第陸頁 斎藤道三 「蝮」と呼ばれた男への応報
名前 斎藤道三(さいとうどうさん) 生没年 明応三(1494)年(永正元(1504)年とも)〜弘治二(1556)年四月二〇日 地位 美濃国主 著名な子 斎藤義龍、濃姫 周囲への「毒」 漆 子への「毒」 肆 毒素 戦国屈指の梟雄振り
略歴 「美濃の蝮」との二つ名で有名な斎藤道三は何かと謎の多い人物で、生年も二説あり、一介の油売りから下克上で美濃一国を乗っ取った成功譚も、父子二代で為したものと云われるようになって久しく、恐らく余程確実な証拠でも出て来ない限り、その実像は揺れ続けるだろう。 それ故、様々な説まで述べ出すとキリがないので、本当に「略歴」に留めたい(苦笑)。
まずは軍記物や俗説に依存した面の多い論述であることを予め御了承願いたいのだが(苦笑)、一般に明応三(1494)年生まれとも、永正元(1504)年生まれともされる斎藤道三は、代々北面武士を務める松波左近将監基宗の子として山城国乙訓郡西岡で生まれたとされる。幼名は峰丸。
一一歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房(某リトルボギーの房と名前が似ているのが気になる(苦笑))の名で僧侶となったが、還俗して松波庄五郎と名乗り、その後奈良屋又兵衛の婿となり、山崎屋庄五郎を名乗って油売りをし、美濃での行商で成功を収めた。
その後僧侶時代の弟弟子を頼り、長井長弘の家臣となり、長井氏家臣・西村氏の家名を継いで西村勘九郎正利を称し、武芸と才覚で長井家中にて頭角を現すと美濃守護・土岐政房の次男・頼芸の信頼を得るに至った。
頼芸が兄・頼武との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永七(1527)年八月、頼武を越前へ追いやり、頼芸の守護就任に大きく貢献。だが、享禄三(1530)年一月、長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎正利を名乗り、更に力を伸ばすと斎藤山城守秀龍を名乗り、出家して道三と号した後、天文一一(1542)年に大桑城を攻め、頼芸を国外敗走させて美濃国守となった…………………………とするのがかつての定説だった。
しかし、昭和期に史料が発見されたことで、土岐家家臣として頭角を現すまでは道三の父・長井新左衛門尉の逸話であるというのが定説となった。
道三自身が確かな史料に名前を現すのは天文二(1533)年のことで、このとき道三は、長井新九郎規秀と名乗っていた。この年の六月以前に父・新左衛門尉から家督を継承した。
ともあれ、道三による下克上に対し、土岐頼武の子・頼充は越前朝倉氏・尾張斯波氏の助力を得て、天文一三(1544)年九月に美濃へ侵攻したが、道三は城から打って出て反撃し、これを撃退した。これに従軍していた織田信秀は道三の力に目を見張った。
天文一五(1546)年、頼芸・道三と頼充との間で和議が結ばれ、頼充の帰国が実現。和議の内容は頼芸の跡を頼充が継ぐという既定路線の確認だったとみられ、このときに道三の娘を頼充に嫁がせている。
だが、翌天文一六(1547)年一一月一七日、頼充は病死。『信長公記』は頼充を道三が毒殺したとしている。いずれにせよ、これ以降道三は暗殺などの手段によって権力を増大させていく。
この時期、織田信秀との間に和睦が成立し道三の娘・濃姫が信秀の嫡子・信長に嫁ぐこととなった。
天文一九(1550)年頃、道三は頼芸を追放することで美濃を手中に収めた。だが、依然頼芸は健在で帰国を画策しており、幕府との関係は良好なものではなかったが、天文二二(1553)年には、他国の大名・有力者同様伊勢神宮正遷宮費用の供出を求められており、その頃には幕府からも事実上の美濃国主として黙認されていたと見られている。
天文二三(1554)年、道三は嫡男・高政(義龍のことだが、彼がその名を名乗ったのは道三弑逆後。ただ、ややこしいので、本作では「義龍」で通します)に家督を譲って隠居した。
ただ、拙房でも何度も皮肉った話だが、家督を譲っても実権を手放さない「御隠居」は歴史上枚挙に暇がなく(笑)、道三も息子にすべてを任せてのんびりする珠ではなかった。
『信長公記』によると、隠居してすぐに道三は義龍を愚か者、次男・孫四郎龍重や三男・喜平次龍定の方が利口者と考え、喜平次に名門一色氏を継がせようとした。これに対し義龍は弘治元(1555)年一〇月一三日から仮病を用いて伏せっている振りをした。一一月二二日に道三が稲葉山城から城下の屋敷に下ると、弟二人を呼びつけ、側近・日根野弘就に二人を斬り殺させた。そのことを知らされた道三は仰天し、肝を冷やしたものの、直ちに人を集めて火を放ち、山県郡の山中まで引き揚げた。
翌弘治二(1556)年四月二〇日、道三と義龍の軍勢は激突した(長良川の戦い)。
兵力で大きく劣る道三方は、奮戦むなしく圧倒され、道三は長井忠左衛門に組み付かれたところを小牧源太に首を取られた。道三の援軍のため娘婿の信長も大良口まで出陣したが、道三を討ち勢いづいた義龍軍に攻められ、あえなく撤退した。
毒親振り 骨肉の争いが珍しくなかったとされる戦国時代だが、父子相克は意外に少なく、多くは「兄対弟」、または「甥対叔父(←「伯父」であることは少ない)」だった。
同時に父子が合い争った場合でも、勝った方が負けた方の命を取ることは稀だった。父に反逆した者としては武田信玄が有名だが、周知の様に信玄は父・信虎の命を奪わず、追放に留めた。だが、それでも信玄は実父追放を(敵勢力による貶めが目的だったのだろうけれど)悪し様に罵られた。
それもこれも当時の儒教思想の強さがあると思われる。信玄自身、やむを得ぬ処置だったとはいえ親不孝を感じていなかった訳では無く。「風林火山」の旗印にしたように『孫子』を愛読していたことは有名だが、逆に負い目から『孟子』を手に取ることはなかったと云われている。
話を斎藤道三に戻すが、要は「実際に息子に殺された。」という史実は戦国時代基準で見ても、極めて異例且つ、衝撃的な出来事だったということである。
では何故道三はそんな世にも稀有な、息子による親殺しの目に遭ったのか?そこに「毒親」としての斎藤道三を検証するポイントがあるのは余人の言を待たないところだろう。
一般に云われていることは、「義龍が道三の実子ではなかった。」とする説だろう。
道三は旧主・土岐頼芸の寵姫・深芳野(みよしの)を下げ渡されたが、このとき既に深芳野は義龍を身籠っていた可能性が有り、道三が義龍を「自分の子では無いのではないか?」と疑いの目で見て、それが為に実子であることに間違いのない龍重・龍定の方を偏愛し、義龍の廃嫡を考える様になり、それに対して義龍が反抗した…………とするものが一般的である。
ただ、義龍が道三の子ではないとの説は昨今では否定されているらしい。また、道三が龍定の方を可愛がったのは事実の様だが、龍定には室町幕府の名家である一色氏を継がせようとしたものの、斎藤家の家督を義龍から剥奪しようとしたという証拠は史書からは見当たらない。
以上のことから推察するに、出自の謎はともかく、道三が義龍よりも龍定を可愛がり、優遇したのは間違いなさそうである。確かに斎藤家の家督自体は継いでいたが、「略歴」にも記したように元々が武士の出ではなく、立場に応じて姓をコロコロ変えている道三一家に在って、「斎藤」という姓にどれほどの重みがあったのかは疑問である。
更に深堀りするなら、「斎藤」よりも「一色」の方が様々な意味で重みがったのは間違いなさそうで、少なくとも義龍は「斎藤」よりも「一色」を重んじた。実際、義龍は道三弑逆後、姓を「一色」に改め、家臣達にも一色家重臣の姓に改姓させた。
有名な西美濃三人衆の安藤守就や氏家卜全も改姓したものである。このことからも義龍が一色家を継承させて貰えなかったことを深く恨んだであろうことが推測される。
勿論、「名跡だけの問題で悪評高い親殺しをするか?」という疑問は残る。恐らく名跡は要因の一つで、やはり義龍は道三に愛されず、不当な待遇を受けたと思われる。
その傍証となるのは、長良川の戦いにおける戦力差と、戦後の美濃安定にあると薩摩守は見ている。早い話、人望は道三よりも、義龍に方にあった、悪評高い「親殺し」に家臣達の多くが加担したのも、道三に「息子に殺されるのも無理はない。」と思われる程に周囲から怨まれていたか、義龍への待遇が不当だったか、或いはその両方が考えられる。
斎藤道三という人物、娘婿である織田信長と馬が合ったり、まだ「うつけ者」と呼ばれた頃の信長の力量・将来性を見抜いていたりしたことから、信長を主人公とした伝記やドラマでは好意的に描かれる傾向にあるが、薩摩守が美濃の住人だったら、絶対に突き合いたくない手合いである。正に渾名である「蝮」の如き毒人物と見ている。
確かに、一介の油売りから美濃一国を奪取した手腕は只者である筈がなく、下剋上を地で行った興味深く、有能な人物である。だが、恩こそ有れど怨みの無い長井家・土岐家という主筋に対する仕打ち・裏切り・振る舞いは個人的に許せないし、当該家中や郎党の怨みを買わない筈がない。
民に対しては悪政を敷いたという話は聞かないが、敵には容赦なく、自分に逆らった者を釜茹でにした際に、その身内に釡の火を焚かせたと云う……………。
勿論道三の下克上に従って得をした者も少なくないだろうから、好きになれない人物だからと云って悪人呼ばわりしたり、非難一辺倒をしたりするつもりはないが、少なくとも常に敵を作り、利得で味方する者と、陰謀で敵対した者という味方と敵対の棒引きの上に成り立つ非常に危険な生き方であることは誰も否定出来ないだろう。
正直、道三の如何なる言動が義龍をして、親殺しという悪行には知らしめたかの詳細は、薩摩守の研究不足で不詳である。単に廃嫡の危機を迎えたり、偏愛から外れたりしただけで義龍が共に育った父や弟を手に掛けたと云うのも考え難い(それだけで血肉を分けた父弟を殺す様なら、家中がついてこなかったと云う意味で)。
逆に単純な推測になるが、薩摩守的には、道三が敵を作りまくる人間だったことに在ると思われる。
道三についていくことで得をした人間は決して少なくなかったと思われるが、その中の何割が後々も安心して道三について行けると思っていただろうか?少なくとも薩摩守が斎藤家中の臣だったら、全く安心出来ない(苦笑)。
月並みな推測だが、やはり道三は「蝮」という二つ名同様、「毒親」以前に、「毒人間」だったのだろう。
子のその後 まあ、ほぼ上述している。
斎藤道三の子は四人。まず道三生前(というか死の直前)に次男・龍重と三男・龍定が落命している。他ならぬ嫡男・義龍の手によって………。
末娘の濃姫は織田信長の正室として知名度は高いが、その実態も最期も不明であることが多い。道三が義龍に弑逆されたことに対し、自身は父の死を深く悲しみ、夫・信長も道三と蜜月であったことから夫婦して義龍を敵視したと云われているが、その後の濃姫は不明で、織田家が斎藤家と手切れになったからと云って離縁された訳では無かったが、自身は信長の子を産むことなく、歴史小説などでも端から「子を産めない女」と書かれることが多く、程なく史書から姿を消した。
その最期も、早世した説、本能寺の変で夫と運命を共にした説、信長横死後も生き延びた説があるが、いずれも決め手に欠けている。彼女には可哀想だが、信長の愛情はどうあれ、織田家的には然程重要な人物と云う訳でもなかった。
そして道三を弑逆した義龍は、その五年後の永禄四(1561)年五月一一日に三三歳の若さで病没した。義龍を「義父の仇」と敵視していた信長は前年に難敵・今川義元を桶狭間の戦いで返り討ちにしており、ようやく仇討ちに本腰を入れようかとしていた矢先のことだった。
道場主が小学生時代に読んだポプラ社の伝記では信長と、それに伴って道三に好意的だったため、若死にした義龍を「祟られたか」と記していたが、薩摩守に云わせると、義龍よりも道三の方を祟りたい人の方が多いと云いたい。
結局信長が尾張や東方の問題に一段落を付け、美濃を睨めるようになった頃には義龍は没し、龍興の代になっていた訳だが、斎藤道三の因果はしっかり子々孫々に返ってきた訳で、そういう意味でも道三は「毒親」にして、「毒人間」だったと云えよう。
次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る
令和八(2026)年一月八日 最終更新