第捌頁 徳川秀忠 チョット、云い過ぎかな?
毒親File壱
名前 徳川秀忠(とくがわひでただ) 生没年 天正七(1579)年四月七日〜寛永九(1632)年一月二四日 地位 江戸幕府第二代征夷大将軍 著名な子 徳川家光、徳川忠長、千姫、和子 周囲への「毒」 参 子への「毒」 参 毒素 度の過ぎた公平公正重視
略歴 何だかんだ云って、何度も採り上げている人物なので本当に「略歴」に留めたい(苦笑)。
天正七(1579)年四月七日に、浜松時代の徳川家康が最も寵愛した西郷局を母に、三男として生まれた。幼名は長松丸。長松丸が生まれたこの年に長兄・信康が切腹に処され、次兄・於義丸(結城秀康)が生母の出自故に半ば世に隠された存在だったために、半ば嫡男として育った。
天正一二(1784)年、小牧・長久手の戦いの講和条件として、於義丸が羽柴秀吉の養子となったため、長松丸は事実上の嫡男となった。講和成立後、父・家康が秀吉に臣従したため、長松丸も京都に住み、立場上は人質だったが、家康の継室となっていた朝日姫(秀吉妹)に可愛がられたことから秀吉の覚えも目出度く、上洛から僅か一週間しか経ない天正一八(1590)年一月一五日に初めて拝謁した秀吉から、「秀」の字を、松平家の通字である「忠」の字を与えられて、徳川秀忠として元服した。時に秀忠一二歳。
朝鮮出兵が始まると肥前名護屋に在陣した家康に替わって江戸に入り、後継者としての地位を固め、中納言に就任した。文禄四(1595)年に秀次事件が勃発した際は、豊臣秀次と仲が良かったことから一時窮地に陥ったが、辛くも逃れ、同年に浅井長政の末娘・お江を秀吉養女として婚約し、豊臣家との結び付きも強めた。
慶長三(1598)年に豊臣秀吉が薨去すると家康の実権がますます強まり、それを阻止せんとする石田三成・毛利輝元・宇喜多秀家やとともに反家康の兵を挙げると関ヶ原の戦いが勃発。初陣となる秀忠は本多正信、大久保忠隣、榊原康政と云った譜代の重臣達と共に三万八〇〇〇の兵を率いて中山道を西上した。
だが、途中信州上田城で真田昌幸の迎撃に遇い、老練な真田勢相手に日数を浪費し、遂には上田城を打ち捨てて関ヶ原に向かったが、遅参した上、関ヶ原の戦いは秀忠抜きで東軍大勝利に終わり、秀忠は家康からの面会も許されず、一時は徳川家後継者としての地位を失いそうになった。
重臣達の中には家康の後継者に次兄・秀康や、秀忠の同母弟・松平忠吉を押す者もいたが、結果的に関ヶ原の戦いにおける論功行賞として秀康には越前、忠吉には尾張の大身が宛がわれ、秀忠は家康の側近くに留め置かれ、慶長八(1603)年に家康が征夷大将軍になると僅か二年後に秀忠が将軍職を譲られ、徳川家による将軍位世襲と、秀忠の後継が内外に布告された。
第二代征夷大将軍として江戸に入り、謀臣・本多正信の補佐を受けたが、実権は駿府に隠居して大御所となった父・家康に握られ続けた。
一方で妻・お江との間には子宝に恵まれ、当初こそなかなか男児に恵まれなかったが、将軍就任の前年には嫡男・竹千代(家光)が生まれ、それ以前に生まれた娘達も豊臣家を初めとする名家に嫁ぎ、徳川家の血縁関係を盤石化させた(詳細後述)。
家康と、豊臣秀吉が生前に交わした約束により、家康が将軍になった慶長八(1603)年に、秀吉の遺児・秀頼と、秀忠の長女・千姫(両者の母親が姉妹で、従兄妹同士でもあった)が婚姻し、豊臣家と徳川家は二重三重の姻戚となった。
だが、豊臣家は徳川家に完全服従するに至らず、慶長一九(1614)年、大坂冬の陣が勃発。この戦いはすぐに講和が成立したが、翌慶長二〇(1615)年に大坂方が、家康からの大坂城退去か浪人衆追放の命令を拒み、大坂夏の陣が勃発。今度こそ総大将に慣れると期待した秀忠だったが、やはり家康は軍権を手放さなかった。
五月六日、七日の戦いで豊臣方は薄田兼相、後藤又兵衛、木村重成、真田信繁(幸村)といった勇将を失い、八日に大坂城は炎上し、豊臣秀頼は母・淀殿と共に自害し、戦国最後の戦いは終わった。
戦後、秀忠は家康と共に幕藩体制の盤石化に尽力。武家諸法度を初めとする諸法度を制定して、大名・皇室・公家・寺社による反幕府的な動きを封じ、元和二(1616)年四月一七日に家康が薨去すると完全な最高権力者となった。
権力的には天下に並ぶ者のいない状態となった秀忠だったが、自身を父に遠く及ばない人間と自認し、守成の二代目に徹する一方で、豊臣恩顧を初めとする有力大名を次々に改易する辣腕を振るい、末娘・和子(まさこ)を朝廷に嫁し、皇室への発言力も強めた。
元和九(1623)年、将軍位を嫡男・家光に譲り、大御所となったが、政治の実権に関しては「以下、同文」であった(笑)。
寛永六(1629)年頃から体調を崩し、寛永九(1632)年元旦に小大名の拝賀を受けたのが最後の政治活動となり、同月二四日に薨去した。徳川秀忠享年五四歳。奇しくも六年前に逝去した愛妻・お江と同年齢だった。
毒親振り 正直、本作で採り上げる人物の中に徳川秀忠をカウントしたことには些か罪悪感を抱いている。もし秀忠が草葉の陰のこのサイトを見れば、「何故余が名を連ねておるのじゃ!?」と激怒したことだろう(苦笑)。
だが、予め述べて追いたいが、個人的に薩摩守は徳川秀忠を嫌ってはいない。どちらかと云えば好意的に見ている人物である。偏に、偉大な先代を持ち、守成にすべてを犠牲にせざるを得なかった二代目の悲劇を世に示す為にも、秀忠を敢えて「毒親」としてとしてカウントさせてもらった。つまるところ、高過ぎる地位は私よりも公を重んじざるを得ず、それが親として「毒」にならざるを得ない面があることを示したい訳である。
征夷大将軍に限らず、高貴な家に生まれる事云う事は、それゆえの幸福もあれば不幸もあるだろう。前者で云えば、食うに困ることはなく、衣食住において万人が羨やむ日々を(御家のとんでもない没落でもない限り)生涯保証される。だが後者を見れば、様々な意味で自由がなく、親も家臣も自分より公儀を重んじることになる。
それ故、長女・千姫に始まり、末娘・和子に至る二男五女達は個々に親である秀忠に対して想う所があったことだろう。細かく語ればキリがないので、台徳院殿(秀忠公)には申し訳ないが、それぞれの立場から見た「毒親」的要素をピックアップしたい。
長女・千姫
慶長二(1597)年に生まれ、翌年には今際の際に在った豊臣秀吉(←伯母婿でもある)の懇願により、祖父家康によって、従兄・秀頼との婚約が為され、七歳で嫁いだ。
秀頼には愛され、姑の淀殿からも「妹の子」として可愛がられたが、祖父と父は婚家・豊臣家を潰しに掛かり、大坂城・落城寸前に脱出して祖父・家康に秀頼と淀殿の助命を懇願。
孫娘可愛さに家康が折れかけたように見えたが、他ならぬ父・秀忠から、「何故に秀頼に殉じなかった!?」と叱責された。
次女・珠姫
慶長四(1599)年生まれ。二歳で前田利常との婚約が成立し、翌年に三歳で嫁いだ。政略結婚でありながら利常との仲は睦まじく、三男五女に恵まれたが、五女を産んだ後の肥立ちが悪く、二四歳で夭折。三歳で嫁いで後、父母と再会することは遂に無かった。
三女・勝姫
慶長六(1601)年生まれ。慶長一六(1611)年に一一歳で従兄・松平忠直(結城秀康の子)と婚姻。大坂の陣で越前勢は真田信繁を討ち取り、大手柄を立てたが、その後忠直は参勤を怠る様になり、元和九(1623)年に秀忠の命で隠居・謹慎・配流となった。
四女・初姫
慶長七(1602)年に長姉・千姫の婚姻に随行した母が伏見城で産気付いて出産。女児だったことから子の無かった伯母・常高院に請われて、父・秀忠と顔を合わすことなく京極家の養女となり、伯母の初名を与えられた。
長じて京極忠高の正室となったが、夫婦仲は悪く、子宝に恵まれないまま寛永七(1630)年に二九歳で早世。
五女・和子
慶長一二(1607)年、秀忠・お江最後の子として誕生。既に父は将軍に就任しており、二人の兄がいたことから政治的な駆け引きとは無縁に育てられるかに思われたが、五歳で祖父と父によって朝廷への輿入れが打診された。
大坂の陣や祖父の薨去、後陽成天皇の崩御等で延期が続き、その間に婚約者である後水尾天皇に他の女性との間に子がいることも発覚したが、元和六(1620)年に秀忠が婚姻を強行した。
二男二女を儲けたが、男児には夭折され、後水尾天皇と父・秀忠、兄・家光との仲は良いとは云えず、寛永六(1629)年に起きた紫衣事件に腹を立てた夫は幕府への当てつけ同然に退位し、長女が明正天皇として即位した。
嫡男・家光
慶長九(1604)年、五度目の正直で秀忠待望の嫡男として誕生し、徳川家嫡子に受け継がれる「竹千代」の名を与えられた。生まれつき病弱で、人見知りが激しかった故に、両親は乳母ではなく、自分の手で育てた同母弟・国千代(忠長)の方を偏愛。
祖父・家康による鶴の一声で三代将軍としての地位を確保し、表面上両親とも和解したが、腹の内では父を父と認めず、携帯していたお守り袋の中に入れていた紙面には自らを「二世将軍、二世権現」としていた(←つまり秀忠を親・先代と認めていなかった)。
次男・忠長
慶長一一(1606)年生まれ。母の懇願で乳母ではなく、実母の手で養育されたことに加え、身体頑健だったことから、一時は兄よりも両親から偏愛され、諸大名も家光よりも忠長の方を後継者と見做して媚びた。
祖父による鶴の一声で、家に在っては弟でも、将軍家に在っては家臣に過ぎないとの認定を受け、駿河・遠江・甲斐に五五万石を与えられて「駿河大納言」と呼ばれたが、満足せず、父に一〇〇万石か大坂城を求めたところ、父からも叱責され、兄との仲も悪化。
父を喜ばそうと江戸城西の丸で鴨を撃ち、その肉を夕膳に供したところ、一旦は喜んだ秀忠が西の丸で撃たれたものと知ると、「西の丸に鉄砲を射ち込むことは将軍への反逆に当たる!」叱責され、箸をつけることなく、膳は下げられた。
母の死後、増々兄との確執が深まり、奇行が目立ったことから父からも見放され、甲府に蟄居となり、父の臨終にも立ち会えず、父の死後自害した。
正直、様々な要因があり、秀忠を「毒親」とするには逡巡するものがあり、その地位故に「毒親」にならざるを得なかった気がしないでもない。
勿論秀忠に息子や娘に対する愛情が無かったとは思わない。
公的に発した言動には娘や息子に冷たいものもあるが、それも立場故のパフォーマンス的なものだろう。千姫が秀頼に殉じなかったことを罵ったのも、征夷大将軍として、首を挙げるべき大将の妻に対して甘い顔が出来なかった筈で、厳しい叱責も本意ではなかったと思われる。
幼年で嫁いだ珠姫、対面前に養女入りして顔を追わせなかった初姫に対してもしっかり愛情を持っており、顔は合わさずとも娘達からの書状による要請を度々受けていたと云われ、初姫が早世した際には臨終時に相撲見物に興じていた京極忠高を葬儀に参列することを許さなかったと云う。
一時は弟への偏愛から「親に疎んじられている!」と思い込んだ家光との仲がぎくしゃくした時期もあったが、秀忠自身は公のルールを重んじる人間で、いざ家光の将軍位が決まると決して粗略にはせず、それまでの偏愛から忠長が甘ったれるのを許さなかった。ただ、それまでの偏愛から忠長には多少は自分の行為を甘く見て貰えるとの甘えはあったと思われる。
次兄・結城秀康が徳川家を継ぐことなく、慶長一二(1607)年に三四歳で没した際、秀忠は「本当なら将軍になられる方だったのに。」と云って涙したと云われている。だが、だからと云って朝廷から任じられる征夷大将軍の地位や継承は自分の一存でどうにか出来るものではなく、初大名の手前、身内に甘い顔をできない局面もあったことだろう。
果てして、秀忠は自分の地位を喜んでいただろうか?「親」としてはかなり複雑なものを持っていたと思いたいところである。
子のその後 徳川秀忠は寛永九(1632)年一月二四日に薨去した。この時点で次女と四女に先立たれ、嫡男にまだ子が無く、次男は蟄居謹慎中で、内孫の顔を見ることなく、この世を去った。
長女と三女は夫に先立たれたものの、「将軍の姉」として隠然たる力を家中に持ち、子や孫の為に尽力する事が出来た。五女に関してはその娘を天皇とする事が出来たが、逆の見方をすれば、幕府と仲違いした後水尾天皇(和子の夫)が徳川の血統を皇統に残さない為に、皇子を得ない内に徳川との縁を切ったと見れなくもない。
そして悲惨だったのが次男・忠長である。詳細は繰り返さないが、家光と忠長の仲が最後まで修復することが無かったのが、秀忠が草葉の陰で嘆く一番の痛恨事だったのではあるまいか? 些か飛躍した者の見方だが、忠長の血筋を残せなかったことで、後々家光の血筋が途絶えた際に秀忠の血統が途絶えた遠因になったと云えなくもないだろう。
子供達にとっても、父・秀忠の持つ「毒」に悩みはしたが、「毒」そのものは誰しもが持つ。恐らくは父の地位が高過ぎる故に「毒」も「猛毒」にならざるを得なかったことを理解し、苦しみつつも、親を怨んだり、憎んだりはしていないことだろう。
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令和八(2026)年三月五日 最終更新