信虎が生まれた頃の甲斐は、河内地方の穴山氏、郡内地方の小山田氏らの国人衆や守護代・跡部氏らが台頭し、乱国状態となっていた。それ以前に同族内でも信虎が生まれる二年前に家隠居していた祖父・信昌が信縄の弟（つまり信虎の叔父）である油川信恵に家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂していた。
明応七（1498）年八月二五日に発生した明応地震の影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、改めて信縄が家督を継承し、永正四（1507）年二月一四日に死去した。
これにより信虎が一四歳で武田家の家督と甲斐守護職を継承したが、若年であることが祟ってか、信恵派との抗争が再開された。
信恵派は挙兵したが、永正五(1508)年）一〇月四日の勝山城の戦いで信虎に大敗し、信恵父子が討ち死にし、信虎による武田宗家の統一が達成された。
一族を固めた信虎は永正正七(1510)年に穴山氏・小山田氏を従属させる等、甲斐国内の有力国人衆と時に戦い、時に和睦し、国外勢力としては信濃諏訪郡の諏訪氏、駿河の今川氏とも戦ったが、永正一四(1517)年三月二日に今川氏親との和睦が成立し、今川氏は甲斐から退去し、永正一七(1520)年には大井信達とも和睦し、その娘・大井夫人を正室に迎えた。
武田家では外交路線として関東管領家である両上杉家（扇谷上杉家・山内上杉家）と友好関係を結びつつ、相模の北条と対立し、信虎もその路線を継承していた。
故に北条氏綱、そしてその血縁でもある今川氏親との一進一退の戦闘を展開し、折を見てわぼくしてはまた戦端を切り開いたりした。
一方で信虎は娘を今川、諏訪、穴山と云った内外の強敵に嫁して結び付きを強め、後に嫡男・晴信(信玄)の正室に扇谷上杉家当主・上杉朝興の娘を迎え、不幸にして早世すると継室には左大臣・三条公頼の娘（三条夫人）を迎え、遠近を問わず婚姻外交を進めた。
その後も遠近を問わず様々な外交関係を展開する一方で、甲斐国内も難治を極め、享禄四(1531)年一月二一日、上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌等が甲府を退去して御岳（現：山梨県甲府市御岳町）において信虎に抵抗し、韮崎へ侵攻した信濃諏訪の諏訪頼満と同調し、西郡の大井信業も国人勢に呼応したが、信虎は二月二日に大井信業・今井信元等を討ち、翌天文元(1532)年九月に鎮圧した。
その後信虎は天文四(1535)年九月一七日に諏訪頼満と甲信濃国境で対面し、諏訪大社上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立。天文五(1536)年四月一〇日に駿河の今川氏輝と弟の彦五郎が同日に死去し、氏輝の弟である梅岳承芳と玄広恵探の間で家督を巡る花倉の乱が勃発。
信虎は北条氏綱とともに承芳を支援し、六月一四日に承芳が勝利し、家督を継いで今川義元となると信虎との間では同盟が結ばれた。
翌天文六(1537)年二月一〇日に信虎長女・定恵院が義元正室となった。同時に義元の斡旋により、嫡男・晴信の継室に三条公頼の娘を迎え、以後、武田家と今川家は長く友好関係を持続した。
天文九(1540)年一一月、諏訪頼重に信虎の娘・禰々が嫁ぎ、諏訪氏との同盟関係が強化され、一二月九日には頼重が甲府を、一二月一七日には信虎が諏訪を訪問した。
天文一〇(1541)年六月一四日、信虎は娘婿である今川義元と会う為に駿河に赴いたところ、晴信が甲駿国境を封鎖して信虎の帰国を阻んだ。晴信は義元に密使を使わし、信虎を病人として療養を名目に駿河にて預かってくれるように要請することで信虎を事実上の強制隠居・国外追放に追いやった。
信虎の正室・大井夫人は甲斐国に残留したが、側室達は駿河へ赴き、駿河にて「当主の舅殿」として優遇された信虎（その為に晴信は馬鹿にならない金銭を義元に払っている）は同地において子ももうけた。
天文一二(1542)年、信虎は京都から高野山・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している。更には武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し同年八月一五日に駿河へ戻る、という悠々自適の日々を送っていた。
だが、天文一九(1550)年定恵院が死去した辺りから、様相は変わり出した。その後も駿河と上方を往復し、弘治三(1558)年以降は生活の拠点を京都に移し、幕府に奉公するようになっていたが、永禄三(1560)年五月、桶狭間の戦いにて義元が討死したのを契機に今川家中が揺れ出した。
義元の後を継いだ氏真は信虎の孫で、俄かに冷遇された訳では無かったが、晴信が駿河侵攻を画策する様になり、永禄七(1567)年に義元娘を正室とする晴信嫡男・義信が廃嫡され（義信事件）、甲駿関係は悪化し、永禄一一(1568)年駿河への侵攻が開始された。
既に晴信は諏訪氏を滅ぼしており、ここに信虎が当主時代に築いた武田と周辺国との友好関係は大部分が瓦解した。程なく、信虎は駿河からも追放され、駿河でもうけた信友は信玄 (晴信)を頼って甲斐へ赴いた。
同年、岐阜の織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭が第一五代征夷大将軍となった。このとき信虎は信玄と信長が同盟関係にあった縁で義昭に仕候した。
しかし信長と義昭の蜜月関係は長続きせず、次第に自分を蔑ろにする信長に腹を立てた義昭は諸大名に信長を討てとの御内書を発給し、これに呼応して元亀三(1572)年に信玄が西上を開始した。しかし四月一二日に信玄は病のために陣没し、武田は撤兵し、義昭も京から追放された。
翌天正二(1574)年、信虎は三男・信廉の居城である高遠城に身を寄せ、孫(信玄四男)の勝頼とも対面した。同年三月五日、伊那の娘婿・根津松鴎軒常安の庇護のもと、信濃高遠で死去した。武田信虎享年八一歳。葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、信虎は三三年振りに甲斐に無言の帰宅を果たしたのだった。
毒親振り 実のところ、武田信虎が親として「毒」を発していたのは、嫡男・晴信に対してのみだった。巷間によく囁かれることだが、信虎は嫡男・晴信を愛さず、晴信を廃嫡して溺愛していた次男・信繁を当主に据えんとしていた……………………と。
結局父子相克は信虎が駿河に行った際に国境を封鎖して帰国を阻むことで晴信の勝利に終わった訳だが、例によって、これには謎が多い。
まず晴信が信虎を追放したことによって甲斐国主の座を奪取したというのは絶対の史実である。その背景に「毒親」としての信虎の姿があるのはドラマや漫画でも良く描かれる所だが、その実態はどうだったのだろう？
薩摩守個人的には、晴信に対して信虎は「猛毒」ならずとも、「毒」はあり、廃嫡を目論んでいたのは間違いないと思われる。新田次郎の小説をモデルにした大河ドラマ『武田信玄』では信虎 (平幹二朗)もまた晴信 (中井貴一)を病気療養の名目で駿河に預けんとし、今川義元(中村勘九郎)は展開次第ではどちらを預かってもおかしくない風を見せていた（当初の予定通り晴信の身柄を確保せんとした今川家臣は晴信に斬られていた）。
史実として、信虎にそんな意図があったかは不明だが、信虎追放に対して、信虎に溺愛された信繁も晴信に加担し、旧来の部下がすべて晴信に味方したことからも、「父か？子か？」という争点に在って皆が「子」に味方したのだから、信虎の晴信に対する接し方に「毒親」としての非があったと思われる。何と云っても、信繁が晴信に味方したことが大きいだろう。もし晴信が武田家当主としての器量・力量に問題がある様なら、信繁は父・信虎の後援を受けて大手を振って武田家当主となれた。それが兄の「親不孝」に加担した訳だから、やはり信虎の非・落ち度が大きかったと見るべきだろう。
ただ、現代より遥かに儒教思想の影響が強かった時代、兄弟相克や、甥と叔父で相争うことが珍しくなかった戦国時代でも、親子での殺し合いは稀で、その稀なケースですら、親が子を誅殺することはあっても、子が親を害したのは斎藤義龍ぐらいで、晴信も信虎を殺してはいない。
それでも「親に刃向かった。」という事は信虎にとって大きな汚名となり、晴信と敵対した者達は信虎追放を取り上げては晴信を批難した。それゆえ、晴信に好意的な史書・小説を読む際には、信虎に対して「追放されても仕方のない「毒親」だった。」とのイメージ重ねが行われた可能性に留意する必要がある。
例えば、昨今ではWikipediaにすら書かれなくなったが、かつて信虎には「胎児の性別を確認する為に妊婦の腹を裂いて母子共々死に至らしめた。」といった残虐伝説があり、上述の小説『武田信玄』にも同様の記述があったが、これは『史記』の殷の紂王の伝説から取ったものと見ている（豊臣秀次も一時そんな扱いを受けていた）。
実の叔父とも争い、国人衆や国外勢力とも何度も争った信虎故、敵対した者の命を奪うことに躊躇いがあったとは思わないが、ただでさえ内外に敵を抱えており、同盟の是非を巡って何度も家臣に逃げられたことの有る信虎が無意味に領民を殺して恨みを買うような馬鹿だとは思えない。
信虎の命を狙っていた者は数多く、殊更好んで敵を増やす必然性は全くない。まして駿河追放直後こそ、「御当主様の舅殿」として厚遇されたが、その後京都と駿河を往復しており、信虎が極端に万人の恨みを買う人間だったら、何処かで暗殺されたり、拉致されたりしたこともあり得た。
まあ、「名家・甲斐源氏の前当主」・「信玄の父」という肩書故、下手に手に掛ければ武田家の怒りを買うだけで何のメリットも無かっただろうけれど。
まあ、色々書いたが、晴信が信虎を追放することに、家中も、信虎の子供達も反対しなかったのだから、信虎の晴信に対する接し方に非はあったものの、「親殺し」という悪手を辞さない程には憎まれていなかったのだろう。歴史小説の中には信虎追放を、信虎を各地へのスパイとして怪しまれずに放つため、父子で図った茶番だったとするものまであるが、さすがにこれを史実とは受け止められない(苦笑)。ただ、信虎が最終的に駿河を追われたのも、「晴信の駿河侵攻を手引きしたため。」との説も囁かれることがあるが、信虎が勢力拡大を続ける晴信に期待し、間諜として暗躍することを考えるようになったというのはあり得る話ではある。
少なくとも、経緯はどうあれ、最終的に両者の間に憎しみは無かったと思われる。
さて、最後に個人的に少し気になることを触れたい。
まずは下の肖像画を見て欲しい。
これは、信虎の三男・信廉が描いた「絹本著色武田信虎像」である。現在、信虎が創建した大泉寺に納められている。当時の絵画、肖像画に対する考え方には全くの無知であることを承知の上で述べさせて頂きたいが、子が父を描いた絵にしてはどうにも異様に感じられる。
信廉が絵画を趣味にしていたのは有名で、彼は実母・大井夫人の肖像画も描いているが、双方を見ても「下手の横好き」などではなく、それなりの技量があり、大井夫人像は普通の肖像画に見える。しかし、この信虎像頭頂部や後頭部の出っ張りが異様で、目もそれこそ「虎」の如き眼光を放っている。
そりゃ、まあ古代には少々異様でも、強面であることが強さを示すものとされたこともあり、そこを狙ったある種のデフォルメである可能性も充分にあるが、それらを考慮に入れてもこの信虎像の眼光にある種の「毒」を薩摩守は感じてしまうのである。
子のその後 武田信虎の死後八年を経て、天正一〇年三月一一日に武田家は滅亡した。 医学が未発達で、幼児死亡率の高かったこの時代の常で、信虎も嫡男・信玄を初め、何人もの我が子に先立たれている。
存命中だった息子達も、天正三(1575)年の長篠の戦いで信実が戦死し、天目山の戦い（武田崩れ）に前後して、信廉、一条信龍、信友達も命を落とし、「信虎の子」の歴史はここで終わった。
ただ、孫の中には辛うじて信玄の末子・信清が上杉氏に仕え、後々米沢武田氏の祖となって信虎・信玄の血を現在に伝えている。まあ、武田本家の滅亡は「相手が悪かった。」と見るべきで、信虎は勿論、信玄・勝頼といった個人にその責を求めるのは妥当とは云えないだろう。
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令和七(2025)年一一月二三日 最終更新