて後深草天皇を早期に譲位させるのならまだ分からないでもない。
 一応、後深草天皇が病弱なのに対し、亀山天皇は健康闊達で、聡明だったことを両親から愛でられた。ちなみにこの兄弟は同母兄弟である(ともに西園寺姞子が産んだ)。後世の江戸幕府の例で例えるなら、徳川家光・忠長兄弟の例に似ている(もっとも、家光は将軍位を世襲してからは大過なかったが)。
 例えば、異母兄弟であるなら、妻妾に対する寵愛の差から、最も寵愛する妻の子が弟の立場でも兄より重んじられることは珍しくない。だが、後深草上皇亀山天皇と同母兄弟で、病弱という不利な点があったとはいえ、宝算六二歳まで存命した。一〇〜三〇代で崩御する歴代天皇が少なくなかった時代、当時としては充分に天寿を全うしたと云える(実際、後嵯峨上皇亀山天皇より長生きしている)。
 加えて後嵯峨上皇は譲位を強要したのみならず、亀山天皇の後継者を亀山天皇の子であることも決め、後深草上皇が天皇の父となって院政を執る道を完全に断った(史実として後深草上皇は鎌倉幕府の仲介を得て伏見天皇の父として院政を行ったが、これは後嵯峨上皇崩御後のことである)。

 事の是非はどうあれ、後嵯峨上皇は少なくとも後深草上皇にとっては完全な毒親だった。譲位強要のみならず、自分の子々孫々への皇位継承路線すら早々に断たれたのだから、崇徳天皇に対する鳥羽上皇並みである。しかも、鳥羽上皇の様に自分の子ではないと思い込んでいた訳でもないのに、である。
 ただ、チョット妙な云い方だが、後嵯峨上皇後深草上皇に対する毒は、猛毒とは云い難い極めて中途半端なものだった。それは、亀山天皇の次代を「亀山天皇の子」としつつも、それ以降については明言しないままこの世を去ったからである。

 同じ我が子に対して一方を偏愛し、一方を冷遇することに薩摩守は眉を顰めるが、個々人の感情に対しては何をどう云っても詮方ない。既に過ぎた過去のことである故に。だが、子の一人を偏愛するということは、偏愛されなかった子の憎悪を生み、兄弟相克の遠因近因となる。卑しくも為政者たる者、一責任者として後々の路線に我意を貫くなら貫くで、徹底的にやるべきである。
 だからと云って我が子を殺せとまでは云わないが、後嵯峨上皇が真に亀山天皇への愛を貫き、後世の諍いを避けるなら、後深草上皇の子々孫々を寺に入れるぐらいのことはすべきで、最低でも亀山天皇系−後世で云うところの大覚寺統による世襲を内外に明言すべきだった。

 だが、それをせずに後嵯峨上皇は無責任に崩御した。要は利己主義的なくせに、妙なところで甘かった。後々の皇位継承に困惑した鎌倉幕府は?子に問い合わせ、?子の証言で亀山天皇の次代は彼の子である後宇多天皇が継いだが、腹の虫の収まらない後深草上皇は鎌倉幕府を抱き込み、後宇多天皇の次は後深草上皇の皇子である伏見天皇が天皇となることが決められた。
 その後後深草上皇の皇統(持明院統)と、亀山天皇の皇統(大覚寺統)で皇位が争われることとなった。
 例え非情でも、後嵯峨上皇が大覚寺統の皇位世襲を断固たる決意で明言していれば、後世の弊害はかなり軽減されたであろうことは想像に難くない。つまり、後嵯峨上皇は子にとって毒親だっただけではなく、子孫にとっても毒先祖だった訳である。


子のその後 後嵯峨天皇亀山天皇に対する偏愛、そしてそこから来る後深草天皇への仕打ちがその後の皇位継承、両統迭立、そして室町時代における南北朝の対立へ、と後世に悪影響を残しまくった。詳細は過去作「鎌倉私設軍事裁判」を参照して頂けると嬉しい。同作でも薩摩守は後嵯峨天皇を酷評している。

 持明院統と大覚寺統の皇位継承順序はこれまた文章ではややこしくなるので、下記の表を参照願いたい。



 ほぼ上述しているのでここでは繰り返さないが、皇位継承が持明院統と大覚寺統とで交互に持ち回ることが鎌倉幕府の仲介で合意されたのは文保元(1317)年のことだった(文保の和談)。だがこの合意が極めて中途半端で、双方にしこりを残したのは繰り返すまでもないだろう。
 すべては後嵯峨上皇の責任である……………と云い切るのは些か乱暴かも知れないが、責任面で相当のウェイトを占めるのは間違いないだろう。

 一応、非難一辺倒は拙サイトの流儀ではないので、後嵯峨上皇後深草上皇に対する想いにも触れておきたいが、崩御に際して後嵯峨上皇は、皇位の代わりに全国一〇〇ヶ所以上の荘園から構成される大荘園群長講堂領を後深草上皇に相続出来るよう取り計らっていた。「治天の君」に比べれば取るに足らない「遺産」だったかも知れないが、一応は皇位や院政への希望を奪った我が子に対して、後嵯峨上皇なりにも罪悪感か否かは不明だが、親として想う所はあったと信じたいところである。




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令和七(2025)年一一月一七日 最終更新