第漆頁 最上義光 愛情が強過ぎた?

毒親File漆
名前最上義光(もがみよしあき)
生没年天文五(1546)年一月一日〜慶長一九(1614)年一月一八日
地位羽州探題
著名な子最上義康、駒姫
周囲への「毒」
子への「毒」
毒素とんでもない我の強さ


略歴天文五(1546)年一月一日、出羽最上家第一〇代当主・最上義守と母(小野少将の娘)との間に長男として山形に生まれた。幼名は白寿丸

 永禄三(1560)年、一五歳で元服し、室町幕府第一三代将軍・足利義輝より「」の偏諱を賜り、義光と名乗った。後に妹・義姫が嫁いだ米沢の伊達輝宗が義輝より、「輝」の偏諱を賜ったことと比較すると、当時最上家はそれなりに力を持っていたことが伺える(足利家の通字である「」の字を賜るにはかなりの献金が必要)。

 同年三月に、寒河江城攻めにて初陣。但し、この寒河江攻め自体は失敗に終わり、義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。
 永禄六(1563)年、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁。永禄七(1564)年には妹・義姫が伊達輝宗に嫁ぎ、伊達家との和睦が成立。義姫は永禄一〇(1567)年には嫡男・梵天丸(政宗)を生み、このことが両家に大きな影響を与えることとなった。

 元亀元(1570)年、義守と義光の間で諍いが勃発。重臣・氏家定直の仲裁で父子は和解し、。翌元亀二(1571)年八月、義守は出家して、義光が家督を継承した。

 だが、天正二(1574)年一月、再度父子の間が険悪化し、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で山形に出兵。これに重臣達が輝宗に同調したことで義光は四面楚歌に陥ったが、巧みにこれらを退けた。
 九月一〇日には義光は伊達家と有利は条件で和議を結び、以後、義守・義光父子は完全に和解した。

 一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上家の庶流一族は依然として義光に従わず、天正五(1577)年〜天正一五(1584)年に掛けて義光は国人衆と時に干戈を交え、時に謀略を駆使し、時に米沢の伊達、越後の上杉景勝と戦闘や和睦を繰り返した。
 奥州の血縁関係は複雑で、天正一六(1588)年二月、伊達政宗が一万の軍勢で義光の義兄・大崎義隆を攻撃すると、義光は援軍五〇〇〇を送って義隆と共に伊達軍を破ったが、妹・義姫が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。

 この間、中央では豊臣秀吉が関白となって天下を掌握しつつあり、同年閏五月、義光は秀吉により羽州探題に任命された。直後、越後の上杉景勝が家臣に庄内侵攻を命じ、義光は庄内地方を上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還されるなどして上杉軍との苦闘が続いた。
 結局秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認されたが、義光は秀吉・徳川家康と巧みに付き合い、天正一七(1589)年五月、家康から伊達家重臣・片倉景綱に政宗と友誼を篤くするよう要請した書状が送られ、義光摺上原の戦い(伊達政宗が会津の芦名義広を滅ぼし、奥羽における覇を確立した戦い)に援軍を送った。

 そして天正一八(1590)年、秀吉の手で小田原の北条氏が滅ぼされ、天下は統一された。
 秀吉は奥羽の諸大名に参陣を命じ、義光も政宗も小田原に参陣して、秀吉に臣従した。
 このとき、政宗が処刑と紙一重をパフォーマンスで辛うじて乗り越えたのは有名だが、この参陣に義光は政宗より遅れて着到した。
 ただ、この遅参は直前に没した父・義守の葬儀のためで、事前に家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった。

 天正一九(1591)年一月、京都に上洛し義光は従四位下侍従に補任され、秀吉に重用される一方で家康とも誼を重ね、家康が豊臣秀次と共に九戸政実の乱征伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。
 またこの討伐に同行していた秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った。義光駒姫の年少を理由に断ったが、秀次の要求は執拗で、渋々娘を差し出すこととなった(一応は駒姫の成長を待つ名目で延期させた)。
 一方で三男・義親を秀吉に仕えさせ、秀吉との誼も欠かさなかった。

 だが、文禄四(1595)年七月八日、秀次は謀叛の疑いで高野山に軟禁され、一週間後に切腹に処された(秀次事件)。秀次の妻子も連座し、悲惨なことに輿入れの為に京都に到着したばかりの駒姫も連座を免れなかった…………。
 義光は家康を初めとする伝手という伝手を頼り、必死に助命嘆願を行い、まだ輿入れも終わっていなことを理由に秀吉も処刑に及ぶまい、としたが、既に処刑は行われた後だった。駒姫が初めて対面した夫は晒された生首だった…………

 秀次事件では秀次と懇意だった諸大名の疑惑の目を向けられ、浅野幸長が入るとなった。秀次と懇意だった徳川秀忠、秀次から金を借りていた細川忠興などは特に危なかったが、何とか難を逃れた。
 義光も疑惑の目を向けられ、前田利家・上杉景勝等二八名とともに連名で秀吉・秀頼に対して異心の無いことを記した起請文を出したが疑いは晴れず、政宗と共に謹慎処分を受けた。
 程なく処分は間もなく解けたが、娘のこともあり、この一件で義光は完全に秀吉に見切りをつけ、慶長伏見地震の直後、秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけ、家康との繋がりを強めていった。

 慶長三(1598)年に秀吉が没し、翌慶長四(1599)年に五大老の一人・前田利家が没すると家康一強色が強まり、家康は慶長五(1600)年に砦を補強し、軍備を増強していた会津の上杉景勝を詰問。これが関ヶ原の戦いに繋がったのは周知の通りだが、義光は他の奥羽諸将とともに従軍した。
 そして石田三成らが、家康弾劾の兵を上方で挙げると家康は会津攻撃を中止し上方に引き返した。このとき、義光は政宗、結城秀康(家康次男)等と共に景勝への抑えを命じられた。

 そして運命の九月一五日、天下分け目の戦いは東軍の大勝利に終わった。数日後のこの事実を知った義光は攻勢に出た(長谷堂城の戦い)。
 義光は二〇〇〇挺の鉄砲を駆使して戦い、嫡男・義康を派遣し、伊達政宗に援軍を要請した。
 九月二九日に上杉軍は長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却。一気に追撃して大勝利を収め、旧領の奪還にも成功したが、殿軍を務める直江兼続の激しい抵抗に遇い、兼続の首は取れず、自らも兜に被弾した(まあ、これは義光が弱いではなく、兼続が凄かったと見られているのだが)。

 戦後の論功行賞で義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められる等して五七万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。石高こそ六二万石を得た甥の政宗の方が勝ったが、加増率では義光の方が大幅な厚遇だった。

 徳川の天下となると義光は領内の復興に尽力。戦場での暴れ振りとは裏腹に民に対して義光は非常に寛容であり、義光存命中は一揆も殆ど起きなかったと云われる。
 山形城改築を皮切りに城下を街道・定期市・用水路を充実させ、藩財政を大いに潤した。

 だが、家庭内では不幸が起きた。
 慶長八(1603)年、義康が何者かによって暗殺された。義光は隠居こそしていなかったが、既に義康が最上家の次期当主として家臣に偏諱を与える程の権限を有していたこともあって、家中は激しく動揺した。
 結局、慶長一〇(1605)年、家親が侍従に補任される。元々家親は家康に可愛がられていたこともあり、義光は益々家康への傾倒を強め、慶長一六(1611)年三月、上洛して従四位上、左近衛少将と出羽守に任官された帰りに駿府城新築祝いのために駿府に参上したが、この頃から病がちになった。

 慶長一八(1613)年体調は一層悪化し、正月の拝賀は代理の使者が赴いた。三ヶ月後に病身を押して江戸に上り、将軍・秀忠に謁見し、同年九月に駿府で家康に謁見すると最上家の今後を懇願し、家康から薬などを下賜され、帰りに江戸城で秀忠に拝謁した際は、家親が江戸に在勤している間の国役三分の一を免除されるなど、自身は最後の最後まで徳川家との懇意を保った。そう、自身は…………。

 だが、これが限界で慶長一九(1614)年一月一八日山形城にて病没した。最上義光享年六九歳。


毒親振り 採り上げておいてなんだが、実のところ、薩摩守は最上義光を然程毒人物とも、「毒親」とも見ていない。
 確かに戦場では(個人としての武勇を含め)勇猛で敵に容赦なく、父親や重臣、国人衆とも陰に日向に暗闘を展開し、時に謀略も辞さなかったが、戦国の世に在って珍し話ではない。民衆には全く」は無く、対象としても、為政者としても一級の人物で現代の山形県でもかなり尊敬されている。
 まあ、少し恥を晒すと、道場主が義光という人物を知ったのは、昭和六二(1987)年放映のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で、長年故原田芳雄氏の怪演によるイメージを引き摺っていたことを白状する(苦笑)。
 このドラマにおける義光は陰険な謀略も辞さず、義姫(岩下志麻)と伊達輝宗(北大路欣也)との婚姻も、「義姫に政宗(渡辺謙)出産後に輝宗の寝首をかかせ、政宗を人質に山形に返り、伊達家に降伏を迫る。」というもので、小田原参陣直前の政宗毒殺未遂も義光が義姫を唆したことになっていた。

 さすがにあれから四〇年近くの時を経て尚、大河ドラマを鵜呑みにしないし、義光をかなりの怪人物に描いていた同ドラマでも、根は愛情深い人間で、義康(畠山久)・駒姫(坂上香織)の死を激しく嘆いていたのは認識している。

 だが、義光には酷な書き方になるが、良かれと思ってやったことでも親としての義光の立ち居振る舞いは子供達に不幸を招いたように薩摩守には思われる。勿論これは義光だけの責任ではない。  まず、最上家、というか奥羽諸大名家の不幸に複雑な血縁関係が有った、と薩摩守は捉えている。早い話、奥羽の人々は「身内だらけ」だった。伊達政宗の曽祖父・稙宗は艶福家で、多くの娘を奥羽の諸氏に嫁がせたため、大名間でも血縁の全くない者を探す方が難しかったぐらいで、そうなると嫡男に生まれた者もその地位は油断ならなかった。
 普通、正室が最初の男児を産めば、その人物が余程暗愚でない限り後継者としての地位は安泰である。まして義光は有能な人物で、間違っても馬鹿ではない。だが、複雑な血縁関係が背後にあると、次男・三男・四男、それも母親が異なるとその実家が後ろ盾となって暗躍し、容易に家督争いが起きる。
 義光自身、弟・義時を手に掛けているが、これは実際に義時が謀叛を起こしたので、敗れて殺されたのは止むを得ない話で、家督を譲りながら横槍を入れた父・義守が悪いと云えなくもない。そしてそんな家督争いが容易に置きかねない状態は引き摺られ続け、義光死後にまで影響した。

 「略歴」で上述した様に、義光には義康家親義親駒姫を初め、他数名の子女がいた。義光が子供達を虐待したり、冷遇したり、といった話はない。唯一、嫡男・義康の死が義光による暗殺とされることがあるが、決定的な証拠はなく、義康の死には謎が多い。
 巷間にて良く云われることは、義光の直臣と義康の直臣との仲が悪く、讒言が繰り返された為に義光義康を疎んじる様になり、徳川の天下を睨む義光が徳川家と懇意である家親を次期当主にする為に義康を誅殺した(または家康がそのように唆した、または義光が忖度した)というものである。
 他にも、家臣の暴走説もあれば、単に急病死としたものもある。ただ、確実な史実として、義康秀次事件で危機に陥った父の無事を神仏に祈願した心優しい人物で、義康の言動を知れば知る程義光はその死を激しく嘆いたということである。

 そして次男・家親以下の息子達だが、彼等は最上家安泰の為に、義光によって有力者への伝手に使われた。勿論それ自体は悪いことではないし、誰しもが普通にやっていた。だが、伝手を重視し過ぎた結果、息子同士の仲が悪化した。
 家親は徳川家と懇意にしたことで、義康早世後に最上家の家督を継承したが、豊臣家に仕えさせられた三男・義親との仲が悪く、義光死の直後にして大坂の陣直前に家親義親を攻め殺している…………。義光が兄弟愛という物をどう教育していたかは分からないが、父や弟と争っていた義光には兄弟愛を説く説得力が伴わなかったのかも知れない。

 そして駒姫である。
 駒姫の悲惨な最期は上述したので繰り返さない。ただ、その最期を義光は妻と共に激しく嘆いた。殊に駒姫の母は悲嘆にくれ、娘の死から二週間後にこの世を去っている。自然死とは考え難いし、病死だとしても相当な心労を受けてのものであることは想像に難くない。故に、義光が妻と共に駒姫を溺愛に近い愛情を注いでいたことに疑いの余地は無いだろう。
 酷な書き方になるが、それならそれで義光は有力者に対して八方美人に振舞わず、豊臣秀次からの求愛を拒むべきだったと薩摩守は考える。勿論、関白である秀次の要求を拒むのは簡単な話ではない。また、この事件における愛娘の惨死を受けて義光は完全に豊臣家を見限り、徳川一択を固めたのだから、単純に八方美人的に子供達を有力者と懇意にする手駒としていたのチョット違うとは思うのだが。

 義光自身は間違いなく我が子を愛し、秀吉・秀次・家康への伝手を務めさせたのも、考えようによっては自分が政争に敗れても、いずれかの子供達が確実に生き残ることを考えたのかも知れない。  実際、親徳川路線は間違っておらず、最上騒動における改易後も、四男義忠は水戸徳川家に仕えることが許され、その子が時代劇でも有名な水戸藩家老・山野辺兵庫となったし、本家も一応は小大名、旗本として生き残った。

 結果だけを見て義光を「毒親」とするのは我ながら酷い書き方をしている気がしないでもないが、軍事も謀略も民政も一級品だった義光がもっと子供同士の仲を固めていれば最上家はだけに勝るとも劣らない大大名として存続していたのでは?と思うと最上義光には勿体ないものを感じる故に、敢えて「毒親」として取り上げたことを付記しておきたい。


子のその後 上述した様に、義康駒姫は不幸な形で父・最上義光に先立った。後は徳川家と懇意であった次男の家親が家督を継いだが、家親は徳川家に随身する余り、豊臣家に仕えていた弟・義親 (義光三男)と仲が悪く、大坂の陣直前に弟をその手に掛けた………それを義光のせいにするのも些かおかしな話だが、義光以前から最上家には「兄弟愛」という言葉がなかったのか?と思われてならない。

 そしてその家親だが、元和三(1617)年三月六日に三六歳で急死した。その死には謎が多いだが、一説によると猿楽を見ていて、それを笑いながらそのまま死んだと云う異常なもので、多くの者が暗殺を疑った(上述の大河ドラマでは嫉妬に狂った側室に寝ているところを滅多刺しにされて殺されていた)。
 家親の後を継いだ義俊は露骨に暗殺を疑い、叔父・義忠(義光四男)が父・家親を暗殺した、と幕府に訴えた。この突拍子もない訴えに対し、幕府では家親の死を自然死として、義俊の訴えを退けた。
 結局、その後も最上家中の内紛は絶えず、幕府の仲裁も受け付けなかったため、最上家は改易(正確には大幅減封)となった(最上騒動)。草葉の陰で義光はどんな想いでいたことだろうか。




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令和八(2026)年一月二〇日 最終更新